第10話



 ふわふわと、体が宙に浮いているようだった。


 ――ここはどこだろう…わたしは何をしていたんだっけ…?


 記憶がぐるぐると、まとまりなく頭を旋廻する。ふと視線を外したその先にまで、まるでわたしの頭の中の映像をそこに映し出したかのように、やさしい記憶は溢れてわたしを包み込んだ。その中で懐かしい声が頭に響く。


『迷子になったら、困ったことがあったら、帰り道を見失ってしまったら──くつのかかとを3回、鳴らしてごらん』


 そうこれは、小さい頃に教わったおまじない。大好きなオズの、魔法のおまじない。

 小さい頃は何かある度にそれを実行していた。よく迷子になって、途方に暮れて泣いていたあの頃…おばあちゃんの言葉を思い出しながら、胸の内で何度も呼んでいた。


『想いを込めて、願いを込めて…そうすればきっと、道は拓く…願いは叶うから──』


 ――いつが、最後…? わたしがそれをしたのは、願ったのは──


 風が強く吹いていた。あの日呼んだのは、願ったのは、なんだった?


 ────空。

 高く突き抜けるように青い空がある。胸が締め付けられるような焦燥。

 手を伸ばそうとしたその瞬間、ぐらりと景色が輪郭を失いわたしの体が傾いた。

 落ちていくそう思うのに、体は指一本動かない。記憶の海の中、景色が、声が頬を掠める。


『──うらら。この銀の靴はずっと、母親から娘へと受け継いできたものなの。エミリーには渡せなかったけれど、今度はあなたが持っていて。もうそろそろあなたの足のサイズに合う頃だと思って、渡しておきたかったの』


 銀色の布地でできた、シンプルなリボンのついた靴。特別な靴なのだと、そう感じた。


『大丈夫よ、あなたなら。きっとこの銀の靴が、あなたの願いを叶えてくれる…導いてくれるわ』


 そう言ってわたしの頬を皺だらけの手がやさしく撫ぜ、見慣れた優しい笑顔が胸を打つ。


 ――履いたのは、いつだった? 手にした記憶はある。そう、叶えたい願いがあった。わたしが、願ったのは───


『──だめ、お姉ちゃん…! 今はまだ、そっちに行っちゃダメ…!』


 ――…だれ…?


 どこからともなく降ってくる声に視界が揺れる。落ちていくだけだったわたしの手を、誰かが握った。


『大丈夫、連れていってあげる! だからはやく目を覚まして』


 すぐ近く、わたしの耳元でその声は聞こえ、わたしは漸く瞼を押し上げた。


「……だ、れ…?」

「よかったぁ、目を覚ましてくれて…これ以上落ちていったら、手が届かなくなるところだった」


 繋いだ手に力を込めて、声の主は嬉しそうに笑った。

 自然と目線が下がるその先には、ひとりの女の子。長くて黒い髪に黒い瞳。それから淡い黄色のパジャマを着た、かわいらしい女の子が居た。

 小学校の、低学年くらいだろうか。でも細くて小さな体つきはもっと幼いようにも思える。

 幻のように儚げな女の子。だけど繋いだ手は確かに温かかった。


「お姉ちゃん、うららちゃんでしょう?」


 その大きな瞳にしっかりとわたしを映して、女の子は自信ありげにほほ笑む。初対面のはずの女の子の口からいきなり自分の名前が出てきたことに、驚く。

 もしかして、知り合いなのだろうか。手繰る記憶には、居ないけれど。


「わたしと…どこかで会ったことがあるの…?」

「ううん、はじめまして、だよ」


 明るくはきはきと答えるその様子に、なんとなく緊張が解ける。手を繋いだまましゃがみこみ、視線を合わせて訊ねた。


「あなたの、名前は…?」

「ゆい!」

「ゆい、ちゃん…」

「うららちゃん、こっちだよ。ゆいについてきて」


 顔を綻ばせてゆいちゃんは笑い、わたしの手を引く。

 軽快に駆けるゆいちゃんにつられるようにわたしの足取りも速まり、引かれるがままに真っ白な世界を駆けた。

 ゆいちゃんははしゃぐように楽しそうで、不思議な気持ちだった。


「ゆいちゃんは…どうして、ここにいるの? どうしてわたしの名前を、知ってたの…?」

「ここは夢と夢の境界で、ゆいは自分の夢からきたの。うららちゃんが真っ暗な夢に落ちてしまうのを、助けてあげて、って頼まれたの」

「頼まれた…?」

「うん、ホントは自分の夢から出るなんてすっごくこわかったけど、とっても不安だったけど…でもうららちゃんは、お兄ちゃんと繋がってるって、聞いたから」

「お兄ちゃん…? 聞いたって、だれに…?」


 ゆいちゃんは歩みを止めず、振り返りながらわたしの質問に笑って答える。


「王子さま! ゆいに、いろんなことを教えてくれるの! ゆいは夢の中でしか生きられなくて、でも夢の中はずっとひとりぼっちで。だけど王子さまが時々来て、いろんなお話をしてくれるの! お兄ちゃんのことも、うららちゃんのこともよ」


