第8話
『──…オ…レオ…っ! 起きてってばレオ!!』
「……っ、…い、てぇ…!」
大声で自分を呼ぶ声に、レオは瞼を無理やりこじ開けた。次いで意識と痛みが一気に押し寄せ、思わず腕を抱える。
『大丈夫? レオ…咄嗟に服を引っ張っちゃったから、破れちゃったみたい、ゴメンね』
「あ…?! 痛てぇと思ったらおまえ腕咥えやがったな!! ビリビリじゃねぇか! マジ痛てぇし!!」
じくじくと左腕が痛む腕にそろりと視線をやると、破れたシャツの隙間からくっきり噛み跡の残った腕が覗いた。血は出ていなかったが鬱血している。傷痕に痛みを認識するのと同時に、ちくりと違和感が視界を掠めた。
『だって、レオが急に飛び込むから、ボクも必死だったんだよ。首根っこくわえたら死んじゃうと思ったから腕にしたんだよ、加減もしたし』
「~~~…ッ、まぁ生きてるからいいけどよ…」
ガシガシと頭をかきながら小さくなった声音に視線を向けると、すぐ傍にライオンの姿があった。――だが。
「…ここ、ドコだよ」
『…崖から落ちた先の、谷底だけど…、どうやら魔法がかかってるみたいだ』
――…そうだ。オレは…オレと、こいつは。うららを助けようとして一緒に谷底に落ちたんだ。
視界に映る景色は確かに谷底ではあるのだが。だけど確実に、違う。さっき掠めた違和感の正体。
「…なんだ…ここ…」
地面も岩肌も、殆ど枯れているが僅かに残る川の水流も見上げた遠い空さえも。すべて灰色に覆われた、光すら重たく薄暗い場所。
景色だけじゃない。自分の体も目の前のライオンも、すべて色を奪われたように灰色に染まっていた。
『とにかく、うららを探さなきゃ…東の魔女が、そうカンタンに銀の靴を諦めるはずがない。魔女はどんなテを使ってでも、あの靴を手に入れたいはず。きっとムリヤリにでもうららの記憶を呼び覚ます気なんだ』
ライオンが重たく言い、視線を頭上に仰いだ。谷底から見上げる空は限りなく狭く、上が一体どうなっているのかは全く分からない。灰色の景色に目は慣れたものの、辺りがヤケに静かで胸が騒いだ。
「…でも、あいつもここに落ちたはずだろ? なんで姿が見当たらなねぇんだ…?」
『…わからない。だけど近くにいることだけは、確かだよ。姿が見えないのは、魔法で関わりを断たれたのかもしれない。ボクたちはうららがどこに居たって、ぜったい分かるから』
色褪せても光を失わないライオンのその瞳が、最初に会った時よりも強い光を放っているように思えた。
うららと絵本の住人たちとの繋がり──絆。目に見えないはずのそれが、カタチを持ったみたいだ。
『ボクたちは、そうカンタンにうららを傷付けることなんてできないんだ。だから無事だとは思う。だけど東の魔女は、強行手段に出た。力に魅入られた者たちは、この世界の規律がジャマなんだ。だから今は大丈夫だけど、彼女達はやがて力を手に入れる為なら、うららさえも傷つけるかもしれない』
この世界は確かに、矛盾している気がする。
うららの為と言いながら、この世界はどこかうららを拒絶しているようにすら思える節がある。レオはなんとなくそう感じていた。それはあくまで自分の中の、根拠の無い勘に過ぎないけれど。
「…オレは」
大事だという、繋がりを持っていたはずなのに。
力を欲するが故? 願いが強すぎるから?
