第17話
パパと良美の会話に入れないのか芙紗子の顔が石膏のように固まっている。涙が芙紗子の頬を伝わりだした。こんなことで芙紗子が泣く?
不思議な光景に思えたが久しぶりに良美に係われたことが嬉しかったのだろうと思った。それ以上の詮索は禁物と自分に言い聞かせた。
「ママもどうぞ」
良美は屈託無く言うが、芙紗子は背を向けたままだった。
「ママもどうぞ。早くしないとママお腹が空いてしまうでしょう。大変大変。ママが早く帰ってくるといいね」
「ママはここにいるでしょう。早く帰って来たでしょう」
芙紗子の顔が歪んだと思ったとたん、子どものようにしゃくり上げて泣いた。さめざめと泣く芙紗子、演技には思えないが、良美の言葉に反応することなど考えられない。何か言うに言われぬ事があるに違いない。初めて見る芙紗子の不思議な挙動に、茂の方が思考停止状態になった。何の涙なのだ。芙紗子に涙など想像も出来ない。その必然性もないだろう。と思い込んでいた。
茂は自分の感情を押し殺して芙紗子を見詰めた。芙紗子は感情の抑制が出来なくなったのだろう、泣き続ける。
良美の感情は一貫性がまだない。そのつどの思いを表すだけだ。芙紗子は最初良美に拒否されたと落ち込み『コップのお酒』に自分の存在を認めた良美に、芙紗子の感情は昂ぶった。その狭間で芙紗子の心は、動揺と心情が入り混じってしまったらしい。茂は、芙紗子の心に叫びたかった『日一日と変わる子どもの成長を見ていなかったことを、思い知っただろう』正直なところ喉までその言葉は出ていた。思いとどまらせたのは良美のつぶらな瞳だ。一点の曇りもない澄み切った心を、この場で諍いを起して、踏みにじることはすべきで無い。茂にはそれだけの許容がまだ残っていた。良美の心に傷となって残ってしまうことへの恐れだった。
茂は急いでおもちゃ茶碗をシンクに置いた。
芙紗子は、涙を拭かずに良美と食事の支度を始めた。おもちゃ茶碗を洗いながら振り向いた良美が、茂に向って言った。
「ハンケーチ、ちょっと、ママをいい子、いい子、しながら拭いてね」
さすがの芙紗子も声を上げて笑った。
「ありがとう。ママはもう泣かないからね。良美ちゃんに笑われてしまうから。ごめんね」
芙紗子は料理を作らせれば一流だった。料理学校へ通ったこともあると言っていたし、地下食料品の試食もしていた。OK出すにも自分の舌が肥えていないと駄目だしも出来ないと言うのが持論だ。最もだと思う。その卓越した感覚で中華料理の三品を手際よく作った。良美には良美の味付けをして作る。そんな腕を持っていながら、茂にまかせて、時にクレームをつけられた時は、諍いどころか、茂は怒りが頂点に達して、後一言芙紗子が口を開けば張り倒そうと思ったことが幾度もあった。
そんな険悪の時は何時も芙紗子が引き下がって、こと無くを得た『味を覚えるのも仕事のうちよ』それも分からない訳ではない。食品売り場の担当なら……。冷静に考えると何時も芙紗子は上手だと思う。ぎりぎりのところでさらっと引く。これも歳の差から来るものなのだろうか。その歳の差が二人のネックになっているとしたら、やはり俺茂は芙紗子の掌で躍らせられていることになる。
良美を寝かせて二人は今日こそ話し合わねばならない。一ヶ月はもう目の前と同じだ。茂の目論見は完全に狂ってしまっている。託児所の夢は儚く敗れ去った。まだ芙紗子に言ってなかったことがせめてもの救いだ。このままの状態で良美の面倒を見ることになることだけは避けたい。今になって保育士の勉強をしたことの悔しさは計り知れないが、マイナス面だけと考えることはない。その過程にあった人間関係いい勉強になった。元の職場に戻る気がなくなった時点で、次の展望を考え、下調べをし、自分と向き会って、適性するものを見出す。そこから何を勉強すべきかが抜けていた。衝動的に保育士を選んでしまった。この一年の夢は無駄だったと思うより、本を紐解でいた時は高揚する自分が居た。
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