 どこか嬉しそうにゆいちゃんは笑い、それから「見えてきた!」と視線を前に戻した。

 その視線を辿った先に一粒大の光が見え、その距離が少しずつ近づいてゆく。


「あそこが入り口。うららちゃんが、来たところ。うららちゃんは、まだやることがあるんでしょう? はやく、戻らなくちゃ」

「…やる、こと…」

「ゆいが案内できるのはここまでなの。ゆいはここから先へは、いけないから」


 真っ白い空間にぽっかりとその〝入り口〟は在った。輪郭のぼやけた、光の扉。

 その扉の前でゆいちゃんが立ち止まり、顔から笑みを消した。そしてその小さな手で、わたしの両手をぎゅっと握る。


「ゆい、ちゃんとできたでしょう? ここまでちゃんと、案内できたでしょう? だからうららちゃん、今度はゆいのお願い、きいてくれる?」


 まっすぐわたしを見つめる、透明な瞳。その小さな手は意外なほど力強かった。

 笑った顔の印象が掻き消されてしまうほど、痛切さが滲む表情。わたしはほぼ無意識にその手を握り返して。その視線をまっすぐ受け止めた。


「わたしに、できることなら…」

「できるよ! うららちゃんにしかできないの…お兄ちゃんに…どうしても伝えたいことがあるの。だけど次にいつ会えるか、わからない。だけどゆいはどうしても今、伝えたいの。お兄ちゃんはずっとゆいの為に…ゆいの所為で自分を責めてる。ずっと、苦しんできたんだよ。ゆいもお兄ちゃんも、ずっと迷子みたいに、出口が見つからないの」


 哀しそうに呟き、その大きな瞳が揺れる。

夢の中で生きるというその意味は理解できなかったけれど、ゆいちゃんはずっとここで孤独と共に在ったこと。そしてゆいちゃんがどれだけ〝お兄ちゃん〟が大切かということだけは、繋いだ手から伝わってきた。


「だからお願い、うららちゃん。かならず戻って、お兄ちゃんに伝えて。もういいんだよ、って言ってあげて、ゆいの代わりに。ゆいは大丈夫だから、もうお兄ちゃんは、自分の道を歩いていってって。置いていかれたなんてゆい思ってない。お兄ちゃんはとても優しいから、ゆいはそれを知ってたから…さびしくて、かなしくて…お兄ちゃんをずっと、縛り付けてたの」


 ポタリと、ゆいちゃんの瞳から涙が零れ落ち真っ白い空間に光を放ちながら重なってゆく。それは目の前にある扉と同じ、淡い光。やがて涙の跡からその光は広がり、瞬いた。視界が真っ白に眩む。


「ゆいちゃ……!」

「伝えて、うららちゃん。お兄ちゃんが、きっとうららちゃんを見つけてくれるから…もう、離れちゃだめだよ、待っている人が居るんだもん」

「ゆいちゃん、ゆいちゃんは…? きっとお兄ちゃんも、ゆいちゃんのこと待ってるよ…! 一緒に…一緒に戻ろう…っ お兄ちゃんのところに、かえろう…!」


 少しずつ、頭の記憶が整理されていくように、絡まっていた糸が解けるように。それは鮮明に受かび上がった。

 妹がいる、と言っていた──レオ先輩。

 ゆいちゃんの〝お兄ちゃん〟は、きっとレオ先輩だ──


「だって、言ってた…! 大事なことは自分で伝えなきゃ、ダメなんだよ…!」


 だけどゆいちゃんはふるふると小さく首を振った。そして繋いでいた手が離れていき、温もりが消えていく。体が扉の中へと、吸い込まれていく。


「いいの。大事だから、今伝えたいの。ゆいには今それができないから。だからゆいの言葉を、うららちゃんに託すの。もう、大丈夫だから…もう待ってなくていいよって、言ってあげて、ゆいの代わりに」


 徐々にわたしの体が光に呑み込まれ、ゆいちゃんの姿が見えなくなる。手を伸ばすのに、届かない。もどかしくて悔しくて、涙が滲んだ。


「今度はゆいが、お兄ちゃんを呼ぶから…だからうららちゃんも──…」


 そう言ってゆいちゃんは、出逢った時のように笑顔を見せた。

 大きく手を振ったゆいちゃんの笑顔も姿も、光の向こうに消えていった。


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