第5話「はばたく少女、あいり」

 阿南宗一アナミソウイチは必死に走っていた。

 今日でアルバイトは三日目、そして最大のピンチだ。

 彌勒寺家みろくじけの巨大な門をくぐって、庭を貫く長い長い道を駆け抜ける。玄関で出迎えてくれたメイドの小鳥遊華梨タカナシカリンが、珍しく驚いた表情を見せた。

 それくらい、宗一はあせっていた。


「あっ、あの! あいりはいますかっ! いますよね!」

「……おはようございます、阿南先生。あいりじょうさま! なら、いらっしゃいますが」

「は、はい……えっと、それであいりは……あいり御嬢様は」

「裏庭です」


 礼もそこそこに、宗一は再び駆け出す。

 巨大な豪邸の、その外周をぐるっと回らなければいけない。庭には春の木々が枝葉を伸ばし、優しい風に揺れていた。ここでは都会の喧騒けんそうも、どこか遠くで音楽のようだ。

 桜の花が舞い散る中、豪奢ごうしゃな四階建ての洋館を回り込む。

 裏庭は日本庭園の色合いが強く、彌勒寺ミロクジあいりは池のほとりにいた。


「あいりっ!」

「あ、宗一先輩。おはようございますっ」

「お、お前っ、あのな、お前……ハァ、ハァ……ちょっとタンマ、お前」

「大丈夫ですか? 背中、さすりましょうか?」


 全力疾走で朝から体力を消耗してしまった。

 情けないことに、日頃の運動不足がたたった。あっという間にのどけて、出入りする空気がチクチク痛い。ひざに手を突き、宗一は呼吸をむさぼる。

 会話も行動も不能になった彼を見て、あいりは小さな岩の上からポンと降りた。

 どうやら、池のこいえさをやっていたようだ。


「しっかりしてください、先輩。よしよし、よしよし」

「お、お前なぁ……あいり」


 あいりの小さな手が、優しく背をさすってくれる。

 どうにか息を整えると、ようやく宗一は顔を上げた。

 そのことで安心したのか、あいりが呑気のんきににっぽりと笑う。


「先輩っ、さっきうちの鯉の写真……今、お見せしますね」

「ま、待てあいり」

「はい? あ、先にお勉強しますか? えっと、宿題、やっておき、ました」

「それより、だな……」


 思わず宗一は、華奢きゃしゃなあいりの両肩に手を置く。

 びくりと身を震わせるでもなく、あいりはきょとんと宗一を見上げて小首をかしげた。


「あいりっ! 昨日、SNS……Twittanツイッタンの使い方、教えたよな?」

「あ、はい。あと、インスタグラファーも。そう、凄いんですよっ。他の人の写真も、沢山、たーっくさん見れて」

「そう、写真……写真だよ、あいり」

「……りますか? また一緒に」

「ちげーよ!」


 慌てて宗一はスマートフォンを取り出そうとする。だが、その手もどこかもどかしい。

 昨日、勉強の合間に話してて、改めてあいりの世界の狭さを知った。気丈きじょう健気けなげで、そしてのほほんと天然系なあいり。そんな彼女の自由は、この屋敷の敷地にしかないのだ。

 だが、世はネット社会、多くの人や物が密接につながっている時代だ。

 宗一は使い方を慎重に教えた上で、SNS……SOCIALソーシャル NETWORKINGネットワーキング SERVICEサービスをいくつかすすめた。たとえ家から一歩も出られなくても、あいりに色々な経験をしてほしいと思ったのだ。

 無論、保護者の彌勒寺恭也ミロクジキョウヤにも連絡を取った。

 説得の材料を用意していたのだが、二つ返事で了承されたのは驚きだった。

 しかし、早くも次の日に宗一は自分の迂闊うかつさを呪うハメになったのだ。


「あいり……今すぐ、今すぐっ! Twittanの!」

「消す、ですか? アップロードした写真を」

「全部じゃない、死ぬ気でチェックしたけど、一枚だけ……! インスタグラファーも!」


 あいりは、趣味の写真を積極的にネットにアップロードし始めた。

 それはいい。

 プライベートな写真は全て邸内や庭のもの……専門知識のある人間が悪意を持って調べれば、あいりの住んでいる家は特定されるかも知れない。だが、華梨達大勢のメイドがいる中への侵入は、難しいだろう。

