第8話「旅立つ少女、あいり」
今日も彼女は、抜群の学力で宗一を
「……よし、だいたいこんなもんか。あいり、わからないことはあるか?」
小テストの採点を終えて、百点満点の答案を返してやる。
あいりは今、ちょうど中学二年生の数学を終えたところだ。
「んと、あ、ん……先輩っ、宗一先輩っ」
「な、なんだよオイ……どこだ? 難しいとこ、あったか?」
「えっとですね、昨日の夜、北の
「……ゲームの話かよ」
あれからあいりは、随分と一生懸命ハンティング・ファンタジアを遊んでいるようだ。時々は宗一達ともパーティを組むし、宗一がいなくてもバズンやデルドリィードと遊ぶことも多い。
なにより、彼女にとって不特定多数の人間に出会える場というのは、貴重だ。
顔も名前もわからないとはいえ、ゲームのプレイヤーは全てが個人、一人の人間なのだから。ゲームという場を共有しながら、あいりは様々な人に出会い、心を動かされるだろう。
宗一にとって、それは喜ばしいと思う半面、不安も
「
「は、はいっ。先輩の言いつけ、守ってます」
そう言ってあいりは、学習机から立ち上がる。
彼女はピンと人差し指を立てて、薄い胸を反らして声を作った。
「ゴホン! 一つ、決して現実の名前や住所、電話番号等を他者に教えないこと」
「……お前の場合、キャラの名前の時点でアウトなんだけどな」
むむむ、と、あいりが難しい顔をする。
だが、彼女が実名をつけてしまったキャラの、その名前がリアルネームだと思う者は少ないだろう。なんだか、漫画やアニメの登場人物みたいな響きだからだ。
平仮名で『あいり』……どこか柔らかくて、不思議な響きだ。
ただ……
そして、彼女のキャラの名はどういう訳か『阿南あいり』なのだ。
あいりは、そんな宗一のことなど構わぬ様子で言葉を続ける。
「二つ、決して他のプレイヤーのプライベートを
「そうだ。これはいわゆる、ネットでゲーム等の交流をする時のエチケット……まあ、昔はネチケットなんて言葉もあったからな。ようするに、最低限のマナーだ」
「そして、三つ。えと……なんでしたっけ?」
「……お前なあ」
ぐっ、と前屈みにあいりが顔を近付けてくる。
座ったまま、宗一は思わず仰け反った。
あいりという少女の妙なところは、その距離感だ。不思議とこの
今もこうして、吐息が肌で感じれる距離に安易に踏み込んでくる。
宗一はドギマギと目を逸しながら、言葉を震わせた。
「三つ! 決して他者のプレイスタイルやこだわりに干渉しないこと。共感してもいいし、一緒に盛り上がってもいいけどな。好きでやってることに口を出すなって話」
「そう、それですっ」
「あとはお前な、写真……スクリーンショット、気をつけろよ?」
「あっ、そうでした。先輩っ、見てくださいっ。凄い写真が沢山、たっくさん
慌てて宗一は止めようとしたが、遅かった。
あいりは、右手に装着されたデバイスを輝かせる。
手の甲に光るレンズのような、それは異次元の
彼女がレンズに指を走らせる。
あっという間に、周囲の空間に立体映像で写真が散りばめられた。
どれも、ハンティング・ファンタジアのワンシーンを切り取ったものだ。
「先輩、これが
「わ、わかった。わかったから!」
「こっちは、ちょっと強いモンスターがいる死者の
「も、もうそんなところで冒険してるのか」
あいりが指差す先で、浮かぶ映像が拡大される。
時々、宗一が行ったこともないダンジョンや街もあった。
ネットゲームを教えてまだ三日なのだが、随分とあいりは満喫しているようである。
だが、一応
「あいり、写真は
「あ、はい。宗一先輩との約束、守ってます。大丈夫ですっ」
「そうか、ならいいけどな」
「わたし、初めてです……こんなに沢山の人と話すなんて。それに、宗一先輩みたいな人、初めてですっ」
「お、おう」
キラキラと光るあいりの瞳は、まるで
眼鏡のレンズ越しに、その輝きが宗一へと注がれている。
照れくさくて、なんだか少しむずがゆい。
