第5話
記憶というものは、3つの機能で成り立っているらしい。
記憶すること、それを保持すること、そしてそれを思い出すこと。
リオの場合、〝思い出す〟という機能が幼い頃の大きな事故により、役割を果たさなくなってしまった。
記憶はしてくれるけれど、3日以上前に記憶したものを〝思い出す〟ということが、できない。
3日というリミットは、とても中途半端だった。
たとえば、毎日関わるもの。人や場所なら昨日の記憶を辿れば思い出すことができる。昨日も、昨日の昨日も、意識の中に在り続ければ〝思い出せない〟ことは無い。
つまり意識さえすれば、記憶は継続できるということだった。
昨日会った人の名前を、3日というリミット内で記憶を探し、その記憶内に〝残って〟さえいればいい。〝0〟にさえならなければ、〝忘れる〟ということは少なくとも無かった。
だけどそれはつまり。3日間、一度も思い出すことが無ければ、物だろうが、場所だろうが、親や友達や恋人だろうが二度と思い出すことは無い。そういうことだ。そういう、中途半端なビョーキだった。
そしてそれは、思った以上に厄介だった。
毎日、起きたら一番に基本的な情報をまとめたノートを確認することから始まる。自分の名前、素性、記憶障害を抱えていること、〝3日〟というリミット。
注意すべきこと、毎日必ず思い出さなければいけないこと、親や近しい人の存在。それらすべてがまとめられている1冊の記録ノート。
それは昨日を思い起こせば済むものもあったが、すべてを思い出せない場合の危険を考慮することと、思い出すという行為を癖として身に着ける為の毎朝の日課。
繰り返し繰り返し、 まるで暗示のように刷り込まれる儀式。
なにかをひとつ覚える度に、毎日それを反芻しなければ〝忘れて〟しまう。その量は日々増えていき、リオの頭の中は常に情報でいっぱいだった。だけどできるだけ〝普通〟に過ごす為にはそれが必要だった。
この病気が発症した頃、リオは友達の名前を思い出せず、ひどく軽蔑した目を向けられた。
障害が発覚してからも上手く付き合う方法を見つけるまで、みんな〝はじめまして〟から会話が始まり、同じことの繰り返し。
それが嫌で、できるなら、忘れたくなくて――何かをずっと意識し続けなければ、思い出すという行為を繰り返さなければいけなかった。じゃないとみんな、離れていく。そう自分に言い聞かせた。
それはどこか、脅迫的に迫られる行為にも、近く。少しずつココロが削られていくような、そんな日々だった。
リオが当時つけていた日記には、〝眠るのがこわい〟といつかの自分が泣いていた。もうその時の気持ちも記憶も、リオの中には無かったけれど。
そして中学2年の時、〝それ〟は起こった。
ココロとカラダのバランスが保てなくなったとき、リオの脳が許容量をオーバーしたのだ。
リオのカラダはとうとう思い出すという行為さえ、拒絶した。
リオは一週間、目を覚まさず眠り続けた。そして漸く目を覚ましたリオは、何ひとつ思い出すことができず、すべて綺麗に〝忘れて〟いたのだ。
目覚めたリオに両親が記録ノートと日記を渡し、ひと通りすべてを説明した後、諭すように言った。
『あなたが忘れたくないものだけ、あなたが、選びなさい。それだけでいい。他はもう、捨てなさい』
そうして今のリオができあがった。
高校に入学してからは記録障害であることが開示され、人と関わることも学業も自然と免除された。それはリオにとってとても気楽な日々だった。
自分さえ見失わなければ生きていけると知ったから。失っても仕方ないものがあると、知ることができたのだから。
「知るって、そんなに大事なのかな。…必要かな。知らなくても生きていけるし、知らずに終わるものの方が圧倒的に多いんだ。モノ知らずなバカだって、なにも知らなくたって、周りなんか気にする必要ない。ひとりでだって生きていけるんだから」
理由もわからず、途方もない苛立ちが滲んでいた。胸が抉られるような気さえした。無意識に拳に力が篭る。理由はわからない。リオにはこの理由を知る、材料すら無いのだから。
「……でも…っ」
口を開いたのは、意外にも隣りにいたうららだった。握ったままでいた手が、少しだけ震えていた。
「知識が、欲しいかどうかは、人によると思うんですけど…でも〝知りたい〟って思うのは、自分に必要だからだと思うんです」
リオの少し意地を張ったような態度に戸惑いながらも、だけどうららはリオとかかしを交互に見つめ、ゆっくり言葉にする。メガネのレンズ越し、見上げるうららの青い瞳がリオを射抜く。
「リオ先輩が、どんな風にそれを抱えて生きてきたのか…わたしにはきっと理解なんてできないけれど…でもやっぱり、記憶が無いのは…大事な人を思い出せないのは、すごく、寂しいです。確かにあったものが、なくなってしまうようで…それって自分すら、信用できなくなる。すごく、こわい…」
最後は消え入るように小さく呟いた、うららの瞳が翳る。
記憶の一部を失くし、取り戻す為にオズを目指している彼女。少しずつ失くなるリオとは違って、いっぺんに失くしてしまった。それはきっと彼女にとって、大事だったのだろう。大切だったのだろう。
取り戻したいのだろう。だけど。
――だけど、思うんだ。本当に必要だったの? って。失くしてしまうくらいならいっそ、最初から要らないものだったんじゃないかって。
「でも、うーちゃんも、思い出すことに怯えてたり、思い出したくない記憶だって、あるでしょう?」
言ったリオに、うららはバツが悪そうな表情を見せ俯く。自分で言っておいて、罪悪感でちくりと胸が痛んだ。
「でも……」
だけどすぐにうららは、まっすぐリオの瞳を見上げた。その瞳に、強い意志と光を宿して。繋いでいた手に力を込めたうららは、今度は最後までしっかりと、言葉にした。
「思い出さなきゃいいことなんて、きっとひとつも、無いと思うんです。覚えていないだけで、思い出せないだけで…無かったことには、ならない。できない。誰にも消せない。だってそれは脳だけじゃなくて、わたしの身体に、染み込んだ思い出だから。いいことも、わるいことも…全部今のわたしを作るものだから──」
少し揺れた、大きな瞳。その気持ちは、きっと自分にはわからない。リオの口元には自嘲にも似た笑みが浮かんで消える。
──だけど。
「だからわたしは、ぜったいに取り戻したい。思い出したい。大切な記憶を、…大切な人たちを」
だけどわかったことがあった。
――おれには大切な人が、忘れたくない人が、いないんだ。だからこんなに、空っぽなんだ。
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