第7話



「…望まなくてもいいことと、望んでもいいものは…案外おなじなのかもしれないね」


 うららの隣りでリオが、小さく呟いた。

 淡い光がひいたあと、かかしの姿はもう目の前にはなく。うららの目からも、リオの目からも消えていた。

 戸惑うららに、リオは微笑む。


「一緒に行くから。ここに居るから、大丈夫」


 どこか嬉しそうに言いながら、胸にそっと手をあてリオが穏やかに笑う。

 その言葉の意味を、消えたかかしを、夜空に流れる星を…うらら胸に、そっとしまう。きっと大事なことだと思ったから。

 風が夜ととうもろこしの匂いを運んでは連れ去って、流れていく。ずっと見守っていた存在を失ったとうもろこし畑は、どこか寂しそうな…そんな風にも見えた。


「…そういえば、最後になんか物騒なこと言ってたね」

「そうですね…わるい魔女、とか…」


 その言葉にふと思い浮かんだのは、ヘレンの顔。魔女だったというヘレン。でも未だにうららには信じられなかった。

 白髪混じりのブロンドが日の光を纏ったように輝いていて、いつも優しく強く、気高くて。皺が刻まれても綺麗な人だと身内ながらに思っていた。うららの自慢の、おばあちゃんだった。

 ヘレンはお菓子作りと庭いじりが好きで、家には大きなかまどもあった。庭には多くの草花。家に帰るといつも、鼻をくすぐる甘いお菓子の匂いに迎えられて…


「……あ、れ…」

「…うーちゃん?」

「……、わたし、家の記憶が…」


 今、なんでもないことのように思い浮かべたのは、うららとヘレンが暮らしていた、家。

 ――そうだ、あそこが、わたしの家だ。


 確信したその瞬間、頭の中で記憶がはじけた。


 ――そうだ、どうして忘れていたんだろう。わたしとおばあちゃんと暮らしていた家は、緑に囲まれたレンガ造りの大きな家。絵本に出てくるような、光の溢れた暖かな家だった。


「思い出したの?」

「はい、でも…、なにかがひっかってるような…」


 思わずこめかみを押えるうららを、リオが心配そうに覗き込む。

 やっぱり全部は、思い出せない。不可解な感触。


 ――家に居たのは、おばあちゃんだけ? そうだ、わたしの両親は…? それにもっと大事な、なにか──誰かが。


「……だれ、か…」


 大事な場所、大事なもの、大事なひと。

 ぼやける記憶の向こうに居るのは、だれ?

 わからない、頭が痛い。目の前が霞む。──思い出せない。

 ――どうして…


 うつろう視界の端、目にとまったのはあの家。かかしが、うららの家だと言っていた──


「……じゃあ…あそこは──誰の、家…?」


 無意識に呟いたうららの足は、その家へと向かって歩き出していた。

 力を込めて押し開いた古い木製の重たいドアの向こうに、白い世界が広がっていた。溢れる光の眩しさに思わず目を細める。


 ――おかしいな、さっきまで夜だったのに。星があんなに、瞬いていたのに。

 花と緑と土の匂いがする。それから、人の声。次第に引いていく光の中、人影が揺れた。

 女の子と、その女の子に合わせて背を屈めて話す女の人。顔はよく見えない。


『うらら、この鍵は、ぜったいに失くしちゃダメよ? 失くしたらお家に帰れなくなるからね』

『うん、でも、だいじょうぶよ、だって───がいるもん』


 ――だれの声? 

うららと呼ばれた女の子は、おそらく幼い、自分。その〝わたし〟が話しかけている女の人は──


『───がいつも来てくれるとは、限らないのよ?』


 仕方なさそうに、笑うその顔。泣きたくなるくらい、やさしい声。

 ――ママ…わたしの…ママだ…


『大丈夫だよ、うらら。帰る場所が変わらない限り鍵は必ず、戻ってくる』


 ふたりの向こうからもうひとり、今度は年配の女の人が現れる。白髪の混じるブロンドをやわらかく揺らしながら、しわの刻まれたその手が幼いうららの頬に優しく触れた。


『〝鍵〟と〝扉〟は、決して離れられない。〝絆〟があるから』

『……きずな…?』

『そう。例えどんなに遠くても、離れていても、見えなくても。帰りたい場所を見失わなければ、声は聴こえる。必ず互いに、呼び合っているから──』


 優しく語るその声音。見間違えるはずない、それは。

 ──おばあちゃん。大好きな、おばあちゃんだ。


『うらら』


 ――声が、聞こえる。わたしを呼ぶ声が──


『おかえり、うらら』


 胸がくるしい。

 この声は──大切な家族の声。

 ――パパ、ママ…


「どこ……?」


 見つからない、声はするのに…決して間違うはずのない、大切な人の声が聞こえるのに。

 遠ざかる。その優しい笑顔も声も、ぜんぶ。

 聞こえない。もう、二度と。触れることは、叶わない。


「────うらら…!」


 だってもういない。ここにはいない。

 ママとパパは嵐の夜に、二度とこの家には帰って来なかった。


 気がつくとうららは、ソラの腕の中に居た。その細い腕でしっかりと強く、抱きしめられていた。

 うららの耳元でソラがささやく。それは優しくも悲痛な叫びに似ていた。


「…うらら、いいんだ…無理になんか、思い出さなくたって…泣きながら思い出す記憶なんて、要らないんだよ…うらら」


 ――泣いてる…? わたしが? 

 だってソラのほうがこんなに、震えているのに。


「…でも、ソラ…わたし、思い出したの…かかしの、言った通りだったの」


 ソラの肩越しに映る家の中の景色は、今や見覚えのあるものばかりだった。幼い時の記憶のそれとはわずかに景色が違うけれど、だけどここは間違いなく、うららが幼い頃を過ごした家。


「ここは…わたしが昔、住んでいた、家。わたしと、ママと、パパと…それから…」

「いいんだ、うらら…もう、十分だよ。だけどうららが帰る場所は、ここじゃない。ここはうららの、昔の家。そうでしょう…?」


 きつく触れ合っていた体がやっと離れ、だけど急に遠ざかる熱に胸がふるえた。

ソラの青い瞳に映る、うららが揺れる。それからソラの大きな手が、うららの頬の涙をそっと拭ってくれた。


「帰る場所さえ見失わなければ、何度だって僕が呼ぶから。僕はここに、居るから──」


 夢の続きのようなソラの言葉がうれしくて、それに応えたいのに意識はゆっくりと遠のいていく。

 ──熱い。

灯る熱がじわりと膨らむように、スカートのポケットの中でそれは存在を主張していた。

 だけどそれを確かめる間もなく、うららは意識を手放していた。


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