だが、素直に喜ぶあいりを見ると
「とにかく、お前が撮る写真も個人情報……キャラクター情報の塊だ。アップする時は注意しろよ?」
「は、はいっ。えと、キャラクターの名前とか、プレイヤーを特定する情報は伏せておく、ですよね? あと、写真を撮らせてくれた人には断りを入れる、公開NGの人もいる、と」
「そういうこった。まあ、あいりの場合は……風景の写真が多いな」
「外の世界、凄いです……何を見ても珍しくて」
「いっ、言っとくけどな、これはゲームだからな! 現実の外は……こ、こういうんじゃない」
「そうなんですか? 外の世界にも色々あるんですねぇ」
やはり、彼女の世界は狭い。
きっと、宗一が家庭教師としてこの場所に呼ばれたのは、それを打破するためでもあるのだ。あいりの父親、
そして、宗一の提案にいつも耳を傾けてくれるのだ。
今日も宗一は、重大な決断に関しての許可を恭也から得ている。
「な、なあ、あいり……外の世界、行ってみたいか?」
「ほえ? 外、ですかぁ?」
「今日は、勉強はここまでだ。おじさんからも許しをもらってるんだ。お前……ちょっと、外の世界に出てみろよ。……
あいりは「おおーっ」と目を丸くした。
彼女がどんな病気なのか、それは宗一にはわからない。
病弱で、ずっとこの屋敷の中しか知らずに生きてきたらしい。だが、一緒にいてもあいりが咳き込むことはなく、具合が悪そうな時もない。
要するに、世間知らずな上にド天然なのである。
「実は、お前をこれから買い物に連れていこうと思う。えっと、服とか……買わなきゃさ、これから、ほら……定期的に外出させたいと思ってても、困るから」
「先輩、それって……先輩っ、宗一先輩っ!」
「わわっ、抱き付くな! は、離れろ、て、くだ、さい! ほら、おじさんの運転手の、
首に抱き付いてくるあいりに、宗一は椅子から落ちそうになる。
遠慮なくあいりは、むぎゅー! と宗一を抱き締めた。
柔らかくて、温かくて、そしていい匂いがする。
目が回るような混乱の中で、どうにか宗一は彼女を
「あ、でも先輩……わたし、パジャマしか持ってないです、よ? 服、どうしよう」
「ああ、それな」
「なるほどっ、パジャマしか持ってないから、服を買うんですね? つまり、その服を買うための服を……あれれ? ええと」
「その、持ってきた。……ちゃ、ちゃんと洗濯、してあるから。それと、サイズは……その、ごめんなさい。でも、車で移動だし、そんなに歩かないから」
宗一は、自宅から持ってきた紙袋をあいりに渡す。
中には、宗一の服が入っている。
なるべく女の子が着ても、おかしくないようなものを選んだ。ちゃんと洗ったものだし、新品も同然だが……こういうのは、年頃の女の子はどうなんだろうと思ったが、
あいりは、全く予想外のリアクションで
「わあ、先輩……わざわざ、ありがとうございますっ。わたし、嬉しいです!」
「お、おう」
あいりは、紙袋を抱き締め、笑った。
とても無邪気な、純真な彼女の内面を現すかのような笑みだった。
彼女には、異性への不安や嫌悪、気持ち悪いとか気色悪いとか、そういうのはないのだろうか? 思春期の少女が持つ、不安定ないらだちなどはないのだろうか?
そうした気持ちすら芽生えぬ程に、彼女は世界も自分も知らな過ぎる。
それは、宗一にとっては勉強以上に知ってほしい、触れてほしいことなのだった。
「よし、じゃあ着替えてくれ。俺は要さんに――」
「はいっ。着替えます」
「ま、待て! ここで脱ぐな! おっ、おお、俺は外に出てるからな!」
慌てて宗一は、あいりの部屋を転げ出る。
だが、嬉しそうな彼女の顔が、目に焼き付いて離れない。そして、彼女の喜びがそのまま自分に伝染したかのようで、自然と頬がほころんだ。
こうして、あいりの初めての外出が始まろうとしていた。
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