第105話 理由(わけ)

早苗さんは微かに震える両手を目の高さに引き上げた。


「私は一生忘れられない。この手で加藤の背中を突き飛ばした感触を…」


その手で、そっと耳を覆う。


「加藤の断末魔の叫びを…」


少しの間目を閉じていた早苗さんは、静かな視線を真柴に向けた。

「ひとつ聞かせて頂戴。何故あなたは、いずみが私の娘だって気付いたの?」


真柴は肩を竦めると

「Destinyの香織ママ、覚えてるよな?

 彼女にいずみさんの写真を見せた時に、ちょっと驚いた顔をしてたんで

 訳を聞いたんだ」


え?そんな話いつしたのよ。

あたしに内緒で、ずるい!


「香織さんが言ってた。いずみさんはあんたの若い頃にそっくりだってな。

 で、いろいろ調べさせてもらったんだよ」

「そう…」

「おれも質問していいか?」

早苗さんが小さく頷く。


「会社に退職届を送ったのは、加藤が訪ねて行くと見越しての事か?」

「そうよ。

 あいつなら、勤め先が判れば必ず乗り込んで行くだろうって。

 たとえいずみが不在でも、上司相手に『社員のスキャンダルが

 公になれば、会社の名前に傷がつく』くらいの事を言って

 強請りにかかる男ですもの。

 余計な騒ぎは起こさせたくなかったのよ。

 さすがに、いずみが退職したとなれば、そうそう馬鹿な真似も

 出来ないと思って。それに…」


早苗さんは一瞬言葉を詰まらせた。

視線を床に落すと、ゆっくりと口を開く。


「いずみに帰ってきてもらいたかった…

 今回の入院で、望月もかなり気弱になっているし

 私のせいで仲たがいをしたままになっている二人を見ているのは

 耐えられなかったの。

 出来る事なら、会社を辞めて、望月の傍についていてあげて欲しかった。

 浅はかな考えだけど、退職届が会社に届いていれば、たとえ不本意で

 あったとしても、いずみなら潔く退職を決めると思ったのよ」


早苗さんは大きなため息を吐くと、寂しく笑った。

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