第9話
オレが7歳の時父親が再婚し、その1年後ゆいが生まれた。
死んだ母親の血を濃く継いだオレとは似ても似つかない、まっすぐな黒髪に黒い瞳をした、妹。半分だけ血の繋がった8つ下の妹、ゆい。
あの日――ゆいが生まれた日。生まれたばかりのゆいの小さなその手が、オレの指をしっかり握ったとき。ケンカばかり、傷つけてばかりのオレの手を、ゆいがなにより価値あるものへと変えたんだ。ひねくれて生きてきたオレのそれまでの世界をガラリと塗り替えるような、そんな存在だった。
だけどゆいは、生まれつき病気を患っていた。
ゆいは一度眠ると、自分の意思で目覚めることができない。起こす者がいなければ永遠に夢に彷徨い死ぬまで目を覚まさない…そういう病気だった。
『これから毎日、ずっと…ゆいを起こしてあげなくちゃいけない。誰かに呼んでもらわないと、ゆいは起きられないの。…お兄ちゃんに任せていい…?』
義理の母親が、初めてオレを〝お兄ちゃん〟と呼んだ日。オレは考える間も迷う間もなく頷いていた。たぶんそれはオレに与えられた役目だと、使命みたいなものだと思ったんだ。
オレがいたずらにキレて暴れることは少しずつ減り、ゆいは毎日少しずつ大きくなり、ずっとその様子を傍で見守ってきた。
オレの呼ぶ声におはようとゆいが笑い、1日が始まる朝。ありふれたそれだけで満たされる何かがあった。
だけどそれは長くは続かなかった。
『……もう、いいの…』
オレが14で、ゆいが6さいの時。突然、母親がオレにそう言った。
相変わらずケンカっぱやい性格はそのままだったけれど、だけどゆいの存在が少なからずの歯止めになっていた。その時のオレにとってゆいと迎える朝が、日常が…大切だった。オレを変えたのはゆいの存在だった。
そんなある日両親から話があるからと呼ばれ、唐突に言われた言葉がソレだった。
何を言っているのか、何がもういいのかわからない。
なんで母親が泣いてるのか、父親が辛そうなのか。オレには全く理解できなかった。
『ゆいは病気のせいで、体力が極端にない。それは生まれつきで、段々衰えてる。ゆいはこの先も普通の人と同じように過ごすことは、難しいだろう』
確かにゆいは、病気のせいで学校には行っていない。家に居る時もベッドで過ごすことの方が多い。だけどそんなの、今更だ。それはそういう病気だと、ゆいの病気に関して聞いた日から、理解しているつもりだった。
『起きていても、寝ていても体力は消耗する。だけどやっぱり、起きている時の方が圧倒的に体力の消費が激しくて…身体が少しずつ、ついていけなくなってるんだ』
父親の言葉の意図することがまったく汲み取れないのは、父親の説明が下手なのか、オレの頭がバカだからなのか。ワケがわからずただ苛立ちで拳を握ることしできない。
全く反応を返さないオレに、父親は続けた。
『……ゆいが自分で目覚められないのは、眠っている間身体が仮死状態にとても近い状態だかららしい。だけど眠っている間なら、極端に体力を消費することも、気をつけていれば死んでしまうこともない』
唐突に出てきた死、という言葉に、漸くオレの頭がその先を感づいた時にはもう遅く。父親がそれを口にした。
『…起きている時間が長いほど、ゆいの身体は寿命を消費する。ゆいがこれから先少しでも長く生きるには、眠っている時間を、長くしなければならない。……もうゆいを、起こさなくていいんだ…起こさないでくれ』
『……ふざけ、んな…っ』
学校にも通えず、自分が周りとは違うということを。自分の体の不自由さを、ゆいは今まで一度だって恨むことなく生きてきた。ただ毎日を、ゆいは笑って生きてきたんだ。
オレと半分血が繋がっているなんて信じられないほど、ゆいはまっすぐ、その小さな体ですべてを受け止めながら、生きてきたのに。
──どうして、ゆいなんだ。
それをありのままに伝えるには、ゆいはまだ幼くて。だけど悩んでいる猶予も時間も殆ど残されていなかった。
