第15話
「パパ、パパ、お買い物」
乳母車の上に立ち上がって叫ぶ良美。無邪気な声に、茂はパパの顔を取戻した。
「忘れるところだったね。ごめん、ごめん」
「パパ駄目でしょう、確りしないと」
二歳の我が子に諭されるとは面目ない。良美の楽しみを奪おうなんて考えていない。ちょっと気持が虚ろだった。毎日お菓子を一つと約束している。良美は決して忘れない。その一つを選ぶのに時間をかけて探す。二歳にして選ぶ仕草、芙紗子にそっくりだ。血と言うのは、隔たった時間に関係なく繋がるのだと良美を見ながら思う。
良美は大きな袋詰めのスナック菓子を選んだ。何時もは小箱に入ったのを持って抱えて食べている。
「今日はどうしてこれにするの?」
「大きいから、パパと一緒に食べるの」
良美は理解できないまでも、茂の様子の変化を感じ取っていたのだ。
「ありがとうね。お家に帰って食べよう」
茂は打ちのめされた胸中を誰にぶつけることも出来ぬまま落ち込んでいく。
それでも、山田と、杉田には断りの電話を入れておかないと。最初に山田に電話した。園長に聞いたことから察して、難しいどころか、不可能に近い状態であると言われたこと。まだまだ遠い夢だ。すまないが、何処か違う保育園を当ってくれないかと言うと、
「そりゃそうだな。われわれは少し甘かったのだ。もう少し時間を置いた方がいいな。坂谷さんは元の職場に戻れるのでしょう。一応そうしてじっくり考えませんか」
何か狐につままれたようだ。あまりにもあっさりと納得する。もっと勢い込んで始めようと言うのかと思い、気をもんだのは何だったのだろう。身体がふらつく。山田は俺よりもっと成熟された男なのだ。世の中を知っている。沈む気持ちを立て直した。杉田洋子に電話を入れておかないといけない。これだけは最低限のモラルだ。誘った以上断るにも早くするべきだ。電話に出た洋子は、
「わたし病院の栄養士の仕事が本採用になったの。託児所も遣りたいとは思ったのだけど、ごめんなさい。まさか本気で誘われたとは思わなかったもので……」
茂は頭も身体も無重力の空間にいるようで、ふあふあとさ迷いだした。女のシビアさには慣れているはずだが、ことも無く言ってのける女の心情は理解しがたい。自分はもてあそばれた気分だ。男の意地は絵に描いた餅。
自分みたいな凡人はついていけない。それとも自分は社会認識がずれているのだろうか。若さからの甘さなのだろうか。
三十半の茂は身も考えも無気力状態になった。頬に涙が伝わってくる。女々しい? そうじゃない。悔しい。その縮む心の一方で、誰かとコンセンサスを得たいという思いもしてくる。払いのけても、払いのけても芙紗子の顔が浮かんでくる。
ふあふあと極楽鳥が舞い降りてくる。何処をさ迷っているのだろう。
腕に暖かい温もりが伝わってきた。
「パパ、パパ、ご飯作るのよ。一緒に」
良美が腕にしがみ付いていた。あー、ここしかないのだ。俺の居場所。
良美のクルクルした瞳に助けられる。疑うことも、拒否することもしない澄んだ瞳。その「一緒にご飯作ろうよ」と言う良美の言葉が胸の中で熱くなる。
こんな感覚を初めて味わう。
夕飯の支度を始めると、庭に人の気配。その足音が玄関に回ってチャイムが鳴る。この時間帯の来客は今までなかった。カチカチと鍵を開ける音。
「ただいま。良美ちゃん、パパ」
芙紗子の明るい甘ったるい声と共に、身体を浮かせ、飛び立つ鳥のように助走しながらリビングに入って来た。茂は、一瞬立ち止まった。何があったというのだ。両手にいっぱい詰まった買い物袋をぶら下げている。良美が手を叩いて一緒に踊る。芙紗子はスキップしながら、良美の頬っぺたにチユウをする。
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