第11話



『──レオ…目をさまして、レオ…』


 ──声が…きこえる。


『レオはボクの声を聞いてくれた。だからあと少しだけ、耳を澄ませて…──信じて』


 いつの間にか随分聞き慣れたライオンの声。だけど初めて会った時よりもその声音は変わっていた。お前はもうきっと、臆病じゃない。弱虫なんかじゃない。オレなんかより、ずっと───


『レオ、正しい選択がなんだったのかなんて、ダレにもわからない…だけど、レオ。これから選ぶ選択を、導くのは君だけ。君だけなんだよ』


 ――…これから…?

 これから先のことなんて、考えたこともなかった。

 もう自分には選ぶ権利なんて無いと、ずっとそう思ってきた。


『じゃあもう一度だけ…ボクを、信じて。レオの心を、ボクに預けて。レオがまた立ち上がれるように、ほんの少しでも前に進めるように…レオだけの大切な願いごとを、見つけ出せるように。今度はボクが君の、助けになる』


 ――オレの願い…?

 そんなもの無い。願いも、望みも、未来も。


 全部捨てた。全部諦めた。じゃなきゃ前に進めなかった。なのに──

〝でも、願い事があるのって、素敵なことだと思う。何か願う時って、変わりたいときだと思うから─〟 

 だったらオレも。願ったんだろうか、あの日に。変わりたいと…前に、進みたいと。


 どうしてかわからないけれど、あいつがまた、泣いている気がする。

 それだけは──そうだなきっとそれだけは、捨てられないんだ。諦められないんだ、もう二度と。

 暗闇の中、ライオンが言う。


『一緒に行こう』


 暗闇を呑み込む金色の光。まるで太陽のようにまばゆく、痛いくらいに神々しくて。

 信じてみたいと思った。まだ自分にも取り戻せるものがあるなら。すくえるものがあるなら。

 もう手放さない為、失くさない為。

 手を伸ばす。それを願いの糧にして。


◆ ◇ ◆


 暗雲が轟き空を覆う。気温が変わり、風が冷たく掠めていく。

 およそ〝絵本の世界〟に似つかわしくない冷たく重苦しい空気がその場を支配していた。

 空気だけじゃなくて光景そのものが、黒く染まっていく。まるで世界の終りを見ているみたいだとリオとアオは思った。


 谷底に落ちたうららとレオは、未だ戻ってくる気配は無い。数十分かそれぐらいしか経っていないはずなのに、もう何時間も待っている気がする。

 募る不安と目の前で不敵に笑う魔女が、一層空気を黒く染め上げた。


「さて、アンタ達はどうする?」


 東の魔女は口元をいやらしく歪め、その瞳にリオとアオを映す。この場合の選択肢なんて、ひとつだけだ。


「──俺が行く。リオ、お前はここで待ってろ」


 メガネのフレームを押し上げながら、アオが一歩前に踏み出した。予想外の言葉にリオはおもわずアオの顔を凝視した。


「行く、ってどうする気?」

「知らん。知らん、が」


 ふ、と息を吐き出して。いつもきっちり締めているネクタイを気だるげに緩める。はじめてだと思った、アオのこんな顔。


「あの魔女は、ブリキのきこりに呪いをかけた張本人だ。報復ぐらい、する価値はあるだろう」


 アオらしくない、なんて感情的なセリフ。アオもここに来ていろんな意味で変わった。

 そんなアオにリオは仕方ないなとため息混じりに苦笑いを漏らし、埃を払いながら立ち上がる。


「なら、お供しようじゃない」

「余計なお世話だ」

「アオは昔っからカワイくないなー」

「お前にだけは、言われたくない」


 それでも自然と口元に笑みが浮かぶのは、なんとなく、懐かしいからだと思う。

 リオ自身には懐かしむ記憶なんて殆ど無いけれど、でもそう思ったのは嘘ではなかった。


「こういうのは、あのバカにやらせておけばいいと思ってたんだがな」

「レオの得意分野だもんねぇ」


 ──むかし。自分達はきっと心のどこかで、互いの存在を頼りにしていた。そんなこと決して言えやしないけれど。


「おれ達が欲しかったのはさ、きっとおんなじものなんじゃないかなぁ」

「……おなじ、か」

「レオもアオも、おれも。自分のことで手一杯の、ガキだったってこと。そろそろ前に、進まなきゃねぇ」


 そうかもな、と隣りでアオが笑い、リオも笑い返す。

 相変わらず自分達を見下ろす魔女が陰鬱にわらう。その後ろには真っ黒い雲が影を濃くし、日の光をすべて遮っていた。


「なぁに、アタシとヤる気? いい度胸じゃない。まさか中にいる住人の力をアテにしてるの? ソイツらとアタシの力の差ぐらい、わかるでしょう? そんな願いを手に入れたヤツらにもう用は無いのよ…!」


 向けられる目は、突き刺さるような鋭い意思は、完全なる敵意。それを肌で感じたとしても。きっとふたりが考えていることは同じだった。


「うーちゃんとレオが帰ってくる場所は、ちゃんと守らなきゃね」


 ぽたり、と足元に一滴の雫が吸い込まれ、やがて空から無数の雫が溢れ出した。


「──ホント、ジャマ者ばっかり…! みんな要らない…消えればいい…! こんな世界にしがみついてるから、いつまで経っても変われないのよ…!アタシは行く。変えてやる…! この世界の外に、必ず行ってやる…っ」


 東の魔女が感情を顕に口元を歪め、振り上げたその手の先に棒状の杖のようなものが現れた。その先端が光を帯びる。

 暗雲に泳ぐ黄色い龍をまるで呼んでいるかのようにその周りに雷が渦巻いた。


「ジャマするんじゃないわよ…!」


 轟音が鳴り、黒い雲間を走る稲光。リオもアオも思わず目を瞑った。金色の雷が──降り落とされる。

 だけどそれは黒い雲からでは無く、谷底から。

 リオとアオにではなく東の魔女へと、まっすぐ落ちた。


「な、なに…?!」


 何かが地面に落ちるような、倒れこむような音が悲鳴と共に聞こえ、そして追って獣の唸り声があたりに響く。

 次第に増す雨音に掻き消されることなくそれは響き渡った。


 目を開けると頭上高くに居たはずの魔女の姿が地面へと倒れこみ、そのすぐ上に金色の大きな獣が居た。

 水を吸ったその毛色は衰えることなく、まるで光を纏っているかのように神々しく凛々しい。

 喉元から発せられる唸り声は絶えることなく、その大きな前足で魔女を押さえつけていた。


「…ライオン…?」

「──レオの、住人か…?」


 リオとアオは呆然としたまま、その様子をただ見守る。

 今までレオとうららにしかその姿は見えてなかったはず。どうしてふたりの目にも映るのかはわからなかった。

レオとうららの姿は、見当たらない。


「……ッ、なにすんのよ…! アンタ、どうやってアタシの魔法から抜け出たわけ…?!どきなさいよ! アンタがアタシに勝てるわけないでしょう…?!」


 東の魔女が怒りで声を張り上げるが、ライオンは退く気配を見せない。


「いい加減に…!」


 再度叫んだ魔女の顔つきが、何かに気付いたように突如強張る。

 その視線の先にいるのは金色のライオンだけ。


「アンタ、まさか……っ」


 そしてライオンが、声を発した。


「──オレに…オレに出来ることなんて、たかが知れてた…世界を変えられるなら、オレだって変えたかった」


 その、声は。


「ずっと…違う世界を、望んでた…こんな世界、認めたくないって。あいつを守ってやれるような、そんな、自分を…」


 はっきりとではなく、別の声が混じるようなそれは。ライオンから発せられた声は。

 紛れもなくレオの声だった。


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