第3話

茂は芙紗子に医院に行くことを強いたい。

何故ということを考える必要もない、芙紗子は母親だ。釈然としないが、早退することになるのは俺だろうと分かっている。早退届を持って行くのは人事課ではなく課長の芙紗子に持って行くのだ。今朝の様子から、同然のごとく芙紗子は俺に押し付けるだろう。ムカつく気持ちと、良美の症状が気になり胸が圧迫されてくる。

保育園医も知らない。芙紗子に場所も聞いておかなかった。

複雑な気持ちのまま第二外商部を覗くと、芙紗子の後ろの席に設えた机に、五人の課員と一緒にノートを覗きながら議論しあっている。三年前までは自分があそこにいた席だ「自棄を起こさないで」から、ずいぶん経つが、一向に移動の辞令はない。腹の虫が治まったのではない。家庭を大事にしようと考えて、留まっているにすぎないのだ。

しばらく立ちすくんでいると、

「坂谷さん、御用ですか?」

 芙紗子が気付いて言う。確かに坂谷だが芙紗子に言われると、なんとも情け無くなる。

案外小心者なのだ。俺と言う男は。堂々と渡り合えば良いのだ。芙紗子もたかが課長じゃないか。萎縮することは無いのだ。顎をしゃくりあげてみたが、様になっていない勘がする。落ち込む心に良美のことが気になる。急を要しているのだ。

すると、芙紗子がちょっと斜に構えた課長の顔で、つかつかとそばに寄ってきた。

「もう電話が入りました?」

 芙紗子の物言いに腹立たしさが募って来る。何と冷酷無慈悲な女性なのだろうと芙紗子を見詰めた。芙紗子も、茂の目を確りと捉えてくる。茂の方がどぎまぎしてくる。

「貴方の怒っていらっしゃること分っているわ。良美に対しても申し訳ないことをしている私を分かっています。お願いします」

 芙紗子は深々と頭を下げた。茂は面食らった。始めてみる芙紗子の態度に、どう対処しようか迷っていると、芙紗子はしゃきっと背筋を伸ばし、

「病院を教えてくるのを忘れてしまいましたが、消防署を曲がったところにある欅診療所です。今日の早退はわたしが受理しました。サブチーフにあとのことをお願いして、急いでお帰りください」

 確かに上司だろうが、この言い方。またムカムカが頂点に達した。

 治まらない苛立ちを何処かにぶつけようとしている自分に危なさを感じる。ここは職場だ。冷静にという思いが頭を過ると意志とは裏腹に落ち着いた態度を装っていた。

芙紗子は何かを感じとったのか、小さな声で、

「ごめん、お願いするわ。お医者さんによく症状を聞いて、熱があるときは水分をいっぱい与えてね」

と両手を胸に当てて拝む格好をした。拝まれて済むものか。芙紗子は母親なのだ。家族と言う範疇を逸脱したものの考えを押し付けている。家庭に職場の上司をちらつかされても、俺の気持ちは釈然としない。納得もいかないし、認める訳には行かない。芙紗子は家庭と職場を天秤にかけ、どちらに力を入れているか、考えるだけの価値もない態度だ。良美は母親を必要としている幼い娘じゃないか。良美に重きを置くのが同然のことだと思う。家庭は茂に? ちょっと待ってくれと思いつつ、そうは言っても良美の状態が気になって、ふん、と声を出して大人気ない抵抗を試みつつ踵を交わした。どんな反応を示すのかと、ちらっと目を向けると、芙紗子がまた拝んだように思う。

 欅診療所に着くと、保育園の若い先生が、心配と不安と苛立ちを顕にした複雑な顔をしながら、言った。

「熱が高くて、肺炎を起こしているらしいのです。入院先を紹介してくださって、直ぐに手続きを取りました。パパの来るのを待っている余裕はなかったのです。一歳頃の子供は、あっという間に症状が進むのです。親でしたらそのくらい事知っておくべきです」

 今朝の和やかな保母さんと同じ保母さんかと信じられないぐらいの剣幕だった。

「すみません」と深く頭を下げ、良美が寝かされている部屋に入った。ぜいぜいと荒い息をしている。茂は驚くより、良美に申し訳ない気持ちで胸が詰まった。芙紗子はなにを考えているのだろう。この小さな良美を見るがいい。

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