第2話
夕食後、本当に久々に、というよりこの世界にきてから初めて、お風呂に入った。
驚くほど広い大浴場をうららはひとりで満喫し、感激で思わず涙ぐんでしまったほどだ。疲労も空腹も苦痛だったけれど、やはりお風呂に入れなかったことは一番の難点だった。水浴びにも限界があったし、いつも人目が気になって仕方なかった。
お腹も満たされ、身体も癒され、ふかふかのベッドもある。もうすぐみんなの願いも叶う。
今夜はきっとぐっすり眠れる。そんな気がした。
部屋に戻ると広い室内は意外なほど静かで、部屋の壁際に対照的に並べられたベッドには、それぞれ膨らみと共に規則的な寝息が聞こえてくる。
夕食後、男子メンバーもお風呂に行っていたはずなので、みんな同じように身体も心も癒されてあっという間に眠りに落ちたのだろう。
部屋の明かりをそっと落とし、うららも自分のベッドに静かに腰掛ける。
ふと隣りのベッドに視線をやると、そのベッドを頑としても譲らなかったコトの発端でもあるリオが、いない。ベッドに一度入った形跡は見られるものの、今は無人だった。
――やっぱり眠れなくて、散歩でもしているのかな。
ここは偉大な魔法使い・オズが治める国。危険なことは無いと思うけれど…一抹の心配を抱えながらも、身体に触れる柔らかなベッドの誘惑には抗えず瞼がとろんと落ちてくる。
スリッパを脱いで濡れた髪もそこそこに、うららもベッドに潜り込んだ。
──温かい。
ぼんやりと思う意識さえ、頭の片隅に追いやられる。
うとうとと、あっという間に夢の中へと引き込まれるうららの意識を再び連れ戻したのは、自分の手に触れた、自分以外の温もり。
最初はまったく気にも留めなかったそれが自分の名前を呼んだとき。その違和感に漸くうららは瞼を押し上げた。
そこに、すぐ目の前に居たのは。
「リオせんぱ…!!?」
「しーーーっ! うーちゃん、みんな起きちゃうよ」
思わず声を上げそうになったうららの口に、慌ててリオの大きな手が被さる。その手を押さえながら、うららは瞬きをぱちぱちと繰り返す。
何度見ても確認しても、目の前にはリオがいる。同じベッドの中に。
驚きを隠せないうららにリオはくすりと笑いながら、口を開いた。
「やっぱり、眠れなくて。みーんなあっという間に寝ちゃってさー、うーちゃんを待ってたんだよ? 眠くなったらちゃんと自分のベッドに戻るから、少しだけここに居てもいい?」
ひとり用のベッドの中、すぐ目の前でリオがささやく。
一番窓際のこのベッドには、大きな窓から月の光が柔らかく降り注いでいた。
みんなの寝息しか聞こえない静かな夜。月明かりだけが内緒の夜をそっと包み込んだ。
「うーちゃん、ねむい?」
「さっきまでは眠かったですけど、流石にぶっ飛びました」
リオの発言や行動は確かにマイペースで気侭だったけれど、今回ばかりは心底驚かされた。この人自分のこと女と思ってないんじゃないだろうか。
そう思うとわずかに口調に棘が混じるけれど、だけどリオは気にする様子もなくじっとこちらを見つめている。
やわらかなふとんを頭まですっぽりかぶったリオのいたずらな瞳に、うららの作る隙間から届く月の光が揺れて、なんだかくすぐったい気持ちだった。
だけど体と体の間に空けた空間を、うららが見せた僅かな警戒を、リオは決して侵す様子はなく。正直言ってうららも身の危険だったりとか、そんなものは微塵も感じなかった。
リオは気侭でマイペースでたまに常識やぶりだけれど、そんな人ではないと知っていたから。
一瞬のような永い沈黙の後。リオがぽつりと、零した。
「昔話をしてもいい?」
視線を向けたリオの瞳に、もう月の光は届いていない。うららはただ声もなく、頷いた。
「みんなには言ってなかったんだけど…おれ、この世界に来てからここまでの記憶…忘れてないんだ。時間も流れているならおれの体もその流れに従って、〝忘れて〟しまうんだとそう思ってた。だけどなんでか目が覚めても、覚えてた。忘れてなかった。ここがやっぱり絵本の世界で、魔法とかそんなものの、おかげかもしれない。おれはただ──…うれしかった。意図して言わなかったわけじゃないけど、アオもレオも、昔から知り合いなんだ。って言っても、ホント知り合いって言える程度だけど…それでもおれにとっては数少ない名前を呼べる相手だった。名前を知ってからは長いけど、必要以上に関わることなんてなかった。おれ達はいつもどこか浮いていて…そして、ひとりだった。アオはいろんな意味で才能があったから、自分の力で今の地位や居場所を確立して、レオは怯えるように、拒絶するみたいに、暴力でぜんぶ投げ出して、孤立していった。おれも似たようなもので…ビョーキを掲げてれば人が寄ってこないことを知ってたし、自分からも決して、踏み込まなかった。…無駄だって、わかってたから。年をとるにつれてだんだん一緒には、居られなくなった。おれの病気や、アオのお母さんの死や、レオの妹のことなんて…些細な理由だったはずなのに、おれ達はコドモで…拙かった。向き合うことすら、できないほどに」
リオのその瞳は、目の前のうららすら通り越して窓の向こう、遥か遠い空を見上げていた。ずっとずっと遠くを、見つめていた。
「アオやレオには内緒だけど…ふたりはおれが、昔のことぜんぶ忘れたと思ってる。おれがそう言ったからなんだけど…だけどホントは忘れてなんかない。…忘れられなかった。だってふたりのこと、バカみたいにノートにたくさん、書いてあるんだ。きっとすごく、気になってたんだろうね、当時のおれは。…すべて忘れた後でも、それは支えだった。だけど傍に居られなかったから…忘れたフリした。…守る方法を、まちがえたんだ」
ひっそりと紡ぐ言葉は、まるで小さな懺悔のようだと思った。
「要らないものは切り捨てて、そうやって〝忘れて〟きたのはおれなのに…ずっとそうやっておれは、生きてきたのに。ここまできて忘れること、忘れられてしまうこと、初めてこわいと思った…今感じるこの想いすら、無かったことになってしまうなんて──かなしい。だけど…だけど、うーちゃん。覚えていてくれる人がいるなら、それは、失くならない。無かったことには、ならない。何よりおれ達は忘れるのに覚えている人がいる。それって今までのおれとは逆の立場で…やっとおれ、分かったんだ」
そっと、その瞳に再び月の光とうららが映し出される。
――なんて情けない顔してるんだろう、わたし。
そんなうららにリオは柔らかく笑って、その手がやさしくうららの頬に触れた。
「忘れないで…うーちゃん。せめて、君だけは。忘れてほしくないんだ。ここでの日々は、大事だった。大切だった。おれの我がままだって分かってる。おれに言われたくないかもしれないけど…だけど誰も覚えていなかったら…覚えている人がいなくなったら、本当になくなっちゃう。記憶も思い出も何もかも。確かにあった繋がりも、すべて。…それが一番、哀しいんだ」
小さな叫びと共にその瞳から月の雫がぽたりと零れ、月明かりを濡らした。
願いの雫はゆっくりと真っ白な夢へと吸い込まれる。
その夢に星を降らせられたらいいのに。そんな夢みたいなことを思ったけれど、ここは魔法の国だから。
――わたしに魔法が使えるなら、叶うまで、届くまで、星を降らせ続けるのに。
魔法も願いを叶える力もないうららは、今はただ強く、温もりを繋いだ。
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