第6話



 突如襲ってきた衝撃は一瞬で、気がつくとつい先ほどまで目の前に居たうららの姿はそこになく、気が遠くなるほど広い地下室にアオはひとりでいた。

 静まり返ったその空間に自分以外の人の気配は全くない。


「……まいったな」


 呟く声さえ頼りなく黒い闇に溶けて消える。

 とりあえず当ても無く歩くより、来た道を引き返そう。そう思いゆっくりと慎重に歩き出す。風も無いのにランプの明かりがぼんやりと揺れた気がして、思わず目を逸らした。


 ふと先ほどまでの温もりが消えた手を見つめる。彼女は、どうなったのだろう。

 ソラの為に泣いていたその姿が頭を過った。せめて彼女だけでも外に出られると良いのだが。薬を、彼の元へ。


『一度足を踏み入れたら、本当に欲しいものを手に入れるまで、戻って来れない』


 そう言っていたブリキのきこり。うららの欲しいものは手に入ったはずだ。でも、もしもまだ、彼女もこの暗闇に閉じ込められているとしたら。

 きっとまた、泣いているのだろうと思った。ひとりで――


「……くそっ」


 思わず漏れた言葉と共にメガネのフレームを押し上げ、歩き出す。

 こんな所にまともな出入口などありはしない。きっと、今探すべきは――


 ひとりの方がよっぽど気楽だと、そう思っていたのに。いきなりわけの分からない世界に飛ばされて、始終誰かと共に行動していた所為か。ひとりの静寂に、嫌な記憶まで暗闇に紛れて忍び寄った。


 ――俺は。

愛とか、信頼とか、絆とかそういったものを一切信用していない。信じて信じて、それでも最後には結局裏切られることを、アオは知っているからだ。信じてるだなんて自分の気持ちを誤魔化す為の都合のいいイイワケだと。

 アオの母親は執拗なまでにそれを、口にしていた。

 外見だけは良かったアオの母親は、顔も知らない政治家の愛人としてアオを身篭った後、あっさりと捨てられた。

 毎日毎日母親はアオの顔を見る度に、うわ言のようなそれを、そればかりを繰り返した。


『もうすぐ…もうすぐよ、きっと…きっと迎えにきてくれる…私たちを、迎えに来てくれるからね。信じてるから、大丈夫。信じていれば、大丈夫…そうしたらきっと、幸せになれる…だって誰よりもあの人を、愛しているの…私は誰よりも、愛されているんだもの』


 脳裏に刻まれるように、刷り込まれるように。鼓膜のずっと奥にこびりつくようにそれは、毎日アオの耳元で囁かれた。

 まるで毒か呪いのように、アオを、母親を蝕んでいった。


 ――そうやって生きていくことなんか、できないんだ。できなかったんだ。


 ある日母親がまだ幼かったアオの手を握り、マンションの屋上の淵に立って遥か地面を見下ろしていた。繋がれた手が痛くて堪らなかった。

 空は透き通るように青く、どこまでも突き抜けるように、高く。アオはただ母親に従い何も言わずその姿を見上げていた。


『ひとりは、さびしいでしょう…?』


 尋ねた母親に、アオはふるふると首を振った。強がりじゃなくて本音だった。アオはいつもひとりだったし、その方が楽だった。ひとりに慣れていた。

 そんなアオに母親は『そう…』と一言だけ零し、薄く笑った次の瞬間。かたく繋いでいたアオの手を、離した。

 そしてひとり暗闇へとその身を投じ、消えていった。


 反射的に手を延ばし母親の手を掴もうとしたアオの幼く短い腕は、母親を捕まえることはできず虚しく空をかいた。ただ母親が呑み込まれていく様を見送った。

 涙も出なかった。


 ──信じきれないなら、どうして捨てないんだ。現実を見つめて歩き出すことすら放棄して、そんな妄想めいた希望にすがって、どうして、嘘ばかり。詭弁ばかり。

 遊ばれただけの哀れな自分も、顔さえ知らぬ父親も――アオのことも。

 なにひとつ本当に愛してなんか、いなかったくせに。


 確かなものなんてきっとこの世界のどこにもありはしない。だから。

 暗闇に沈んでいった哀れな母親のようになるくらいなら、ひとりで生きていく方が、誰とも関わらずにいられる方がよっぽど気楽だと、そう思っていた。

 母親から滲み出た暗闇はもう無くなった。あの日に母親は死んだのだから。やっと解放されひとりになった。ひとりの静寂と暗闇はアオに心地よかった。

 そう、思っていたのに。


「──オ、……い…」


 この〝世界〟は光が溢れすぎていた。

 きっと、だからだ。見るもの触れるものすべてが、痛いくらいに眩しくて─―


「アオ、せ…、…、」


 …声が名前を呼ぶ声が、聞こえてしまうから…届いて、しまうから。

 どこか母親にも似た、彼女の泣き声が。

 嫌いなはずなのに、振り払えない。裏切られるだけかもしれないのに、何を求めているのかも分からないのに。

 手を伸ばさずにはいられないのは──


「アオせんぱい……!」


 ――たぶん、きっと。


 きみが流した涙を綺麗だと、そんなバカげたことに心を奪われたからだ。

 誰かの為に、誰かを思うその温かな情に。焦がれていたのも、認めたくないけれど事実。 

 アオが知りえなかったもの。だからこそ、心は求めてしまった。


 不本意だった。だけどそういうのも、この世界なら悪くないとそう思えた。

 今なら呼べば、手を伸ばせば、届く気がした。

 彼女の名前を。


「──うらら…!」


 手を伸ばしたその先に光が灯る。

 その光はアオが想像していたよりずっと、温かい光だった。


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