第9話「飛び出す少女、あいり」
清潔感にばかり気を取られて、ファッションのことなど
だが、部屋から出てきたあいりを見て、宗一は失敗を悟った。
「先輩っ、着替えましたぁ。どですか? なんか、変じゃないですか?」
「いやぁ……その、すまん」
「ほえ? なんで先輩が謝るんですか? 悪いことしたんですか? 悪い子ですか?」
「なんていうか、ごめん。ほら、あいりも一応女の子だし、ちゃんと洗濯したものをって……ほ、ほら! 臭ったりしたらやだろ? そういうことばかり考えてたから」
あいりはキョトンとして小首を
彼女は袖も裾もだぶだぶに余らせている。それでも、鎖骨の見える
「お洗濯の匂いがします。石鹸の匂いですね、先輩っ」
「あ、ああ……そ、その、やめなさいよ。まったく、犬みたいにいつもいつも」
「先輩も嗅いでみますか?」
「嗅がない! ……ま、まあ、とりあえず行くか」
だが、玄関へ移動すると真っ先にメイドに見つかった。
彼女は、ぽてぽてと宗一のあとを歩くあいりを見て、
「……あいり
「先輩っ、呼んでます、よ?」
「お前だ、お前! 主にお前だろ!」
呼び止められてしまった。
腰に手を当て、モデルみたいなナイスバディをグイと華梨は前屈みに
だが、彼女は小さく溜息を零すと、やれやれといった具合で玄関へと歩く。
ついてくるように言われて、二人は顔を見合わせながら続いた。
「阿南先生、
「それは、その、すみません」
「あいり御嬢様もあいり御嬢様です。……確かに、お召し物がパジャマしかないのは、これはずっとわたくし共も
華梨のお小言も、あいりにはどこ吹く風だ。
だが、そんな彼女を振り返った華梨は、不思議と奇妙な苦笑を浮かべた。それは、
そうして彼女は、
薄っすらと積もった
「旦那様も、あいり御嬢様のことについては色々考えておられるのです。ただ……どうしても仕事のできる人というのは、少し抜けてるんですね。だから、お召し物をという発想はないのに」
箱の中から出てきたのは、スニーカーだ。
彼女の話では、他にも多種多様な靴があるという。
全て、あいりの父親である
いかにもおじさんらしいなと思って、自然と宗一も笑みが浮かんだ。
「父様が、ですか? この靴を」
「ええ。さ、あいり御嬢様。
「あ、いえっ。一人で、履きたい……履いて、みたい、です」
おずおずとあいりが靴を履き始める。
不慣れな手付きで、見ていてもどかしい。
だが、両足に履き終えた彼女は、ムフー! と鼻息も荒く振り返った。
「華梨さん。宗一先輩もっ……準備、できました。おでかけ、やってみますっ!」
早速彼女は、右手に光るデバイスからカメラのアプリケーションを呼び出す。
宗一も靴に履き替える間、ずっとパシャパシャ自分と華梨、そして宗一自身を撮っていた。
こうして華梨とメイド達に見送られて、宗一は玄関を出る。
「やあ、宗一君、だったね? それと、あいり御嬢様。お車の準備、できておりますよ」
すらりと
運転手の
要がドアを空けてくれて、あいりがお礼を言って飛び乗る。
すぐに彼女は、そのまま向こう側の窓に張り付いた。
隣に座る宗一に、興奮気味に前のめりで話しかけてくる。
「先輩っ、自動車に初めて乗りました。これが、走るんですか? 動くんですか?」
「そうだぞ、あいり。えっと……初めて、なのか?」
「はいっ!」
要の話では、普段から旦那様である恭也の送迎には、黒塗りの外車を使っている。これは要のプライベートな車で、国産車だ。宗一はあまりスポーツカーには詳しくないが、確か
ソニックブルーの鮮やかな車体は、低く唸るようなエンジン音で静かに走り出した。
瞬間、あいりがびくりと身を震わせる。
彼女は隣の宗一の手を、ガッシリと強く握ってきた。
「あ、あいり?」
「先輩っ、走ってます。動いてますっ」
「そりゃ、車だからな」
「凄い……びっくりしちゃいました。凄いですっ!」
びっくりしたのはこっちである。
広大な庭を貫く私道を走り、車は門から公道へと出る。
都内でも有数の高級住宅地を抜けて、そのまま宗一達を乗せた車は首都高速道路へと進む。そのまま加速してゆくが、要の運転は驚くほどになめらかだ。
マニュアル操作のシフトノブが、まるでひっかかりを感じさせない。
際限なく増速してゆくような、でも安心感が薄れずに車内を満たしている。
「宗一君、まずはデパートでいいかな? あとは……そうだね。僕も何軒かオススメのお店を知ってるけど」
ハンドルを握る要が、バックミラーの中で微笑む。
流石はプロの運転手である。
その余裕が、高速で走る車の全てを掌握し、その中に不思議な安らぎの空気を広げていた。宗一みたいな素人でも、彼女の運転が高レベルなのが肌で感じられる。
だが、あいりは窓にへばりついて夢中で瞳を輝かせている。
「先輩っ、宗一先輩っ。あれ、はれは! なんですか!」
「んー? ああ、ありゃ東京タワーだ」
「あれが、東京タワー……写真っ、写真を撮らなきゃっ」
あいりの右手からまた、光のウィンドウが浮かびががる。
だが、彼女はそれを指で押しやりながら、固まってしまった。
そう、視界にあの建造物が現れたからだ。
それは今や、東京タワーや東京スカイツリーよりも巨大な、この首都のランドマークである。オリンピックが終わったあの年から、
「先輩……先輩っ、先輩っ! 宗一先輩っ!」
「な、なんだよ……ああ、あれな」
「あれが、東京スカイツリーですか? 東京タワーより凄いって聞いてます」
「んー、スカイツリーはもっと小さいかな。あれは、東京ユグドラシル……
――東京ユグドラシル。
世界に先駆けて建造された、巨大な実験設備だ。
そして、それは端的に言えば『途方もなく巨大なサーバー』である。首都圏のあらゆる端末がアクセスできる、
ユグドラシルの完成は、メーカーの不毛な開発競争、価格競争に終止符をもたらす。全ての端末は、機能の大部分をユグドラシルに
「一説には量子コンピューターが実用化されて、あの中に入ってるって話もあるし……あいり? どした、お前」
気付けばあいりは、両手を窓についてじっと外を見詰めていた。
走る車中から見ても、全く位置を変えず不動の巨大建造物。ユグドラシルはその名の通り、世界樹のように東京のどこからでも見ることができる。
その高さは、5,000mと途方もなく巨大だ。
天空へとそびえ立つ、それは新たな世界を見守る大樹か。
それとも……現代に蘇らせた禁断のバベルか。
「先輩……あの塔、気になりますっ。なんだろ、すっごく、こう、胸が……ドキドキします。こんなの、初めて」
「お、おう。それよりな、お前……」
「あそこに行きたいです、先輩っ。要さんも」
「ど、どうしたんだよ、急に。いくらそとが珍しいからって、お前なあ」
突然、振り向いたあいりが宗一の手を握ってきた。両手で掴んで、その手を薄い胸へと招く。自分の服を着せられたあいりの胸は、ささやかな膨らみで宗一を黙らせた。
そして、宗一は驚きに固まる。
慌てて手を離したが、なにかの気のせいだと自分に言い聞かせた。
僅か一秒にも満たぬ間、彼はあいりの胸に触れて、その秘密にも触れてしまったのだ。だが、それを動揺のあまり、彼は後に至るまで思い出すことなく過ごすのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます