第9話「飛び出す少女、あいり」

 彌勒寺ミロクジあいりに着せた服は、やっぱりちょっとサイズが大きかった。

 阿南宗一アナミソウイチが持ってきたのは、普通の長袖のシャツに、ジーンズ。このあたりのチョイスが、露骨ろこつに女性との付き合いのなさを痛感させてくる。

 清潔感にばかり気を取られて、ファッションのことなど埒外らちがいだったのだ。

 だが、部屋から出てきたあいりを見て、宗一は失敗を悟った。


「先輩っ、着替えましたぁ。どですか? なんか、変じゃないですか?」

「いやぁ……その、すまん」

「ほえ? なんで先輩が謝るんですか? 悪いことしたんですか? 悪い子ですか?」

「なんていうか、ごめん。ほら、あいりも一応女の子だし、ちゃんと洗濯したものをって……ほ、ほら! 臭ったりしたらやだろ? そういうことばかり考えてたから」


 あいりはキョトンとして小首をkしげる。

 彼女は袖も裾もだぶだぶに余らせている。それでも、鎖骨の見える襟元えりもとつまんで、シャツの匂いをぎだした。


「お洗濯の匂いがします。石鹸の匂いですね、先輩っ」

「あ、ああ……そ、その、やめなさいよ。まったく、犬みたいにいつもいつも」

「先輩も嗅いでみますか?」

「嗅がない! ……ま、まあ、とりあえず行くか」


 だが、玄関へ移動すると真っ先にメイドに見つかった。

 怜悧れいりな無表情に、見上げるような長身……小鳥遊華梨タカナシカリンだ。

 彼女は、ぽてぽてと宗一のあとを歩くあいりを見て、片眉かたまゆを跳ね上げた。


「……あいり御嬢様おじょうさま。それと、阿南先生!」

「先輩っ、呼んでます、よ?」

「お前だ、お前! 主にお前だろ!」


 呼び止められてしまった。

 腰に手を当て、モデルみたいなナイスバディをグイと華梨は前屈みににらんでくる。その切れ長の瞳が、じっとあいりを見詰めてきた。

 だが、彼女は小さく溜息を零すと、やれやれといった具合で玄関へと歩く。

 ついてくるように言われて、二人は顔を見合わせながら続いた。


「阿南先生、おっしゃってくればもっとマシな対応をわたくし共で考えました」

「それは、その、すみません」

「あいり御嬢様もあいり御嬢様です。……確かに、お召し物がパジャマしかないのは、これはずっとわたくし共も危惧きぐしておりましたが」


 華梨のお小言も、あいりにはどこ吹く風だ。

 何故なぜか嬉しそうに、あいりは余ったそでをぶんぶん回しながら歩く。

 だが、そんな彼女を振り返った華梨は、不思議と奇妙な苦笑を浮かべた。それは、あきれたような、そして少し嬉しいような、微笑ほほえましいような。

 そうして彼女は、下駄箱げたばこから箱を取り出した。

 薄っすらと積もったほこりを払って、その箱を開ける。


「旦那様も、あいり御嬢様のことについては色々考えておられるのです。ただ……どうしても仕事のできる人というのは、少し抜けてるんですね。だから、お召し物をという発想はないのに」


 箱の中から出てきたのは、スニーカーだ。

 彼女の話では、他にも多種多様な靴があるという。

 全て、あいりの父親である彌勒寺恭也ミロクジキョウヤが用意したものだ。パジャマばかり与えて着せてるかと思えば、靴だけは用意周到に準備してある。そんなアンバランスさも、天才肌のエンジニア気質なのかもしれない。

 いかにもおじさんらしいなと思って、自然と宗一も笑みが浮かんだ。


「父様が、ですか? この靴を」

「ええ。さ、あいり御嬢様。いてみてください。サイズはいいと思います。お手伝いしましょうか?」

「あ、いえっ。一人で、履きたい……履いて、みたい、です」


 おずおずとあいりが靴を履き始める。

 不慣れな手付きで、見ていてもどかしい。

 だが、両足に履き終えた彼女は、ムフー! と鼻息も荒く振り返った。


「華梨さん。宗一先輩もっ……準備、できました。おでかけ、やってみますっ!」


 早速彼女は、右手に光るデバイスからカメラのアプリケーションを呼び出す。

 宗一も靴に履き替える間、ずっとパシャパシャ自分と華梨、そして宗一自身を撮っていた。

 こうして華梨とメイド達に見送られて、宗一は玄関を出る。

 すでにそこには、スポーツタイプのセダンが待ち受けていた。


「やあ、宗一君、だったね? それと、あいり御嬢様。お車の準備、できておりますよ」


 すらりと痩身長駆そうしんちょうくの美青年……に見えるが、女性だ。

 運転手の仁科要ニシナカナメが、うやうやしく頭を垂れる。まるで御姫様おひめさまに接する騎士だが、彼女は顔をあげると悪戯いたずらっぽく笑う。すずやかで凛々りりしい美貌びぼうが、自然と人柄を感じさせた。