守る者と奪う者が居る世界で、あいつはいつも結局泣いてばかりだ。
だけどそれは。現実だって、おんなじことなんだ。
――オレは絆だとか繋がりだとか目に見えない甘っちょろいものなんて信じない。オレは今まで自分の通してきたやり方を…自分の目で見て感じたものしか、信じない。だから。
「オレは、お前を信じるからな。お前がうららを想う気持ちを、信じる」
『…レオ…』
──オレは知ってる。
谷底に落ちていくうららを見て、最初に飛び出したのはレオじゃなかった。
真っ先に谷底に飛び込んだのは、東の邪悪な魔女を前にレオの隣りであんなに震えていた、大きな図体であんな怯えていた、気弱で臆病で弱虫だった、ライオンだった。
――それだけは、確かなもののはずだ。
「うららを探す。こんな胸クソ悪りぃとこ、さっさと出るぞ…!」
埃を払いながら立ち上がり、拳を握る。それにつられるようにライオンも腰を上げたのと同時に、目の前の景色がぐにゃりと歪み出した。
『…東の魔女が、ジャマをする気だ…ボクたちをうららに会わせたくないんだ』
唸るように呟いたライオンの声には緊張感が混じり、ライオンの見据えた視線の先に思わず自分も身構える。
その視線の先には、黒いインクをポタリと垂らしたような黒い滲みが湧き出ていた。
灰色の背景が歪み、それがゆっくりと広がってゆく。それはやがていびつながらも形を帯び、闇色の無数の手が這い出してきていた。後から後から沸き出で、体積を増してゆく。悪意の塊だ、まるで。
その光景にぞわりと鳥肌が立ち、思わず一歩引く。
「……キモ!!!」
『レオってば以外にのんきだなぁ』
「イヤあれフツウにキモいだろ! なんだよあれあんなのどうすんだよ!!」
『いまのボクの力じゃ、東の魔女の呪いに太刀打ちなんてとてもできないよ。ここはひとまず…』
声音を落としたライオンの言葉にレオは慎重に耳を傾ける。そうしている間にもその黒ずむ手の群れは、じりじりと距離を詰める。目なんかどう見たって無いのに、その先にはしっかりとレオ達の存在を捕らえていた。その異様な光景に思わず汗が滲む。
ジャリ、と足元で小さく砂が鳴り、ライオンが隣りで大きく吼えた。
『逃げよう!』
「……ッだよなおまえぜってぇ弱そうだもんな! 期待したオレがバカだったぜ!!」
『ヒドいよレオ! だってどう見たって無理だよ! いろんな意味でっ』
前方を見据えたまま合図も無く踏み込んだ足に力を込め走り出したのと同時に、その黒い手の群れも勢いを増してレオ達に襲い掛かってきた。およそ絵本の世界には似つかわしくないその光景に鳥肌がたつ。
『乗ってレオ!!』
「……っ!」
ライオンの申し出に一瞬の躊躇を払い捨て、レオはその背中に跨るように飛び乗った。バランスを整える間も無く4本の足が地面を蹴り、風を切るようにそのスピードは加速していく。振り落とされないよう必死でその体にしがみついた。
振り返った視線の先、黒い手の群れとの広がる距離に、思わず胸を撫で下ろす。
あのまま走っていたら、レオは確実に捕まっていただろう。
「やるじゃんお前」
『レ、レオ…褒めてもらった矢先で残念なお知らせなんだけど…』
「なんだよはえーな! いらねーよ、んなもん!!」
『はさまれたみたい』
がばりと再び視線を前方に向けると、振り切ったはずのソレと同じカタマリが、ざわざわと蠢きながら前方で待ち構えていた。
「…マジかよ…!」
呟きと同時に、ライオンの毛を掴んでいた手に力がこもる。ケンカには慣れていたし得意だったけれど、相手が生身の人間の場合だ。あんなもの、拳が効くとは到底思えない。イヤな想像で冷や汗が滲む。
それでもライオンは足を止めなかった。
「…おい、どうする気…」
『レオ、ボクはね。本当に見た目ばかりの、臆病者だったんだ。弱虫で、意気地なしで、そんな自分を知られたくなくて…なるべくダレとも関わらないように、ずっと隠れていた。さっきの崖の上にいたみたいに、じっと動けず震えているばかりだった。外にはこわいものばかりだったんだ』
「…おい…?」
『願いごとはあったけど、とても口にはできなかった。その勇気すら、ボクにはなかったんだ。変われず、踏み出せず。ボクはずっと…ひとりぼっちだった』
ライオンは語るのを止めない。
いつからライオンはこんな風に、顔を上げて前を向いていたのだろう。
いつも影から覗くように、もしくは俯きがちに相手の顔色を伺うばかりで。頼りなく話すばかりだったのに。
いつの間にかしっかりレオを見て話し、自分の意思で走り出していた。
『だけど今は、ちがう。レオがいるからかな、不思議ともうこわいとは思わないんだ。それよりもボクは、うららが泣くほうがイヤなんだ。レオ、こんな…こんなボクでも、走り出せたから…ちゃんと、言葉にできたら、うららは笑ってくれるかな』
スピードを緩めること無く走り続けるライオンのその声は、この状況に似つかわしくないほど落ち着いていて、驚くほど静かな声音だった。
だけどしっかりとした口調で、ただ前だけを見据えていた。
すぐ目の前には蠢く闇が迫っている。だけど不思議ともう、こわいとは思わなかった。
『ボクはずっと、勇気が欲しかった。ダレにも負けないような、ボクだけの勇気が──』
ライオンの体が、光を発する。視界に溢れる金色の淡い光。
――きっと、あいつなら。
今このライオンの姿を見て、その言葉をうららが聞いていたら。泣きながらもう十分だと、笑う気がした。
だけどそれを伝える間も無く、レオとライオンの体は暗闇に呑み込まれていた。
『──レオ…確かにボクらは、うららに逢いたかった。うららが大切だった。だけど、それだけじゃない。きっとボクらはみんな、君たちに出逢う為に…ボクは君に出逢う為に、待っていたんだよ。君にも…レオにも…待っている人が、居るでしょう──?』
──そんなヤツ、いねぇよ。オレを待っている人間なんて、ダレもいない。いるわけない。
昔のオレも、そう思っていた。
そう、あの日に“ゆい”に会うまでは。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます