第6話青い空の下で 1

 リエットは、しばらく自分の目をこすってはまたたき、呆然としていた。

 辺りは一瞬にして、石造りの家が立ち並ぶ丘の上に変わっていた。

 背中にあたる木がさやさやと葉をゆらし、雨模様が嘘だったかのように青い空が広がっていた。


「なに……これ……」


 本の中とは違う。


「私さっきまで、自分の家にいたはず?」


 その記憶も、できれば忘れてしまいたかった。

 亡くなった父と母との思い出が詰まった家。それが見知らぬ美女に壊されたのだ。

 そういえば、こんな自体を招いた張本人はどこだ。首を横に動かせば、すぐ足元でうずくまっているジークリードを見つける。彼は浅い呼吸をせわしなく繰り返していた。


「具合が悪いんですか?」


 思わずジークリードの背を撫でてやる。

 すると一度咳をして、ようやく彼は顔をあげた。


「ごめんね。やっぱりちょっと魔術は体に負担がかかるみたいで。あー、でも今回は予想以上にしんどかった。まさかベルタの術がかかってる真っ最中だったから、その影響でひどいのかな。そうかも」


 独り言を続けた上、そのうちに自己完結したらしいジークリードは、ゆっくりと立ち上がった。


「ここは、王都から東にあるリンデスティ-ルの町だよ」


「リンデスティールって、王都から二日はかかる場所では?」


「うん、それをぼくの魔術で飛んだわけなんだ」


「……魔術?」


 ジークリードは「ああ、言ってなかったっけ」とのんびり答える。


「僕は元々魔術が使えるんだ」


「それで魔術に詳しかったんですか? でも瞬間移動って……何の魔法?」


 すると彼は楽しそうに言った。


空隙くうげきって知ってる?」


「空にたまに現れる、雲を吸い込んだり鳥なんかを吸い込む穴のことですよね?」


 奇妙な存在が空隙だ。その謎を知る物はいないし、別に地上の物まで吸い込むわけではないので、誰も気にはしていない。局所的に天気を変える程度の存在だ。


「空隙は、吸い込んだ物で魔力を作り出し、それに見合った場所まで移動するんだ。唐突にね」


「まさかこんな風に」


「ふふ、せいかーい」


「…………」


 なんてでたらめな力だ。そして、よもや謎の空隙についての秘密を聞くことになろうとは。

 リエットは一瞬感心しかけたが、そこで重大なことに気付く。


「ということは、殿下は空隙の魔術師?」


 今のジークリードの説明では、そうとしか言いようがない。空隙と同じ能力を魔法で再現できるのだから、まさか空隙を研究しつくしたのだろうか?


「まぁ詳細は後でね。とにかく次のことを考えよう。とにかく僕は本から出なくちゃいけない」


「ずっと出ていられるわけじゃないんですか? 私が本を読まない限り、外に出ていられるとか?」


 首をかしげるリエットに、ジークリードはぱたぱたと手を振る。


「外に出られる時間も限界があると思うんだ。こんな風にしていられるのは、ベルタが、誰かが本を読んだら僕が出れるように術をかけてたんだろうね。けど本から外に出られるようになったままにしていたら、僕はさっきみたいに逃げちゃって居場所がわからなくなるから、たぶん時間制限ぐらいはつけてるだろう」


「さっきみたいに……」


 おそらく、ぽんとどこかへ消えてしまうことを言ってるのだろう


「で、一体殿下は、本に閉じ込められたあげく追われるような何をしたんです?」


 問えば、ジークリードは「良いことを聞いてくれた」と喜ぶ。


「闇の本をこっそり借りようとしたんだ。で、怒られた。普通に使えば、読んでる最中に起る現象で、城も全壊するだろうからね」


「そんな危ない真似をしたのは、なんの目的で?」


「うん。炎妖王の魔術師を倒そうと思って」


 リエットは自分の耳を疑った。

 国境で多くのレーヴェンス兵を、リエットの父をも殺した術。

 リエットは唾をのみこんだ。それからふるえる声で尋ねる。


「それ、本当に炎妖王の魔術師を、どうにかできるんですか?」


 対するジークリードの返事は、こころもとないものだった。


「確実とは言えない。炎妖王の術に対抗するなら、真逆の性質を持つ氷の術か水の術が適しているんだろうし。けれど、そういった魔術の本は、あの魔女も持っていなかったんだ」


 ただ、とジークリードは続ける。


「闇でも、術者自体を消滅させられる。術自体は炎妖王の術以上に強いはず。そしてこれも不幸中の幸いだけど、本に閉じ込められたおかげで、周囲を破壊したりしなくても習得できそうだ。だからお願いなんだけど、この本を読みながら東の戦場の近くへ向かってくれないかな?」


 ジークリードが、本を抱きしめていたリエットの肩に手を触れる。

 じっと見つめられたリエットの頭の中には、ただ一つの言葉だけがぐるぐると回った。


 ――炎妖王の魔術師を倒す。


 再び唾をのみこんだリエットは、ジークリードに再確認する。


「本当に、炎妖王の魔術師を、倒してくれますか?」


 ジークリードはうなずく。


「僕の命に代えても」


 彼の答えは、それまでのふわふわとした様子が嘘のように、力強かった。

 信じられる、とリエットは感じた。


 リエットは魔術のことなんて全くわからない。

 でも、もうすぐ王国ごと消滅させられるかもしれない瀬戸際の状況ならば、ジークリードが闇の魔術を会得しようとしてもおかしくはない。


「なら、協力します」


「ホント? やったー!」


 ジークリードは喜色満面で両手を挙げたかと思うと、本ごとリエットを抱きしめた。


「ありがとう!」


「ちょっと、あのっ」


 そのままぎゅうぎゅう締め付けてくる腕に、触れ合う頬に、そして自分ではない人間の匂いに、リエットは焦る。


「は、恥ずかしいから、離れてください!」


「だって本当に嬉しくて! 他に読んでくれる人探すなんて二度手間だし、っていうか本を開ける人探すのが大変だし」


「開ける人というのは?」


「それになんだか時間切れみたいだ。じゃあ後は宜しく!」


 ジークリードはリエットの問いに答えることなく、突然本に吸い込まれるように姿を消した。


「ちょっとーっ!?」


 呼べど叫べど、ジークリード入りの本は、返事を返すことはなかった。

 リエットは、ややしばらく呆然とそこに立ち尽くした。


「本の魔法……で、戻されたってこと?」


 だからジークリードは本の中にひっこんだ、のだろう。

 一人残されてみると、今までのことが夢か幻みたいだった。けれどリエットがいるのは、確かに自分の家ではないし、手の中に本もある。


「ぼんやりしてても仕方ないか」


 とにかくここから移動しようと思い立つ。

 ジークリードを問い詰めようにも、本を読まなければならない。けれど本を読んでいる間はリエットは眠っているらしいのだ。こんな地面の上で昏倒するなどありえない。

 リエットはリンデスティ-ルの町を歩き出した。

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