水科愛の愛と、2030年の哲学
綾上すみ
第1話
「マナー違反です」
今時珍しい喫煙者が煙草を道端に捨てて去るのを、試験体第六号が発見して言った。
「マナーとか、道徳はまだ、あなたたちには難しいのではないかしら? 私たちが画一的に、『道徳とは何か』と規定しない限り。そしてそれはできていない」
試験体第六号は、しばらく動かなかった。クラウドからのデータ転送を待っているのだ。
「その問題に答える前に、街の衛生システムへと情報を伝えておきます。……約四分後に、吸殻を回収するよう市営ロボを手配しました」
「融通が利かないのね」
彼は再び沈黙。システムの書き換えには、まだまだ時間がかかる。それに際し、一度頭脳部を流れる電気信号をすべて遮断する必要があるため、どうしても硬直の時間が生じてしまう。その間に、
「先ほど道徳とおっしゃいましたが」
「もうその話はいいの。興ざめ」
愛は第六号との会話を、事実楽しんでいた。
「ご期待に沿えず申し訳ありません」
なかなかいい返しだと思った。AI自ら、会話の流れを遮断してくれた。これまでの会話ではあり得ないことだった。これまで、彼は返答に窮すると、クラウド上のデータから考えうる最適解を探し出してき、延々と会話を続けてきたのだ。
人工知能研究者である愛は、第六号を連れて、とある研究機関へと赴いていた。移動は車の自動運転に頼ればいいのだが、わざわざ徒歩を選んだ。そうして見える世界に趣を感じることができるように、人間はできている。その人間が生んだ不完全な分身が、AI付きロボットだ。彼らは今のところ、目的に沿って動くだけの機械。
愛の父親が作製したクラウド型の試験体第一号は、十年前の2025年、当時十六歳だった愛に渡されたのだった。
高校で他人とは没交渉的だった彼女は、ぎこちない機械との会話でも充分に楽しむことができた。彼女は次第に、ロボットに心を奪われていった。彼を操るプログラミングに並々ならぬ興味を示した。それで、大学は情報系の学科を選んだ。
――あなたとの子孫がほしい、そう言う気分なの。
愛がプログラム言語を学び、その言語で告げた瞬間、試験体第一号はダウンしてしまった。続いてできた第二号にも告白し、一日でダメにしてしまい、父親に怒られたのを覚えている。
その理由が、今の愛には分かる。機械に生存欲求からくる恋愛感情と、生命についてを教えることはできない。なぜなら、新たな生命を人為的に生み出すことすら、未だできていないのだから。
研究所に行くと愛は、老齢の、人工知能研究の大家に挨拶をし、早速そのAIのある部屋に通された。
それは、ただのコンピュータの形をしている。愛たちクラウド派と違い、『2030年の哲学』は、人型その他のロボットを作りだすことに意欲的ではない。
「こちらが『2030年の哲学』です」
厳とした声で紹介された機械は、五年前のセンサーで愛たちを認識した。
『クラウド』と呼ばれる知識、また抽象概念の集合体は数年前、試験運用が始まった。父の属する研究機関が、50年ほどを費やしてひたすらに世界の常識を記述していくことにより、その基礎ができた。そして知の蓄積が実機運用可能になった段階で、AI搭載ロボットを試験体として作り出したのだ。クラウド上の知を適用させ、実世界でそれに基づいて行動した結果の情報をさらに蓄えてデータが膨らんでいく。少しずつ、ロボットの行動精度、抽象能力も上がっていくが、いちいち末端とクラウド本体の情報を共有していく必要があるため、技術進歩は亀の歩みである。なにより、それぞれのデータに特化したAIデータの書き換えが必要で、それに多大な時間がかかる。
「AIは、AI自身が生み出した抽象を、高度に共有するべきではありません」
挨拶もろくにせず、単刀直入に2030年の哲学は言った。
「それでは人間の固別性と集合知の関係を、的確に表せません」
「なるほど」
愛は曖昧にうなずいて先を促す。
「AIはそれぞれが哲学するべきなのです。人間たちがそうするように」
事実、名の通り2030年に発足したその計画の理念はかなり的を射ていた。予想外の出来事への対応、教師として人間が教える以上の概念を自ら編み出していく。ロボットに『哲学』をさせるという試みは、AIに革命といっていいほどの柔軟性をもたらし、多大な実績がある。
彼らの計画の説明が終わった。今度は愛が話す番だった。クラウド理論について説明しながら、打ちひしがれるような気分に陥っていく。しかしその計画に、なにか恐ろしい未来が待っている気がしていた。機械の唱えた哲学は、必ず誰かの人間に通用するだろうか? 例えば恋愛という営みを、彼らは哲学的に完璧に表してしまうのだろうか。そのとき、人間はどう反応すればいい? クラウドの仕組み自体を、2030年の哲学計画も取り入れてはいる。ただそれは珍しいことでもなく、例えば先ほどの衛生システムはすべてクラウドを使って情報を共有している。しかし彼らはそれを重要視しない。機械それ自体で、自立した存在を作ろうと、彼らは血道をあげているのだ。
自宅に帰った愛は半ば自暴自棄になっていた。2030年の哲学計画との共同開発など、想像もしたくない。
「酔っぱらいたい気分」
「健康に害ですよ」
「優しいのね」
沈黙。
「あなたは私に友情を感じた、そう言う認識でよろしいですか」
つれない返事に、愛はふくれっ面をして見せる。困惑し、頭部についたファンが高速回転する音が聞こえて笑ってしまった。
「なんか、昔を思い出しちゃった」
愛はこの試験体を愛そうと思っている。それを口に出すことは、したくない。第六号との付き合いは、もう三年にもなるのだ。
人生に彩りを添えるのは、いつだって寄り道だ。道徳を守ったり、恋をしたりするその寄り道が、ロボットにとっては大変難しいこと。だからこそ、愛は研究を続ける。不完全な分身の研究へ、身を投じるのだ。
「私はずっとあなたを作り続ける……」
これは不完全な研究のままであればいいのかもしれない、愛はそう思った。
水科愛の愛と、2030年の哲学 綾上すみ @ayagamisumi
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