第三話 渡瀬有希
「お疲れのようですが、大丈夫ですか? 渡瀬課長。」
連休が明け、県庁は県教育委員会教学課分室。
以前なら淹れたてのコーヒーにすぐ顔をあげ、その香りを楽しんでいたものだが。このところ、彼女も時折考えごとをすることが多くなった。
デスクの彼女の目の前に、私はそっとカップを差し出す。すると、はっと気がつくや、やや慌てたようにいつもの笑顔を見せる。
「あ、ありがとうございます。
流石に片道二時間の通勤って、堪えますね。」
平日は雨守君が入院している病院との往復。婚約者、ということにしているようだが、もう……。
「お体に障らぬうちに、この仕事に区切りをつける……。
そういうことも、考えられてもよろしいのでは?」
「……私に退職しろ、ということですか?
古谷さんが私をこのポストに嵌めておいて?」
眉を上げ、少し呆れたように彼女はおどけて見せた。
「それを言われると辛いですが。
渡瀬さん。
僭越ではありますが、雨守君と本当に一緒になられては如何ですか?」
「私が、雨守クンと結婚……って、ことですか?」
カップを下ろし、目を丸くしたまま私を見つめ、しばし後。静かに微笑むと、彼女は俯いて小さく呟いた。
「そっか……ご兄弟とは言っても、全てお話になってたわけでもないんですね。
幻宗さん、ホントに口が堅いな。」
そして顔を上げ、まっすぐに私を見つめる。
「なぜそんなことを急に?」
私は昨日のことを彼女に話し始めた。
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「ニュースでは知ってましたが、そこにもリンが……。」
彼女は眉をひそめた。
「四神のうち、玄武はまだ無事ですが。
リンがその気になれば、その破壊は誰にも止められません。」
「東海にしても南海にしても、
大地震が起きるのは時間の問題って、だいぶ前から言われてますけど。
更に早まるということですね?」
「はい。
そこに加えてリンのいう『神』が封じられる事態となれば、
この世は闇に包まれると。
せめて安息のあるうちに……。」
「……それでさっきの?」
彼女はどこか涼し気な目を、私に向けた。
「さしでがましいようですが。
束の間であるかも知れないからこそ、
あなたはあなたの幸せをお考えになっても……。」
すると彼女はまた一度顔を逸らせ、聞き取れないような声で呟いた。
「縁ちゃんが、生まれ変わって……なんて言ってた計画も。
実行したとしたって、間に合わないかも知れませんねぇ。」
だがまた、さっきと同じだ。彼女は顔を上げ、明るく言う。
「ありがとうございます、古谷さん。
でも私、結婚なんて形に拘らなくても、もう十分幸せ感じてるんですよ?
桜が丘高校の山に籠って修行中の縁ちゃんには悪いけど、
雨守クンのお世話を任されたとはいえ、現に彼を独占しちゃってるわけだし。」
そして真剣な目を私に向けた。
「それにこの仕事を続けることで、私にしかできないこともありますから。
ぎりぎりまで、頑張らなきゃ。」
「渡瀬さんにしか、できないこと?」
「ダメもとで情報拡散に利用したSNSに、DM……ああ、反応があるんですよ。」
本間さんが生前撮った写真にリンが写っており、それを渡瀬さんがSNSに拡散させていたのであった。私自身、それは渡瀬さんに任せきりであったが。
渡瀬さんの声音が、一段下がる。
「感受性の強い中、高校生の声がかなり多くて。
それもメールでのやり取りをしていくと、
どうも本人だけでなく、家庭状況に不安を抱えた子ばかり。」
「もしやその子達にも、リンは接触しているのでは?!」
驚き尋ねた私を、変わらぬ穏やかな瞳で見つめたまま、彼女は答える。
「はい。
画像の女の幽霊が現れて、この世界を壊さないか、って。
でもメールをくれた子達は全員怖がって拒否しています。
リンが、なぜかその子達に危害を加えないのが幸いですが……。」
それもリンの、余裕なのだろうか……。
「その子達を不安から救うためには家庭の立て直しも必要です。
それには学校からの情報収集は欠かせません。
リンに関する事情は当然伏せてますが、
スクールソーシャルワーカーに入ってもらって既にケアに当たっています。
県教委にいるということが役に立っているんです。
だから私は、辞めるわけにはいかないんです!
古谷さん!!」
力強く言う彼女に、失礼ながら驚いてしまった。
リンは恐らく、自身の境遇と照らして、周囲の環境に問題がある不遇の子の前に現れているに違いない。雨守君に重傷を負わせた二人にしても、そうだったはずだ。共感する者同士、霊も生者も惹かれ合うものなのだから。
とすれば、渡瀬さんのSNSに応えていない子どもの中には、リンの傘下に落ちた者もいるかも知れない。いや、そう考えるほうが妥当だろう。
だがそれでも……渡瀬さんは救える子には躊躇なく手を差し伸べている。
「渡瀬さん。あなたは強い方だ。」
「いえ。
私のことより、古谷さん。古谷さんこそ、退職なさりたいのでは?」
この私が、見透かされていた?!
「いえ……これから忙しくなろうという時期に……。」
うろたえた私に、彼女は微笑んだ。
「古谷さん、矛盾してますよ?
時間がないからこそ、確かめたいことがあるんじゃないんですか?」
「……はい。」
「私だけじゃなく、雨守クンだって重箱の隅からでも頑張るって言ってます。
たとえ、思わぬ時に時間切れになろうとも。
でも普通にしてたって、いつ何が起こるかなんてわからないじゃないですか。
だから古谷さんも、悔いのないように!」
ああ。
この人とは一年ほどしか、お付き合いがなかったのに。まるで生まれ変わる前から知っていた……そんなあたたかさを感じる。
「ありがとう、渡瀬さん。お世話になりました。」
頭を垂れる私に、彼女も立ち上がって深々と頭を下げる。顔をあげると、また優しく微笑んでいた。
「私のセリフですよ。古谷さん、大変お世話になりました。」
「ありがとうございます。
あのう……虫がいいようですが、渡瀬さん。
今日のお帰りに、ご一緒してもよいですか?」
「ええ。雨守クンに会っていってください。」
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用語解説など
スクールソーシャルワーカーは、問題を抱えた生徒の家庭そのものに問題がある場合、スクールカウンセラー・学校と連携しながら、ざっくり言えば問題の大元の家庭環境改善のために動きます。
往々にして保護者に問題があるケースが多いようです。
リストカットしてる子に悩みも聞かずに「どうしてそんなことするの?」と責めてしまう。
夫婦間DV(見せられる子は辛いです。妻から夫への暴力も結構多い)
ネグレクト(赤ん坊の頃から、という根深いケースも)
貧困から食事を与えられない(担任が自費で朝食を食べさせてるケースも)等々。
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