第106話 愛情
しゃんと背筋を伸ばし、姿勢を正した早苗さんがあたしの方を向いた。
「片桐さん…怖い思いをさせてしまってごめんなさいね」
そう言って頭を下げる早苗さんに、ただ首を横に振って
答えることしか出来なかった。
顔を上げると、いずみさんと徹ちゃんに視線を移す。
「長瀬…さん」
いきなり呼びかけられ、徹ちゃんは肩を大きく震わせた。
いずみさんも涙に濡れた顔で振り返る。
「あなたには怪我まで負わせてしまって…申し訳ありません」
「あ…いや…あのぉ…」
深々と頭を下げられ、しどろもどろになる徹ちゃん。
早苗さんは小さく微笑み
「どうか、いずみを宜しくお願いします」
再び頭を下げた。
徹ちゃんといずみさんが顔を見合わせる。
そんな二人を見つめる早苗さんの目はとても優しく精一杯の
愛情を注ぐ母親のものだった。
「いずみ…」
わが子の名を呼ぶ早苗さんの声は、消え入りそうに小さく
微かに震えていた。
何か言いかけては、その言葉を飲み込み躊躇いの表情を
浮かべたまま俯いてしまう。
徹ちゃんが、そっといずみさんの肩を押した。
涙を拭ったいずみさんは、徹ちゃんへ小さくうなずき
ゆっくりと早苗さんの傍らに歩み寄った。
両肩に手を置くと、静かに呼びかける。
「…お母さん」
瞬間、早苗さんの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
その場に泣き崩れた早苗さんの体を、いずみさんの華奢な腕が
優しく包み込んだ。
そんな二人の様子を黙って見つめていた真柴は
翳りの浮かんだ黒い瞳を覆うように、長い睫を伏せた。
「加藤の件は、事故死として処理されている。今更警察に届け出るつもりはない。
この後どうするかは、自分で決めるんだな」
そう言うと、あたし達に背を向けひとり外へと出て行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます