第2話「へんてこな少女、あいり」

 一言で言うなら、阿南宗一アナミソウイチにとって彌勒寺ミロクジあいりは奇妙な少女だった。

 どこかおかしい、明らかに変だ。

 しかし、それは嫌悪けんお忌避きひを喚起させる違和感ではない。なんというか、ていに言えば世間知らずというか、浮世離うきよばなれしているのだ。

 御嬢様おじょうさま王女様おうじょさま……そう、御姫様おひめさまといった感じである。


「先輩、できました」

「あ、ああ、うん。じゃあ、ちょっと採点するから待ってて」


 あいりの学力は極めて優秀だ。

 自分の家庭教師なんて、必要ないのではと思う程度に。

 今も中学二年生レベルの数学を試してみてるが、教えれば何でも素直に吸収してくれる。要領良く覚えて、飲み込みも早かった。

 こうして小テストをやらせてみても、それははっきりしている。

 だが、やっぱり妙なのだ。


「え、えっと……なあ、彌勒寺さん。その」

「あいり、です」

「えっ?」

「あいりって呼んでください、先輩」

「え……ま、まあ、じゃあ……あいりさん」

「さん、はいらないんです」

「……あいり」

「はいっ」


 何故か彼女は、いつもじっと見詰みつめてくる。

 眼鏡めがねの奥から、キラキラ光る瞳で真っ直ぐ見据みすえてくるのだ。

 視線を感じて集中できないが、自意識過剰じいしきかじょうな男とも思われたくない。

 それと、やはり彼女の部屋で二人きりだと気になることがもう一つ。


「あいり、その……着替え、ないのか? 会ってからずっと、パジャマだけど」


 そう、あいりはずっとパジャマ姿だ。

 上下揃いのシックなグレーのパジャマ。イエローのアクセントがそですそを飾って、小さくせた彼女を包んでいる。

 つつましい胸の膨らみが、かえって確かな起伏を鮮明にしていた。

 パジャマ、つまり寝巻ねまき。

 あいりはさっきからずっと、着替える気配がない。


「あ、えっと……服、持って、ないです」

「……へ?」

「でも、パジャマなら沢山ありますっ。あ、違う柄にしましょうか。かわいいのもありますよ、えっと……あと、お色気むんむんな感じのも」

「い、いいっ! いいから! ……服、持ってないだって?」


 この大豪邸に住んでて、着る服がないとあいりは言う。

 宗一には、ちょっと信じられない。

 彌勒寺の家はあの有名な、ミロクジ・インターナショナルの創始者の家系である。鉛筆えんぴつからミサイルまで、あらゆる市場に介入して世界経済を左右している、超大規模な国際企業、その御令嬢ごれいじょうとさえ言えるのに。

 だが、ふと思い出す。

 あいりはずっと、身体が弱くて自宅療養中なのだ。


「ま、いっか。悪かったな、あいり」

「なにがですか?」

「いや……パジャマでも、いいよ。勉強とは関係ないしさ。でも、今度おじさんに会ったら言っておく。あいりもいくら外出しないからって、服がなきゃ不便だろ」

「不便、ですか」


 あいりは胸元をつまんで引っ張り、自分を見下ろす。

 ほっそりとした白いのどの、その下の鎖骨まで見えてドキリとした。

 まったくもって無防備、そして頓着とんちゃくを感じない言動。

 きっと箱入り娘なんだろうと、宗一は思うことにした。


「あ、そういえば。先輩はどうしてわたしの家庭教師を引き受けてくれたんですか?」

「ああ、おじさんが……つまり、あいりのお父さんが俺の保護者みたいなもんなんだよ。学校に行かないなら、アルバイトを頼めないかって」

「……じゃあ、先輩は先輩じゃなくて、兄様なんですか?」

「どっ、どど、どうしてそうなるっ!」


 グッとあいりが顔を近付けてくる。

 精緻せいちな小顔は目鼻立ちがすらりと通りよく、わずかに赤みのさしたほおのまるみが柔らかさを伝えてくる。何より、レンズ越しに大きな双眸そうぼうが不思議な光を湛えていた。

