第7話



 目の前に立つソラは、うららを真っ直ぐ見つめていた。

 うららもまっすぐ見つめ返す。


 ――…やっと、思い出した。いちばん、哀しかったこと。辛くて苦しくて、この生すら投げ出してしまった、その原因を。その存在を。


「――ソラ…」


 ――あなただった。ぜんぶ、あなただったんだ。


「──うそつき…!」


 堪え切れずに零れた言葉と同時に、うららの両目からは涙が溢れた。ソラは哀しそうにそれを見つめたまま、何も返さない。

 うららの記憶の中で、今目の前にいる〝ソラ〟の記憶は、最後の一瞬だけ。うららが屋上から飛び降りたあの瞬間…手を差し伸べれくれたのは、紛れも無く今目の前にいるひと。この世界で今までずっと、傍に居てくれたひとだ。

 ──だけど。


「…わたしには、幼馴染みなんて、いない…そうでしょう?」

「……そうだね」

「わたしの記憶に、あなたは居ない…あなたなんて、居ない。あなたのこと…思い出せなかったんじゃなくて…最初から、居なかったのね」

「………」

「わたしがずっと、思い出せなかったのは…」

「うらら」


 泣きながら紡いだ言葉を、〝ソラ〟はうららと視線を合わせたまま遮った。

 うららは紡ぎかけた言葉を押し留め、その言葉に耳を傾ける。


「この世界で僕は、たくさん嘘をついた。だけどひとつだけ、信じてもらえるとしたら──」


 一歩、うららに歩み寄るその姿が、淡い光を放ちながら距離を縮める。

 柔らかな黒髪がふわりと浮き上がり、その青い瞳にしっかりとうららを映す。


「君をとても大切なこと…誰よりも大切で、大好きなこと。それは決して嘘じゃない」


 この世界に来てから、何度も。ソラのくれる、優しくて愛しい言葉たち。その言葉がずっとうららを守ってくれていた。


「君と過ごした十年間…僕は本当に、幸せだった。君は僕の大切なひと。これだけはどうか信じて。僕は幸せだったんだ、うらら…──君が居てくれたから」


 その手がうららの手に触れ頬に触れる。その何よりも馴染んだ温もりに、涙が溢れて止まらなかった。

 そしてうららは、すべてを受け入れた。

 ソラの青い綺麗な瞳に、自分が映る。


『わぁ、おそろい…! パパこのコ、うららとおそろいの目なのね』


 初めて〝ソラ〟と会った日、うららは嬉しくてその小さな体を抱きしめた。ソラと出会えたから、うららは自分の青い瞳を、少しだけ好きになれた。

 あの日と同じように、だけどあの日とは反対に、ソラがうららを強く腕の中に抱く。


「──おねがい…いかないで、ソラ……!」


 あの時…何度そう、願っただろう。

 叶わないと知りながら。だけど僅かな奇跡を願いながら。


 ――こんな時でさえわたしは、こんな言葉しか出てこない…やっぱりそれを、諦めきれないの。


 そんなうららを諫めることはせず、止め処なく流れる涙を拭う優しい指先。


「──さよならだ、うらら…僕の大切な…お姫さま。いつかの未来で、また逢おう。その時はきっと、今度こそ、きっと…君を守る、〝王子さま〟になるから──」


 そっと触れた唇が、うららとソラの、お別れだった。




 ソラはわたしの、幼馴染みなんかじゃない。

 ──大切な、家族。


『うらら、おいで。紹介しよう。ほら、隠れてないで出ておいで』


 十年前のその日、新しい家族ができた。まだ幼かったわたしに、兄弟ができた。

 パパの背中からおそるおそる顔を覗かせたのは、真っ黒い毛色のミニチュア・シュナウザー。小さくて愛らしい仔犬。

 ふわふわの毛がお人形みたいにかわいくて、小さな体がか弱く震えていて。

 わたしが守ってあげなくちゃ。そう思ったんだ。


『パパ、今日からこのコ、一緒に暮らすの?』

『そうだよ、うららにちゃんと、お世話できるかい?』

『うん、うん…! がんばる、ちゃんとする! ずっとずっと、一緒に居る…!』


 幼いながらに誓った。疑わずに、迷わずに。


『パパ、わたしが名前、つけてもいい?』