 だが、自撮りの写真だけはアップロード禁止と言い渡した、その時に考えるべきだった。

 あいりは素直な14歳、そしてあまりにも純真さが無防備過ぎた。


「あ、プロフィール写真……あの、設定画面で『あなたの写真を設定しましょう』って」

「駄目だ……いいか、あいり! 顔バレだけは駄目だ。とにかくっ、すぐ消そう!」

「は、はいっ。えと、ちょっと待ってくださいね」


 あいりは手に持った鯉の餌を、パッと池に全部振りまいた。

 それから、右手のデバイスに左手を当てて指を走らせる。

 あっという間に、周囲に光のウィンドウが無数に開いた。


「えっと、Twittanはこれで、インスタグラファーはこれ。……はい、消しました」

「おう……はぁ、よかった……変なメール、来てないか?」

「えと、変じゃないです、けど、メールが沢山。先輩っ、ってなんですか? あ、ひょっとして……さっきの先輩みたいに、息を荒げてるって意味ですか?」

「そう、だけど……お前なあ、どれだ。メールボックスのウィンドウ!」

「はい、これですっ」


 すっ、とあいりが空中で手を振る。

 まるで情報をかなでる電脳楽団オーケストラ指揮者マエストロだ。

 眼の前に降りてきたウィンドウにかじりついて、直接光に手で触れる。そうして宗一は、画面をスクロールさせながら次々と怪しいメールを削除していった。

 幸い、年齢や実名は漏れ出ていない。

 そのことについては、昨日しっかりと注意しておいたから。

 だが、自分の顔写真をアップロードしてはいけない、こんな基本的なことを教え忘れていたのだ。基本中の基本なので、失念していたのだ。


「よ、よし……クソッ、スケベ共め」

「先輩、ってなんですか? ってなんですか? かわいい、はわかりましたけど、日本語なのに言葉が通じませんでした」

「し、知らなくていい。それと……悪かったな、危ないとこだった」

「はあ。で、でもっ、先輩悪くないですよ? わたし、昨日から色々写真の話をしました。知らない人とも、知り合いになった人とも。あと、知ってますか先輩っ」


 ぐったりした宗一の、目の前のウィンドウを突き抜けてあいりが顔を間近に寄せてくる。彼女の双眸そうぼうは、眼鏡めがねの奥で眩い星空のように不思議な光を湛えていた。

 眼鏡の加減もあるだろうが、あいりのひとみは大きくて黒目がちで、どこまでも深い。

 鼻先で見詰めてくるあいりを、改めて宗一は綺麗だと思った。


「世の中には、写真家屋さんというお仕事があるそうですっ。わたし、写真家屋さんになりたいと思いました。……それには、学校に行ったり、写真家屋さんに弟子入りしないといけないんです」

「お、おう……ま、それにしたって今はお勉強だ。まだあいりは、14歳なんだからさ。まずは、学校に行ってる連中と同程度の学力があったほうがいい」

「はいっ」


 にっこり笑って、あいりは再び周囲に写真を並べ始めた。

 どうやら、新しいプロフィール写真を選んでいるようだ。


「でも、先輩。Twittanだったら、このダイレクトメールっていうのを使えばよかったのでは……? もしくは、わたしに向けてTweetツイートしてくれれば」

「Tweetはヤバイだろ、あと……お前、俺のことフォローし忘れてるだろ。ダイレクトメールは相互そうごフォロー同士じゃないとできないの!」

「なるほどぉ」

「なるほど、じゃないよ。まったくもう……俺をフォローしとけ。因みに俺は速攻でフォローしたが、今朝確認して焦ったぜ」

「ほいっと、フォローしておきました。でも……写真。プロフィール、写真……」


 あいりはくるくると回りながら、踊るように宙空の情報へと触れてゆく。

 そんな彼女は、今しがたフォロワーになった宗一のアカウントを見て目を丸くした。


「先輩のプロフィール写真は、イラストですね。これは」

「あっ、こ、これな! それは、その、大したことなくて」

「かわいいです。すっごく。……もしかして、先輩が描いたんですか?」

「……いや、まあ。その、聞きかじった程度で、少し」

「おお~」


 多くの人がそうだが、素顔がわからないたぐいの写真をプロフィールに使う。これは、ネットの社会は勿論もちろん、現実でも個人が特定されることを防ぐためだ。何処どこの誰かが知れ渡ってしまうと、トラブルに巻き込まれるリスクがある。

 ゆえに、人によってはフリー素材のイラストを使ったりもする。

 宗一は手慰てなぐさみ程度にパソコンでイラストを描くため、自画像をアップしているのだ。


「……宗一先輩、女の子だったんですか? このイラスト」

「ちっ、ちが……それはほら、イメージ画像だから!」

「似てません」

「ぐはっ! ……あいり、もっと、こう……オブラートに包んで」

「でも、かわいいです。そうかぁ、先輩は絵が上手なんですね。わかりましたっ」


 不意にあいりが、全てのウィンドウを右手にしまった。散らばり明滅していた数多の光が、あっという間に綺麗に消え去る。

 変わって現れたのは、小さめのホワイトボードのようなアプリケーションだ。

 宗一とあいりの間に、半透明の光の板が浮かび上がる。

 脇には、見慣れたアイコンが並んでいて、レイヤー管理画面もくっついている。


「わたしにもイラスト、描いてくださいっ。先輩の絵、欲しいです」

「ぐおっ!」

「先輩? ……あ、ご迷惑、でしたか?」

「……いい。凄く、いい……とうとい」

「尊い?」

「初めて、絵を人に褒められた。欲しいって……わーった! わかったよ、あいり」


 眼の前のウィンドウが表示しているアプリケーションは、家で使ってるツールとほぼ同じだ。空中にお絵かきというのは少し戸惑ったが、いつものペンを人差し指に代えて触れる。

 向こう側のあいりが、すかさずその手を握ってきた。


「えっと、わたしもあんまし使わないアプリで……ここで色指定、かな? こっちは……全部手で触れて選択できますっ」

「お、おう。あ、あの、ありい……手が、手が」

「そうなんです、手がそのまま筆になるんです。ふふ、かわいいイラストがいいですっ。よろしくお願いします、宗一画伯先輩っ」


 笑顔にやられた。

 負けた、完敗である。

 観念して宗一は、あいりをアイコン化した美少女イラストをその場で描き始めることになったのだった。

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