 学習机に並んで二人、思わず宗一はのけぞった。


「……俺、さ。両親がいないんだよ。オヤジもおふくろも記憶にない。でも、オヤジの古い友人だっていうおじさんが、学費からなにから支援してくれてて」

「じゃあ、わたしと一緒ですねっ。よかったあ……わたしも、父様にお世話になってるんです」

「そりゃね、実の娘だから当然でしょ」

「です、よね……そう、ですよね」


 施設で育った宗一に、あいりの父である彌勒寺恭也ミロクジキョウヤが手を差し伸べてくれたのだ。

 おかげで高校に進学もできたし、都内のアパートに一人暮らししている。アルバイトをして、何不自由なく暮らさせてもらっているのだ。

 だから少し、肩身がせまいし、後ろめたい。

 今、宗一は学校に行っていないのだ。

 逆に、恭也が自分を頼ってくれたのは嬉しかった。


「ま、そういう訳だからさ。あいりもしっかり勉強しな。でないと、俺みたいに……まあ、もうなってるか。学校、いつから行けてないんだ?」

「学校……見たこと、ないです」

「……ずっとか。ん、なに、考えようによっちゃ大人になってからでも取り戻せるさ」

「はいっ」


 笑うあいりの笑顔が、とても愛らしい。

 無条件の信頼をそそいでくる彼女に、自然と宗一も身が引き締まる。

 妹がいたら、きっとこんな感じだろう。

 そう思っていると、あいりは「ん」と天井を見上げてなにかを考え、ぱっと目を見開いた。


「そうだ。あのっ、先輩。写真、ってもいいですか」

「えっ? 俺の?」

「先輩の写真、欲しいですっ」

「なんでまた」

「駄目、ですか?」


 あいりは自分の右手を、胸の上で抱き締める。

 手の甲に光るレンズに、困った顔の宗一が映っていた。

 そういえば、あいりは先程言っていた。写真が好きだと。恐らく、外に出られない彼女には趣味が限られているのだ。恵まれた家に生まれ育っても、持って生まれた肉体は自分では選べない。

 勿論もちろん、生まれる家を選べる人間だっていないのだ。


「ん、ま、まぁ……いいけどさ」

「わわ、ありがとうございますっ。やっぱり先輩、いい人ですね」


 あいりが左手の指を、右手のレンズに走らせる。

 小さくリン、と音が鳴って、空中へと立体映像が投影された。それは、パソコンの画面で見るウィンドウのような四角い枠組フレームだ。静かに明滅するそれを、あいりは右手で上下させて覗き込む。

 先程宗一も触れたが、驚くべき技術だ。

 二十一世紀になって、ほぼ四半世紀……西暦2024年。

 スマートフォンの爆発的な普及と進化は、ちょっとした停滞におちいっている。多機能を詰め込みすぎた反動で、携帯端末の技術が迷走しているのだ。

 だが、あいりの持つそれは違う。

 これが、あの恭也が守れと言った次世代の新型デバイスだろう。


「先輩、笑ってください」

「ど、どうやって。ハ、ハハ……」

「笑顔が硬いです。こちょこちょしますよ?」

「わかった、笑う! 笑うから待てっ!」


 ひきつる笑顔で、宗一はあいりが手を添えるウィンドウを見詰める。

 シャッター音が響いたが、あいりは一枚で気がすまないようだ。

 そのまま宙空に浮かぶファインダーをトンと押して、泳がせる。そして、仰天ぎょうてんの行動に出た。思わず宗一は、呼吸も鼓動も止まるかのような錯覚を覚える。


「次は一緒に。記念写真です」

「あっ、あいり! くっついて……ちょ、お前っ!」

「先輩、笑ってください」

「笑えないぞ、あいり! そ、その……ちょっと、くっつき過ぎ、で」

「こちょこちょしますよ?」

「笑う! 笑います! けど、なんつーか」


 遠慮なくあいりは、ぴったりと身を寄せてきた。

 腕を抱くようにして頬に頬をくっつけてくる。

 そうして彼女は、遠隔操作で光のファインダーを操った。

 シャッター音が再び鳴るまで、宗一には長い長い一瞬が過ぎていった。ほのかに鼻孔をくすぐる、甘い匂い。果樹園の空気のような、見えない柑橘類かんきつるいに包まれているようだ。

 だが、あいりは気にした様子もなくツーショットの写真を撮る。

 ドアがノックされたのは、そんな時だった。


「写真、撮れました。先輩、ありがとうございますっ。あ……どうぞ」

「御嬢様、失礼します」


 ドアが開いて、先程の長身のメイドが現れた。

 目も覚めるような美人だが、怜悧れいりな表情は凍れる美貌びぼう……少し視線も冷たい。

 彼女はお茶の準備ができたのでと言い、今から運ばせるむねを伝えてくる。そして、宗一を静かな声で呼び出した。どうやらあいりのいないところで話があるらしい。

 先程までの後ろめたさが突然襲ってきて、宗一は慌ててあいりから離れて立ち上がる。

 その時、あせるあまり机にスマートフォンを忘れてしまうのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る