『…いいよ。どんな名前だい?』

『──ソラ!』



 ──それからずっと、一緒だった。どんな時も一緒だった。

 パパやママが居なくなっても、おばあちゃんが、居なくなっても…ソラが居てくれた。ずっと傍に、居てくれた。


 …だけどあの日…ソラまで、わたしの傍から居なくなってしまった。

 おばあちゃんが亡くなった、一ヶ月後だった。


 老衰と病気で、ソラの体はもうほとんど動かなくて…必死に看病したけれど、いかないでと何度も叫んだけれど。

 わたしにソラを救うことはできなかった。


 わたしを置いて、みんないってしまった…いなくなってしまった。

 かなしくて、つらくて、くるしくて…


 ひとりじゃ生きてゆけなかった。




 この世界にきて目覚めたとき。ソラのことを思い出せなくてもその手に触れたとき。その温もりだけは決して間違えることなく、〝ソラ〟、あなたに辿りついた。あなたを忘れたり、できなかった。


「──さぁ、行って、うらら。おばあさんに教わった、おまじないを。帰り道が、拓くから。振り返らないで。君の未来が、待っているから」


 言われるままにうららは泣きながら、導かれるように靴のかかとを3回鳴らした。その瞬間に足元から金色の光が溢れ出し、真実の鏡へと繋がる。

 真実の鏡が継いで光を放ち、帰り道を拓く風が吹き荒れた。

物語が、世界が…閉じようとしている。


「ソラ…!」


 ――ここを出たら…本当にもう二度と、ソラに会えない。

 繋いだ手が、離れていく。


「僕も自分の在るべき場所へ帰らなくちゃいけない」


 どこまでも優しく、微笑みかけてくれるソラ。

 涙が溢れる。あの日願ったこと。この手を、離したくない。離れたくない。


 ――だって、誓ったのに。ずっと一緒だと、約束したのに。そう、もう二度と───


「──うーちゃん…!」


 霞みがかった思考に響く声が…うららの名前を呼ぶ声が、聞こえた。


「…リオ先輩…」


 ひかれるように視線を向けた先には、顔を歪ませ今にも泣き出しそうなリオが居た。それにアオと、レオもいる。

 ここまで一緒に旅をした。

 ひとりでは、なかった。


「帰るんだろう」

「…一緒に…!」


 ──…そうだ…帰らなくちゃ。現実に。

 たとえそこがひとりぼっちでも、変わると決めた。生きると決めた。

 この未来を、歩んでゆくと。


 もう一度ソラと視線を合わせる。ソラはすべてをわかっているように、笑ってくれた。


「…っ、ソラ、わたし…、友達を、作る…。戻ったら、まずはひとりでも…学校で…教室で…挨拶をしてみる」

「…うん」


 必死に絞りだす言葉に、涙が止まらない。どうやっても止められない。

 笑ってさよならを言いたいのに。最後くらい、ちゃんと安心させたいのに。

 だけど絡んだ指がひとつずつ、ほどけてゆく。


「そして、いつか…っ いつかまた、犬を飼う…あの大きな家にひとりは、やっぱり寂しいから…! いつか、ちゃんとソラを、思い出にできたとき…いつか……!」

「…うん…僕もその未来を、ずっと見守ってるよ」


 ソラは微笑んで、最後の温もりをやさしく解いた。

 踏み出した一歩が、光を放つ。身体が光に吸い寄せられ目の前の光景が滲んでいく。

 ソラの向こう、視界に映るのはかつて一緒に旅した物語の住人たちと、そして──


「パパ…ママ……おばあちゃん…!」


 ――大切なわたしの、家族。

 泣き虫で、弱くて、すぐ目を逸らして逃げ出して、カンタンに投げ出して。

 受け止めること、受け容れること…できなかった。きっとたくさん心配かけた。

 だけど、最後くらい…笑うことくらい。


――できるよ。わたしにも。


「さよなら…!」


 それはきっと、別れの言葉じゃない。新しい旅立ちの言葉。




 そうしてすべては光へとかえり、物語は閉じられた。


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