第9話
茂は、呼吸を整えながら穏やかに「二人でこれからの事をゆっくり考えよう」と切り出そうとした。
ところが、言葉は自分で驚くほど強かった
「俺は出世の見込みがないと言うことなのだ。地下のチーフなんて、店員の補助みたいなもの。うだつが上らない、名ばかりのチーフが亭主じゃ、あんたも目障りなのだろう」
「そんな言い方しないで。そんなこと思ったこともないし、年上の女房を持って辛い思いをしていのも分かっているわ。わたしなりに会社では極力夫婦ということを見せないように、努力しているつもりなの。貴方は何時もそれに対して背を向けるのよ。課長の顔と妻の顔を貴方に対して使い分けしたことないわ。何時もあなたの妻なのよ。会社じゃ慎まなければいけないことだってあるでしょう。分かって。一年経てばいろんなことが落ち着くと思うの。その時じっくりと考えない」
「随分勝手な論理じゃないか。一年経って考える? この一年間の俺の人生を閉じ込めて居ながら、また一年経って考えよう。俺を封じ込めても何ら会社や、社会に与える影響はない。そう言っているのか。それほど亭主が目障りなのか」
そこまで言ってしまってから、ずいぶん酷なことを言ったものだと反省もするが、芙紗
子の心の隅にある筈だ。すると芙紗子がきつい眼差しを向けて、
「そんなひどいこと言わないで。私は、貴方の妻です。良美の母親です。どんな事があっ
ても、この二つは揺ぎ無い私の気持ちです」
はっきりと言いきった。
茂は黙った。なぜなら、離婚だけは避けたい。その思いがあるのに裏腹な言葉が飛び出てくる。慎重に、穏やかにと心に歯止めをするのだと言い聞かすのだが、反比例する自分に着いていけない。成熟出来ていない俺。
床に座り込んだまま二人が黙りこんでいた。
居たたまれずに、茂は寝転んで天井を見詰めた。
もう一言言いたいことが胸の奥で蟠っている。口に出せないもどかしさ。
「あんたは偉そうなことを言うけど母親を捨てているとしか思えない」と。芙紗子の人格を否定したことになる。ぐっと呑み込んでいる。
茂は深呼吸をするため、立ちあがって大きく両手をかざした。
芙紗子が驚いてのけ反った。
「俺、何にもしないって」
「あら、私へんなことした」
二人は、声をあげて笑った。
茂は笑いながら、考えられる幾つかの条件を模索している。芙紗子は、部長の話を快諾したのは名誉もあるだろうが、給料とキャリアーウーマンの先陣を取りたかったのだろう。
芙紗子はそのつけを家庭と亭主を犠牲にすることにしたのだ。それもまた酷な考え方だろうか? そのことに固執していても答えなどでない。禅問答の様な気がしてきた。意識改革を試みてみる。保育園経営がその一つだ。まだ夢の段階だが経営に乗り出すことを考えよう。俺はまだ若い。適性転職に成るかも知れない。
芙紗子とは、給料の格差はひらくだけ、歳の差にしても時間が平等に回る限り平行。
だが、今の状況を解決するには茂が折れない限りないという結論が見えてきた。じゃ、自分は家で何をすればいいのだ。炊事と洗濯。良美の保育園への送り迎え。帰り道、奥様達と団欒の時を持つ。それともひそひそ話しを楽しむ。意を決しても加われない。
パートに出る。コンビニでレジを打つ。今更出来やしない。何故出来ないか。恰好が良くない。内職をする? 何か特技を持っているか、と頭の隅のちっぽけな気持ちがささやくように言う。いいえ、技術も才能もありません。ゆっくり考えよう。実生活が始まってから…。茂は育児に専念することになれば、夫と妻が逆転してしまう事だと、はっきりと悟る。芙紗子の尻に敷かれていると思う。たった一つ、良美の日々の成長を目の当たりにすることだけが喜びを与えてくれる。見詰めている先に見えてくるものがある。
日中の空いた時間を、保育園か、託児所の経営に係わることへの計画を練ることだ。
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