第3話



「魔女…?」


 北の魔女の言葉にうららは耳を疑い目を向ける。


 ――おばあちゃんが…魔女?


「うそ、そんなワケない…だっておばあちゃんは普通の…、どこにでもいるような、優しい、普通のおばちゃんよ…っ」

「信じるか信じないかは、あなた次第です。だけどヘレンの魔法の力では本来なら、一度にこの人数を呼び込む力はありませんでした。だけどある方が…この絵本に力を貸したのです」

「〝ある方〟…?」

「その方は、ヘレンの友人だったようです。その膨大な魔力を以って私達に命を吹き込み、この絵本は開かれました。…彼がどこにいるのか、それは私にも分かりません。オズのもとにいるのか…それともこの世界にはいないのか。だけどあなた達が望むなら、きっと力を貸してくれるでしょう」


 北の魔女は伏せ目がちに視線を落とし、そっと胸元で両手を重ねた。それはまるで、祈るように。


「彼、とは…?」


 メガネの少年が北の魔女に尋ねた。

 視線が、一集する。


「私達は彼を、〝夢みる王子〟と、呼んでいます。彼に関して、私からはこれ以上お話しすることはできません」


 あくまで微笑みを絶やさずに北の魔女は言う。それ以上の詮索をやんわりと拒否され、見つめていた視線が彷徨う。


――〝夢みる王子〟…力を貸してくれるというのなら、きっと味方なのだろう。今更何が出てこようと魔法の絵本の中の世界ならなんでもありな気がしたけれど…『オズの魔法使い』に、王子様なんて出てきたっけ…?


 そう、思ったとき。そこでやっと、うららの記憶から『オズの魔法使い』の内容が一体どんな内容だったのか、すっかり消えてしまっていたことに気付いた。


 ――自分のことは分かる。だけど自分以外のことをほとんど思い出せない。ソラのことだって、まだ名前しか思い出せない。


 両親や家族、祖母ヘレンのこと。うららは自分以外のほとんどの記憶を、思い出せなかった。絶望にも似た思いが胸に沸き、思わず口元を押えた。


 ――それが代償だというのなら、わたしは…一体なにを、願ったのだろう──


「…ひとつだけ。オズとやらは、どこにいる?」


 それを訊いたのは、メガネの少年だった。

 北の魔女はその鋭い視線に物怖じする様子なくその視線をうららに向ける。うららば思わず身構える。


「うららが、知っています」


 北の魔女の予想外な言葉に、視線が一斉にうららへと向けられた。


「え…」


 驚きと怪訝そうな視線が、痛い。一番驚いたのはうららだった。


 ――そんなの、わたしは知らない。むしろ今は分からないことだらけなのに。


 北の魔女は戸惑ううららの目の前に音もなく歩み寄り、そしてその手を取った。身長差から見下ろしていた視線を合わせるようにわずかに背をかがめて、うららの顔を覗きこむ。

 その瞳はどこか、哀しい色をしている気がした。


「…うらら。ここは『オズの魔法使い』の世界であって、そしてヘレンが描いた世界でもあります。あなたの為に、私達はここに居る。だからこの先どんなに困難なことがあっても、かならず、オズのもとへ。諦めないで。見失わないで…あなたなら、きっと大丈夫。それでもくじけそうになった時は…私達の存在を、思い出して」


 まっすぐ北の魔女はうららの目を見て、囁くように、諭すように魔法の言葉を重ねる。


「本来ならここであなたに渡すべき〝あるもの〟は、今ここにはありません。それはずっとあなたが持っていて、そして今はあなたの記憶と共に、あなたの元へ帰るのを待っています。だから、うらら。ここからはあなたの足で、道を拓かなければ」

「道を、ひらく…?」

「ヘレンに教わったおまじないを、あなたは覚えているでしょう…?」


 ――おばあちゃんに教わった、おまじない…?


 その瞬間、突如うららの頭の中に、懐かしい声が響いた。


『――迷子になったら、困ったことがあったら、帰り道を見失ってしまったら──』


 ――そうだ…おまじない。小さい頃おばあちゃんに教わったんだ。どうして忘れていたんだろう。迷子になった時、イヤなことがあった時…いつも繰り返していた、あのおまじないを。


 うららが幼い頃、道に迷って帰れなくて泣いていると必ずヘレンが迎えにきてくれた。困ったように笑いながら、抱きしめてくれた。うららはヘレンが、大好きだった。

 アメリカで生まれたヘレンの血を色濃く受け継いだうららは、周りの子とは違った髪色と瞳を生まれ持ち、周りに馴染むことができなかった。どんなに惨めで寂しい思いをして帰ってきても、家に帰るとヘレンが居てくれた。傍にいてくれていた。どんな時も、ずっと──。


 ――そんなわたしに、おばあちゃんが遺してくれたもの…そうだ、思い出した。


 思い出してしまった。思い出したくなかった。だけど溢れ出る記憶の波は無情だった。熱と痛みを伴って、思い出と共に哀しみが胸を締め付ける。


 ――一ヶ月前。おばあちゃんが、亡くなったんだ。


「…うらら、あなたが失った記憶は、良い記憶ばかりではないかもしれない。だけど、おそれないで。…目を、そらさないで…」


 北の魔女の重ねた手に、涙が零れた。いくつもいくつも零れた。その温かな雫は手の上を滑り落ち、やがて地面へと染み込んでゆく。


「さぁ、私の役目はここまで」


 微笑んで言った北の魔女の言葉と同時に、地面が淡い光を放つ。涙の染みが重なったその場所が、他の地面とは違う色へと変わってゆく。


「うらら、おまじないを」


 導かれるように、思い出に引かれるように。うららは靴のかかとを3回、鳴らした。

 眩む光に思わず目を細める。そこには──


「……道…?」


 自分の足下から放たれる光。

 黄金色のレンガの道が、緑の地平線のずっと奥まで伸びていた。


「この道の先に、あなたの記憶と彼らの願い…そしてオズが、待っています」


 うららの記憶の中。ヘレンに手をひかれて歩いた帰り道。一度は途方に暮れたその道が、なによりも安心できる帰り道になった時。道は、光り輝いていた。


「この道は、決して振り返ってはいけない道。振り返ると、道は進路を見失ってしまいます。ただ、前だけを見て…あなたはあなたの、道を―─」


 北の魔女はどこまでもやさしくそう囁き、そしてうららの額にそっとキスを落とした。


「旅人たちに、祝福を」


 その言葉と共に光の粒が降り注ぎ目を奪われた次の瞬間、北の魔女も淡いピンク色の空も、みんな光に溶けて消えていた。うららは涙に濡れた瞳で、それを見送っていた。


「…うらら、大丈夫…?」


 ずっと隣りにいてくれたソラが、うららの顔をそっと覗き込む。

 暖かな指先が、残っていた涙をやさしく拭ってくれた。その温もりに胸が余計に痛んで涙がまた滲んだ。思い出したヘレンの温もりが、うららに現実を伝えるようだった。


 ――どうして…おばあちゃんやソラの記憶なのだろう。


 うららは記憶を思い出すことが少しこわいと思った。それは、うららが投げ出してしまった悲しい記憶のようにも思えたから。

 忘れたくなることだって、きっとある。少なくともうららの中に残る記憶にあまり明るいものはなかった。

 クセのある茶色く長い髪をかたくみつあみにして。メガネをかけて、瞳の色を隠して。なるべく人と関わらないよう、うららはひっそりと過ごしてきた。うららの容姿はいつも、どこでも、周りに馴染めなかったから。


 だけど──


「だけど、うらら」


 ソラがうららの心の内をまるで読んだかのように、言葉を継ぐ。温かな光の方へ、うららは顔を上げた。


「うららがおばあさんのことを思い出してくれて…僕は嬉しい。うららのおばあさんも、うららのことが本当にとても、大切で…大好きだったから」


 だけど、いつも。他人に馴染めずひとりで居ても、ヘレンがいてくれた。傍でずっと、励ましてくれた。だからうららも、ヘレンが大好きだった。


 そこにはソラも、居たのだろうか。うららは思う。

 ソラのこともちゃんと、思い出せるのだろうか。

 きっとソラの記憶もこの手の平のようにあたたかい。そんな気がした。



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