第20話「目覚める少女、あいり」

 阿南宗一アナミソウイチを支配する、絶望。

 痛みと苦しみさえ、怒りといきどおりに比べれば大したことはなかった。

 ギリギリで間に合ったのか、それとも……考えたくはないが、寝室のベッドで彌勒寺ミロクジあいりは素肌をさらしている。

 そして、宗一はいかつい巨漢の男に蹴り上げられてうずくまっていた。

 上手く呼吸ができず、腹を抑えて動けない。


「なんだぁ? こいつ……ビビらせやがって」

「あっぶねー、さっきのオフ会にいた奴じゃん! 確か……このの保護者? とか言ってたな。彼氏気取りかよ、ウッゼーな!」


 再びカチャカチャと、ベルトの金具をいじる音がする。

 なんとか立ち上がろうとした宗一は、髪を乱暴につかまれた。

 そのまま、ありえない力で引っ張り上げられる。

 状況は先程と、なにも変わらない。一人はすでに下着姿になって、最後の一枚を脱ごうとしている。そして、宗一の死角から襲った大柄な男は……宗一を無理矢理むりやり吊し上げてニヤリと笑った。


「おう、ボウズ……警察に駆け込んだりしたら、どうなるかわかってんだろうなあ? 違法なロリコン向けポルノ、作ってる業者を知ってんだ。だから、な? なぁ?」

「放せ……俺は、あいりを」

「へえ、あいりちゃんって言うんだ。かわいいよねえ……ヘヘヘッ!」

「俺は、あいりを……守ら、なきゃ――ッガ!?」


 手を離された瞬間、したたかに蹴飛けとばされた。

 それで宗一は、壁へと叩きつけられる。

 激痛が物凄い熱さで、全身を支配して痺れさせた。そのままズルズルとへたり込めば、目から涙が止まらない。

 情けないことに、宗一は抵抗らしい抵抗すらできず、身動きも取れない。

 ゲームでは可憐かれんな女騎士だが、現実ではあいりの騎士ナイトにすらなれないのだ。


「あれぇ? ボウズ泣いてる? あ、なんなら一緒にヤる? みたいな?」

「おいおい、一番最初は俺って言ってんだろうが! そいつ見張っとけ! ……あ?」


 宗一が無力さにうなだれていた、その時だった。

 突然、部屋の空気が凍った。

 明らかに、周囲の雰囲気が緊張感を帯びたのがわかった。それに一番最初に触れたのは、全裸になってベッドに上がった男だった。

 固まる彼の向こうで、あいりがゆっくりと身をもたげる。

 緩慢かんまnな、無防備な動作で彼女はシーツの上に立つ。

 小さなあいりのなだらかな起伏が、白い肌に美しい。

 綺麗だと思ってしまった、次の瞬間に宗一は絶句した。


「あ、えと、あいりちゃん? だっけー? あんまし痛くしないからさ……おとなしくしてくれっかな? でないと、縛ったりしちゃうけど――ッギャ!?」


 信じられないことが起こった。

 宗一は目の前の光景に、何度もまばたきをした。

 そして、数秒前までヘラヘラ笑っていた、かたわらの大男も言葉を失う。

 あいりは、流麗な動作でその場で一回転。跳躍と同時に後ろ回し蹴りで、ベッドから男を叩き落とした。側頭部を穿うがくさびのようなかかとが、不埒ふらちやからを吹き飛ばす。

 ふわりと着地したあいりの、その目があやしく輝いている。

 伊達眼鏡だてめがねを取られたひとみは今、エメラルドのように光っていた。


「先輩を……宗一先輩を、助けます」


 とてもあいりの声とは思えなかった。

 いつものぽややんとした、マシュマロみたいな声音ではない。

 酷く冷たくとがった、まるで機械のような声。

 そして、宗一は違和感の正体に気付く。

 やはり、おかしい。

 普段のあいりとは違う。

 いつもはもっと、呑気のんきでどんくさくて、ゆるゆるなのがあいりだ。だが、今はまるで精密機械のよう。決してスピードが速い訳ではない。ただ、なにげない動作が無防備に見えても、どこか洗練された緻密さを感じさせた。

 翠色みどりいろの視線は、殺気も怒気も感じないのに恐怖を伝えてくる。


「てっ、手前ぇ! 調子に乗ってんじゃねえ!」


 巨漢の筋肉だるまが、絶叫と共にこぶしを振りかぶる。

 ベッドの上に立ち尽くすあいりは、動じなかった。

 ただ、最小限の動きで拳を避けつつ、そのまま丸太のような腕を巻き込み……一本背負いの要領でブン投げる。反動であいりの矮躯わいくが浮かび上がって、男はベッドのマットに叩きつけられた。

 一緒に倒れたあいりは、まるで糸を引っ張られた操り人形のように立ち上がる。


「先輩、大丈夫、ですか?」

「あ、ああ……ええと、あいり? だよな?」

「そうです、けど」


 違う。

 彼女はあいりであって、あいりじゃない。

 未成熟な身体を隠しもせず、彼女は裸足でベッドを降りた。

 その背後で、ゆっくりと先程の男が立ち上がる。

 強面こわもての表情は、血管が浮かび上がって激昂げきこうに燃えていた。


「このガキャア! ブッ殺す!」

「あいり、後ろだっ!」


 宗一の声に振り向いたあいりは、細い首を両手で締め上げられた。

 ミシミシという音が聴こえてきそうな程に、容赦なく男は力を込めていった。まさに圧殺という言葉がぴったりで、宗一は壁にもたれながら立ち上がる。

 あいりを助けたい……だが、身体に力が入らない。

 床にあいりを押し倒し、のしかかるようにして男は息を荒げる。

 だが、あいりの表情は全く変わっていなかった。

 普段のゆるい笑みもなく、ただ怜悧な無表情で男を見上げている。


「先輩、障害を排除しますので少し待ってください」


 呼吸を奪われている少女の声色ではなかった。

 男は夢中で両手にあいりを圧縮してるから、気が付かない。

 だが、組み敷かれるあいりはゆっくりと片手を伸ばした。

 そのまま、男の右手首を握る。


「……あ? へへっ、そうだ、抵抗しろ……もっと足掻あがいてよぉ、藻掻もがいて! 俺を楽しませ……え? あ、っ! な、なんだ?」

「警告します、直ちに離れてください。当方は現在、厳守じゅんしゅを一時的に停止しています。保護対象として設定された宗一先輩を守るため、実力を行使します」

「なっ……なんだお前はっ!」

「個体名、彌勒寺あいり……警告はしました、よ?」


 鈍い音が寝室に響き渡った。

 続いて、絶叫。

 よろよろと立ち上がる男の手首が、あらぬ方向へとじ曲がっている。

 あいりがやったのだ。

 片手で手首の関節を握り潰したようだ。

 痛みに震える男へと、のっそり立ち上がるあいりが拳を握る。

 たまらず宗一は叫んだ。


「あいり、もういい! やめろ……もう必要ないっ!」


 ビクリ! と身を震わせたあいりが、振り向く。

 まだ、いつもの笑顔はない。

 そして、いつもなら怯えるであろう状況にも、平然としていた。


「先輩、無事ですね?」

「あ、ああ」

「よかったです」


 あいりが裸で歩み寄ってくる。

 思わず宗一は、無意識に壁へと背をこすりつけた。

 自分の中の本能が、警鐘けいしょうを鳴らしていた。

 眼の前の少女は、やはりあいりであってあいりではない。

 あんな物言いで人を物のように蹴散けちらす、そんな少女じゃなかったはずだ。自分の危機にさいしても、人を傷つけることができない……だから宗一が守りたい、そういう女の子だった筈である。


「宗一、先輩?」


 手を伸べ触れようとしたあいりに、思わず身を強張こわばらせる。そして見る……あいりの右手には、あのデバイスが唸っている。

 小さく機械音を歌うレンズは、

 宗一の感じている恐怖が、あいりにも伝わったようだ。

 戸惑とまどったようにあいりは、手を引っ込めてうつむく。

 同時に、廊下の向こうのリビングから慌ただしさが伝わってきた。先程からドタバタしていたようだが、宗一には全く気付かなかった。

 あいりを助けるのに夢中で、その次はあいりの豹変ひょうへんに驚きすくんでいた。

 やがてドアが開き、二人の女性が入ってくる。

 一人は四条真瑳里シジョウマサリで、もう一人は女装が趣味の山田三郎ヤマダサブロウである。二人共宗一とあいりのゲーム仲間だが、寝室の惨状を見て絶句した。


「あっちは片付けたけど、宗一くん? これ、キミがやったの?」

「おいおい、やりすぎだぜ……でもま、自業自得か。……と、ん、んんっ! とにかく、われがなにか羽織はおるものを……あいりを裸にはしておけん。早々にここから逃げようぞ」


 二人を交互に見ていたあいりは、不意に瞳を閉じてその場に崩れ落ちた。

 それは、緊張の糸が切れたという感じではない。

 電源の落ちたロボットみたいだった。

 そう、ロボット……先程からあいりは、まるで人の姿をかたどるマシーンのように、無慈悲むじひな攻撃を繰り返していた。首を絞められていても、全く苦しんだ様子がなかった。

 宗一の中で、なにかが壊れてゆく。

 謎が氷解ひょうかいして溶けるというより、無理に砕かれ粉々になる感じだ。

 呆然ぼうぜんとしていると、背中を真瑳里に叩かれた。


「ほら、しっかりして! 宗一くん! 女騎士エンジュみたいに、シャンとして。キミ、あいりちゃんの騎士様なんでしょ? 逃げるわよ」

「あ、はい……」

「よし、いいぞ! 善は急げ、ククク……さらばだ、いやしき背徳者達よ! 成敗せいばい!」


 三郎が、シーツでくるんだあいりを背負って走り出す。

 宗一も真瑳里に手を引かれて、マンションの一室を出た。

 車であいりの御屋敷おやしきまで送られる間、宗一は混乱して沈黙するしかできなかった。

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