第10話
芙紗子は最初、殊勝なことを言って、僕に頭を下げてお願いすると言ったはずだが、たまに食べる夕飯に、この間も同じメニューだったといちゃもんをつけた。ついでに、
「良美にもっと目をかけて。出来れば育児日記を書いてくれるといいのだけど」
「母親だろう、それくらい自分でつけろよ。一日会わないと気付くことがあるだろう。昨日できなかったこと、スプーンを上手に使い、箸も豆以外は上手に使える。それも気付かないのかよ。たまげた母親だ。名ばかりじゃないか。それとも母親降りるか? どうする。分かるだろう、その意味」
ずっと抑えていた感情を芙紗子の一言で、待ったをかける暇もなく口から飛び出していた。茂は欠かさずに日記を付けていた。それも知らないのだ。この一年の間に保育士の免許も取った。ひそかに考えていることがあった。名目は育児休暇だったが、一年休職したのだ。元の職場に復帰できるとは約束されていない。それとも芙紗子が部長の権限で、その強硬な手段で、何処かの部所の部長の椅子を用意しておいたとでも言ってくれるのか。
それこそナンセンスだ。芙紗子が困るだけだろう。そろそろ一年が経つというのに、芙紗子は茂の職場復帰のことを重々知りながら避け続けている。また、秋のイベントが始まる。今度はわたしが家に入りますとは口が裂けても言うはずがない。言うとすれ、時たまほのめかす口振りから察して、
「良美は二歳になったから体力も着いて来たでしょう。パパが復帰しても大丈夫よ。何とか時間のやりくりは着くでしょう、良美の事はこれからもパパにお願い……」
と言う事は、復帰しても肩書きは剥ぎ取られて、食料品売り場。もっと言えば、パート扱いということだ。堪えられる訳ないだろう。芙紗子にしても、亭主のパート扱いに堪えられるのか。割り切るだけの心臓を芙紗子といえども持ちえていないはずだ。
茂は復帰する気持ちは皆無に等しい。
女ならおめでとうと言われて、育児復帰は歓迎されるだろうが、男で育児休暇を取った奴など、サクラデパートには独りもいなかった。先例を作ったかもしれないが、同期入社の同僚からも一度も電話すら入らない。月一度の飲み会の誘いもない。退職したと同じなのだと三ヶ月目に気付いた。それからあれこれ考えていた時に出っくわした保育園でのことだった。良美を送っていくたびに、困っている父親や母親が大勢いるということだ。
「午前中だけ、申し訳ないけど預かってください。早退してお昼までには必ず迎に来ますから、医者にも連れて行って薬も飲ませています。もう大丈夫だと思いますが、用心に薬も持ってまいりました」
「そう言われても、他のお子さんにうつしたりすると困ります。規則があるのをご存知でしょう。入園する時にお渡ししてある規約を、お読みいただいているはずですけど」
茂は保育園の園長が幼児を連れた母親に言っていた言葉が脳裏から離れず、こびりついていた。確かに園としての規則、行政庁の認可を受けている以上それに伴う法的義務を怠ることは出来るはずはない。同意しているからには従うのが公的義務。もっとも、幼児の病気に係わる事だから軽々しく受け入れてしまったら、感染の心配、複雑だろう。あのお母さんが子供と帰っていく後ろ姿、その場景がいつも頭の中を駆け巡っていた。
自分たち家族だけが抱える問題ではないのだ。たまたま坂谷家においては、精神的悩みはさておいて、芙紗子が勤めるだけで、家庭形態が成り立っていけるだけの経済力に恵まれていると言うことだ。あのお母さんのように、如何にしても優先させて働かなくてはいけない事情がある。そのような光景を幾度も見ているうちに茂は頭を過ぎったものがある。
託児所。茂は宙ぶらりんの状態のまま良美の世話をしている。会社に戻る気持ちも失せている今が転職するのも、何かにチャレンジするのもチャンスなのだと考えた。
思ったら一度に遣ることが押し寄せてきた。保育士の免許をひそかに時間のやりくりして取った。学校には通えないから、通信で学び、運好く大学で教職課程を取っていたので、その分免除されることが沢山あった。通信でも月に幾度が実習は学校に行かなければならない。それこそ時間をやりくりしてスクーリングに通った。初めての経験。読み聞かせの練習。ピアノの弾き語り。毎日芙紗子のピアノで練習しているうちに、幼稚園時代にピアノの稽古に通ったことがあり、練習時の指が戻ってきて、どうにか動くようになった。童謡の幾つかが弾けるようになった。そのことを芙紗子は全く知らない。良美が、僕のピアノに合わせて身体を動かすことも。
スクーリングで何人もの実習生と、同じような境遇に同情しあったのか、挨拶を交わすようになった。その中に保育士を目指す山田という男がいた。茂より何歳か年上のように思われる山田に、どちらとも無く声を掛け合うようになり、喫茶店でコーヒーを飲むようになった。
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