第7話
良美を囲んで、三人は何事もなかったかのように、近くの公園へ乳母車を押して散歩に出た。九月も下旬に入ると爽やかな風と、澄み切った空からちょっと斜に射す太陽と、そぞろ歩く家族の情景は、額縁の中の絵のようだと茂は思った。その中にどっぷりと浸かっていられない事を知りながら、茂は出来れば話し合わなくてはならない事から遠ざかりたかった。
茂は、あれから二十日間も欠勤したままだ。その間芙紗子は茂の欠勤をどう処理していたのか。無届けとはいかないだろう。
茂は明日から出勤するつもりでいる。
良美も、明日から保育園に預けられるだろう。
芙紗子の思いは、その雰囲気から遠いものであることを茂は感じ取っていた。だからと言って、自分が主夫になることは芙紗子に屈伏させられたと言う思いがして、居たたまれない程の屈辱を感じ、迷想の中で抵抗し続けている。
芙紗子は『こういう事態が度重なればどうすればいいの』と言うことを言い出せずにいる。そのつど茂が休暇を取るという事は出来るはずがない。会社では、茂と芙紗子を各々の人間として雇っているのだ。欠勤が度重なれば、退職を迫られるだろう。
二回ほど溜息をついた芙紗子は、呼吸を整えると切り出した。
「最後まで聞いてね。わたしは産休を取ったけど、育児休暇というのがあるのね。貴方も知っているでしょう。産休明けから一年間の余裕を持ってとるか取らないか決められるの。今がぎりぎりなのね。良美はあなたの扶養家族に成っているから、あなたも育児休暇を取る資格があるのよ……。ねえ、駄目かしら?」
「駄目って? ママが取る決心したのならいいよ。俺は頑張る。世間一般には男一人が家族を食わしているのだ。俺だって三十半ばの男だ。ママもこの辺でゆっくりしろよ」
「違うの。あなたにも育児休暇が取れると言ったのよ。一年経てば、良美も二歳過ぎるでしょう、体力も尽くし、滅多にこういう事態はないと思うの。一番親の温もりを感じる時でもあると思うから……」
「えー、俺が育児に専念するってこと? ちょっと待ってくれよ。温もりだったら、俺よりママが一番じゃないのか。男が育児休暇を取って、一年経って会社に出ていたら、俺のポストも、場所も無くなっているよ。出来るはずないじゃないか。俺だって、男だ」
「でも、現実は家のローンもあるからそれを払わない訳にはいかないでしょう」
「当り前だ。二人で買ったのだから、二人で働いて返せばいいだろう。良美は母親を必要としている時期だ」
茂は強い調子で言った。
予想はしていたが、単刀直入に言われると腹の虫が疼く。芙紗子の感覚に言いようのない義憤を感じながら、茂は思考停止状態のように頭がぽぉっとしてきた。
芙紗子はまだ何か言い澱んでいる気配がする。すると、
「空がきれいね」と言った。
その芙紗子の顔を見ると、目は天を仰いだのでは無く、視線は遠くを見詰めていた。しばらく間があったが、芙紗子は意を決したかのように、静かに話し出した。
「昨日のことなのだけど、部長が定年退職するので、その後をと内定があったの。貴方に相談しなくて悪かったけど承諾してしまったのよ。忙しさは凄まじいものがあって、時間どおりには帰れない日が続くと思うの」
茂は、部長という言葉を反芻する。誰が部長なのだ。俺ではないということだけは分かるが、芙紗子が部長。という事を認める勇気もない。ますますひらく格差。情けないほど惨めな気持ちにある。
「じゃ俺はチーフのままだから退職しろと言うの? 退職するつもりはないね。良美と俺は、ママが帰ってくるのを家でなにして待っていろというのだ。頭が狂うしかないさ」
「そんなこと言わないで。現実を見ないと、遣っていけないことは分かるでしょう。わたしは少し給料が上ると思う。ローンも返していけると思うの」
「俺の安月給は当てにしないというのですね。あ、は、は、は― 正直でいいじゃありませんか」怒号にも似た声を発していた。良美が乳母車から立ち上がって茂を見ている。
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