 要がドアを空けてくれて、あいりがお礼を言って飛び乗る。

 すぐに彼女は、そのまま向こう側の窓に張り付いた。

 隣に座る宗一に、興奮気味に前のめりで話しかけてくる。


「先輩っ、自動車に初めて乗りました。これが、走るんですか? 動くんですか?」

「そうだぞ、あいり。えっと……初めて、なのか?」

「はいっ!」


 要の話では、普段から旦那様である恭也の送迎には、黒塗りの外車を使っている。これは要のプライベートな車で、国産車だ。宗一はあまりスポーツカーには詳しくないが、確かラリー選手権WRCで昔は有名な四輪駆動だと思う。

 ソニックブルーの鮮やかな車体は、低く唸るようなエンジン音で静かに走り出した。

 瞬間、あいりがびくりと身を震わせる。

 彼女は隣の宗一の手を、ガッシリと強く握ってきた。


「あ、あいり?」

「先輩っ、走ってます。動いてますっ」

「そりゃ、車だからな」

「凄い……びっくりしちゃいました。凄いですっ!」


 びっくりしたのはこっちである。

 広大な庭を貫く私道を走り、車は門から公道へと出る。

 都内でも有数の高級住宅地を抜けて、そのまま宗一達を乗せた車は首都高速道路へと進む。そのまま加速してゆくが、要の運転は驚くほどになめらかだ。

 マニュアル操作のシフトノブが、まるでひっかかりを感じさせない。

 際限なく増速してゆくような、でも安心感が薄れずに車内を満たしている。


「宗一君、まずはデパートでいいかな? あとは……そうだね。僕も何軒かオススメのお店を知ってるけど」


 ハンドルを握る要が、バックミラーの中で微笑む。

 流石はプロの運転手である。

 その余裕が、高速で走る車の全てを掌握し、その中に不思議な安らぎの空気を広げていた。宗一みたいな素人でも、彼女の運転が高レベルなのが肌で感じられる。

 だが、あいりは窓にへばりついて夢中で瞳を輝かせている。


「先輩っ、宗一先輩っ。あれ、はれは! なんですか!」

「んー? ああ、ありゃ東京タワーだ」

「あれが、東京タワー……写真っ、写真を撮らなきゃっ」


 あいりの右手からまた、光のウィンドウが浮かびががる。

 だが、彼女はそれを指で押しやりながら、固まってしまった。

 そう、視界にあの建造物が現れたからだ。

 それは今や、東京タワーや東京スカイツリーよりも巨大な、この首都のランドマークである。オリンピックが終わったあの年から、次世代都市構想じせだいとしこうそうもとづき建設が開始された。予定ではもうすぐ完成で、この東京を生まれ変わらせる画期的なものである。


「先輩……先輩っ、先輩っ! 宗一先輩っ!」

「な、なんだよ……ああ、あれな」

「あれが、東京スカイツリーですか? 東京タワーより凄いって聞いてます」

「んー、スカイツリーはもっと小さいかな。あれは、……世界樹せかいじゅの名を冠する、首都圏全域情報可視化制御構造体しゅとけんぜんいきじょうほうかしかせいぎょこうぞうたい。ようするに、スマホやタブレット等の携帯端末の機能を驚異的に拡張する共有サーバーさ」


 ――東京ユグドラシル。

 世界に先駆けて建造された、巨大な実験設備だ。

 そして、それは端的に言えば『途方もなく巨大なサーバー』である。首都圏のあらゆる端末がアクセスできる、超弩級演算装置ちょうどきゅうえんざんそうち……東京という都市そのものの頭脳であり、心臓部だ。

 ユグドラシルの完成は、メーカーの不毛な開発競争、価格競争に終止符をもたらす。全ての端末は、機能の大部分をユグドラシルにゆだね、その子機となるからだ。


「一説には量子コンピューターが実用化されて、あの中に入ってるって話もあるし……あいり? どした、お前」


 気付けばあいりは、両手を窓についてじっと外を見詰めていた。

 走る車中から見ても、全く位置を変えず不動の巨大建造物。ユグドラシルはその名の通り、世界樹のように東京のどこからでも見ることができる。

 その高さは、5,000mと途方もなく巨大だ。

 天空へとそびえ立つ、それは新たな世界を見守る大樹か。

 それとも……現代に蘇らせた禁断のバベルか。


「先輩……あの塔、気になりますっ。なんだろ、すっごく、こう、胸が……ドキドキします。こんなの、初めて」

「お、おう。それよりな、お前……」

「あそこに行きたいです、先輩っ。要さんも」

「ど、どうしたんだよ、急に。いくらそとが珍しいからって、お前なあ」


 突然、振り向いたあいりが宗一の手を握ってきた。両手で掴んで、。自分の服を着せられたあいりの胸は、ささやかな膨らみで宗一を黙らせた。

 そして、宗一は驚きに固まる。

 慌てて手を離したが、なにかの気のせいだと自分に言い聞かせた。

 僅か一秒にも満たぬ間、彼はあいりの胸に触れて、その秘密にも触れてしまったのだ。だが、それを動揺のあまり、彼は後に至るまで思い出すことなく過ごすのだった。

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