第2話



 突然襲われた衝撃は一瞬で、だけどうららを連れ去るのには充分な時間で。

 そして今度こそ本当に死ぬかもと、殺されるかもと恐怖するのに充分なほどの余韻を残して消えた。


 呼吸と同時に生きていることに安堵した。それからどっと汗が沸く。

 押し潰されそうな圧迫感から少しずつ解放されながらも、だけど未だ風が暴れまわるように四方に飛び散り、呼吸が上手くできずに思わず咳き込んだ。


「…全員、無事か…?」

「げほ、なんとかだけどねぇ…、目の前にレオ居るけどピンピンしてるよ。バカは頑丈でいいねぇ…アオは?」

「たいした怪我はしていない」

「お前ら勝手なこと言ってんじゃねぇオレだって怪我くらいしてんだぞ!」

「元気そうで何よりだな」


 砂埃で視界が奪われる中、遠くない距離に同じように咳き込む声と気配を感じる。なんとか皆無事なようだった。

 圧倒的な力と殺意を向けられて、東の魔女の時もそうだが死というものを、改めて肌で感じた。

 手に残る余韻が、滲んだ汗を震わせる。

 ざらりとした感触に怯む感情を押さえながら、アオは砂と埃に塗れたメガネを外し、シャツの袖で拭った。


「──大丈夫ですか…?」


 砂煙の向こうにゆらりと影が揺れ、その向こうから発せられた声がアオに向けられる。


「…ソラ…?」


 霞む視界にはっきりとした姿は確認できないが、その声は間違いなくソラのもの。

 しかしその瞬後、メガネをかけ直したアオの視界に映ったソラの姿に、アオは思わず息を呑んだ。

 ぼんやりとわずかに身体が光を発していたソラの姿は、アオよりもはるかにボロボロで、所々に血が滲んでいる。その中でも左腕は明らかに重症で、制服は血に濃く濡れていた。


「その怪我…まさか…」


 まるで先ほどの攻撃をソラが受け止めたかのような、そんな風に見えた。でなければソラだけがここまで重症を負っている説明がつかなかった。自分たちがほぼ無傷なのも。

 わずかながら住人達の力は借りられているが、あの攻撃は明らかにその範疇を超えていた。


「アオ、ソラくん…! よかった、無事…じゃないじゃん! どーしたの?!」

「なんでお前だけそんなボロボロなんだよ…! つーかお前、光ってるぞ…?」


 駆け寄ってきたリオとレオも、その光景に目を丸くする。そんなアオたちに当の本人は別段気にする様子もなく、にこりと微笑んで。発していた光は、役目を終えたように引いていった。


「これは、約束を対価に僕がもらった力の一部なんです。見た目ほどにダメージは受けてないので、心配しないで下さい」

「約束…?」

「…はい。…うららのおばあさんと。おばあさんの最期の時、僕も傍に居ました。そして、約束をしたんです。──うららを守ると。だけどこの力は使うには条件が限られていて…今まで危険な時に、お役にて立てなくて…」