少しずつ、体の為だと誤魔化しながら、起床時間と就寝時間をずらし1日の内で起きている時間を調整はしていたけれど、それでもゆいの体は日に日に衰弱していくように見えた。長く起きていることに、耐えられなくなっていった。
真実を知らされないまま、ゆいは夢の中に落とされる。
落とすのは、オレだ。
『お兄ちゃん、ゆい最近ね…いつの間にか眠っちゃってて…なんだか、こわいの…』
『……こわいことなんて、なんもねぇよ。ゆいは今は、寝るのが仕事みてぇなモンなんだから、眠い時は眠っとけ』
『なにそれ、ゆい赤ちゃんじゃないもん!』
『いいからほら、もうすぐ点滴の時間だぞ。お前キライだろ。…寝てる間に、終わってるから』
『──でもゆい、眠るのが、こわい…このまま目を覚まさないんじゃないかって…もう二度と、パパにもママにもお兄ちゃんにも、会えなくなっちゃうんじゃないか、って』
次第に重くなる瞼を必死に押し留めながら、その虚ろな視界にオレを映して。ゆいの小さな手が、オレの手を握る。必死に訴えるように、祈るように。ゆいはオレにすがった。
『だからお兄ちゃん、呼んで…ゆいの名前をたくさん呼んで、ゆいをちゃんと、起こしてね。ぜったいぜったい、約束よ。ゆい、絶対にお兄ちゃんの声だけは、聞き間違えたり、聞き逃したりしないの。だってお兄ちゃんの声はいつもまっすぐ、ゆいの心まで届くから…お兄ちゃんが呼んでるから行かなくちゃって、思うから。お兄ちゃんはゆいの、太陽なんだもん。だから明日も、明後日も。ゆいを絶対、呼んでね』
オレは上手く笑えなくて。頷くことも、できなくて。
震えるその小さな手さえ、握り返してやることができなかった。
『ゆいは弱くて臆病だから、たくさんのことを信じられないの…でもお兄ちゃんのことだけは、信じられる。だからお兄ちゃん、ゆいにも分けて、…信じられる、勇気が欲しい…ゆいのところにも、明日はちゃんと、くるんだって…お兄ちゃん、ゆい…こわいよ…』
オレを信じて叫ぶ声さえ、すがるように搾り出すように泣く声さえ、儚く脆くベッドに深く沈んでいく。ゆいは静かに残酷に、深い眠りへと落ちていく。
──ゆい。でもオレには、無いんだ。分けてやれるような勇気も、ゆいを安心させられる明日を連れてくる力も。オレにはそんなもの、無いんだよ。
勇気も、希望も、明日でさえも。そんなものオレははじめから持って無かったんだ。
──守れるなら。オレのこの手で、傷つけるしか、奪うしかなかったこんな手でも、守ることができるなら。ずっと守ってやりたいと、本気でそう思っていた。
ゆいが起きていられる時間が数週間に数時間、数ヶ月に数時間と減っていき、1年の殆どを眠って過ごすしかなくなった時。オレは、家を出た。
耐え切れなかった。眠り続けるゆいを、これ以上傍で見ていられなかった。次にゆいが起きるのは途方もなく先で、目を覚ましたゆいにかける言葉なんて、見つからなくて。もう傍にいることすら、できなかった。
『逃げるんだな、お前は。あんなに慕っている妹を置いて。そうやってカンタンに、裏切るんだな』
──うるさい…
『重荷になったんでしょ? 価値観なんて、大事なものなんて人それぞれだよ。ホントは一番よく解ってるんでしょう? だけど自分もそうだなんて認めたくないから、だからおれを否定したんだ。生きる為に、自分の為に、要らないものをあっさり切り捨てられるおれが、ホントは羨ましいんでしょう?』
ちがう、オレは。切り捨てていいものなんてなにひとつ無いと思ってた。そんな理不尽、受け入れられるはずがなかった。それを受け入れたら、ゆいは──
『アンタが一番、中途半端ね。自分の弱さを知ろうともしない』
────ちがう…!
ちがうのは、否定したいのは、受け容れられないのは、こんな理不尽じゃなく。
──こんなにも弱い、オレ自身だ…
ゆいを置き去りにして逃げた自分。そんな自分を決して認められなかった。一番大事だと思っていたものを、守れなかった自分を…オレは一番、許せなかった。
遠くでライオンの
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