「いやそんなことより、そんな、大事な力を…」


 言わなくてもわかる。ソラがそんなにダメージを負ったのは、自分たちが居たからだ。自分たちを、庇った所為だ。

 思わずアオが握った拳にソラはふるふると首を振った。やはり柔らかく、微笑みながら。いつもうららに向ける柔らかな笑みだった。


「先輩達が居なければ、きっとここまで辿り着けませんでした…そして何より、あなた達をここで失うわけにはいかないんです」


 まっすぐ向けられる視線は、痛々しいほど純粋なものだった。そしてその視線が自分達から離れ、ある一点に注がれる。

 無意識にその視線を追ったそこには──


「道…」


 それはきっと、かつてうららが追ったであろう道。

 そしてうららの背を追いながら自分たち全員が導かれるままに辿ってきた、金色の道。

 淡く光を放つその道は、砂漠の地平線の向こうまでまっすぐ伸びていた。

 その道を見つめながらソラが口を開く。先ほどとは打って変わって切なそうそうに顔を歪めて。


「…ムリヤリ記憶を呼び覚ますのだけは、どうしても避けたかった。だから僕は…うららをずっと、見守ってきました」


 記憶を…願いを失くした彼女。

 この世界にきてから物語の住人たちに触れ、少しずつうららは記憶を、そして自分を取り戻している。


 ──だけど。今まで気にかかっていて、だけど口にはできなかったこと。

 彼の…ソラの記憶をなぜ思い出さないのか。取り戻さないのか。あんなに大切そうに思っているからこそ尚。

 それがここにきて確信めいたものへと替わった。

 きっとうららの願いと最後の記憶は、ソラと深く関わっている。…繋がっている。

 この道の先に、ソラの視線の先に…うららはいる。

 そして彼女の本当の願いも、そこにある気がした。


◆ ◇ ◆


「あああもう疲れたしじれったいし砂ばっかだし…! イライラする! おれイライラする!!」

「うっせぇなお前だけじゃねぇよさっさと歩け!!」

「もーレオの怒鳴り声すら暑苦しい…!」

「…っ、ダレが怒鳴らせてんだよダレが!」


 灼熱の太陽の下、砂と土煙の中をひたすら歩き続けたせいで、全員既に体力は限界に近かった。

 案の定一番にゴネだしたのはリオで、不機嫌さを全開に喚き散らす。だけど決して足を止めることなく。アオもソラもレオも、無言でひたすら歩き続けた。

 暑さと疲労で汗が止め処なく噴き出し、レオの後ろで結んだ半分の髪の先からも滴るほど。逸る気持ちとは裏腹に、砂漠の道は過酷だった。


 金色の道は絶えず淡い光を発し続け、行く先を照らしている。

 こんな時に魔法とやらで一瞬で行けたらいいのにと、柄でもないことを本気で思った。そんな自分にも余計にイラついた。

 そうして休む間もなく足早に道を辿ってどれくらいか…少なくとも数時間は歩いただろう。漸く目当てのものが視界に映った。遠目には見えていたその全貌が、徐々に明らかになる。


「あれか…」


 地平線上に悠然と構えるその建物は、近づくほどに全貌が明らかになりその迫力を増す。

 広い砂漠の真ん中に忽然と湖があり、その更に真ん中に巨大な灰色の塔があった。塔までの道や橋は一切ない。ただ湖の真ん中に塔が聳えているだけ。

 ここに、西の魔女とそしてうららが居る。


「で、ここからどうすんだ? てかあいつはこの塔のどこに居んだ…?」


 砂と湖の不自然な境界に立ち空へと伸びる塔を見上げながら言ったレオに、返ってきたのは切迫したソラの声だった。


「レオ先輩、下がって!!」


 ソラの叫んだ声と同時に、条件反射のように体をひく。

 瞬後、つい先ほどまでレオが居た場所に鈍い衝撃音と砂塵が舞う。──何かが落ちてきたのだ、レオ目がけて。

 舞う砂埃にレオは顔をしかめ、薄く開けた視界に映ったのは。


「…サル…?」


 大きさは、通常のサルよりも一回り以上大きく、背中には目を引く一対の翼。


 ――そうだこいつ、あの時うららを攫ったサルだ…!


「う、わぁ~~ずいぶんお仲間がいっぱいいるんだねぇ」


 相変わらず呑気なリオの声につられるように視線を上げると、頭上には同じく翼を持ったサルたちが空中で群れを成してこちらを見下ろしていた。


「…マジかよ」


 レオの零した呟きにまるで応えるかのように、その群れは翼を震わせまっすぐ進路をこちらに向ける。そのスピードを徐々に加速させながら。


「くっそ…!」


 獣や魔女よりはマシかもしれないけれど、とにかく数が半端じゃない。

 固く握りしめた拳に呼応するように、胸が大きく脈打つ。経験のあるそれは、レオの中にいる存在を熱く主張した。その力を借りる為のもの。この魔法の世界での、力を。


 しかしその瞬間、身構えたレオの視界に突如現れた腕に、レオの意識が奪われた。

 頭上へと翳された右手がパチン!と軽快に鳴り、と同時に一瞬の光が弾ける。

 思わず瞑った視界の向こうで、襲い掛かってきていたサルたちが呻きながら湖へと落下していく音が聞こえた。

 ムリヤリこじ開けて見上げた頭上には、空を覆い尽くすほどいたサルたちの姿は一匹もなかった。

 何が起こったのか分からず、レオはただ呆然と突然隣りに現れた男を見つめる。

 目元には黒い仮面をつけ全身は黒いスーツのような格好。更に黒いマントを身につけた明らかに場違いな男。その口元には、うっすらと緩い笑みを浮かべている。


 ――いったい、ダレ…


「急がなければ…時間がありませんよ」


 またもや突然後ろから聞こえてきたその声は、凛と響く女の声。

 驚いてレオ達が視線を向けると、そこには見覚えのある姿があった。黄色の鮮やかなドレスは、やはり場違いには違いないけれど。


「…北の、魔女…?」


 零した言葉に応えるように、北の魔女はにこりと微笑んだ。


「意外と凝った結界だなぁ…うららと魔女の居場所は分かるかい?」

「きっと塔の屋上でしょう。真実の鏡がありますから」

「では、急ごうか」


 仮面の男と北の魔女の会話にまったくついて行けないレオたちを置いて、男は再び右手を頭上に翳した。


「さて、君たちの道は我々が造ろう。君たちは上へ…うららのもとへ」

「待てよ、あんたは一体…」


 思わず突っ込んだレオの問いに、答えたのはすぐ近くまで来ていたソラだった。

 まっすぐ見つめるその顔は、今にも泣きだしそうに歪められていて。いつも笑みを絶やさないソラのそんな顔を見るのは、初めてだった。

 そしてその口から、小さく零れるように言葉が紡がれた。おそらく目の前の、相手の名を。


「……オズ」


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