蝋燭を売る少女

山本ナッツ

第1話

 一人旅の旅先の決め手は、街全体が世界遺産に指定されているという理由だった。

 もちろん、直行便が飛ぶようになったとか、ホテルが空港送迎を無料手配してくれるとか、さまざまな理由はあったけれど、ランタンの灯りが煌く風景の写真を見たとき、ここだ、と即決した。

 実際、ベトナム中部にあるここホイアンは、あまりにも非日常の景色が広がっていた。私の日常は実に退屈で、毎朝同じ時間に起き、商品受注の電話応対を一日こなし、狭いワンルームで一人夕飯を取るという日々の繰り返しだった。唯一の彩りは週末のボーイフレンドとの外出だったが、つい先日その彩りも消失した。

 自分ではまったく動じていないつもりだったけれど、旅行に行きたいから休暇が欲しいと同僚に相談すると、驚くほど快く送り出してくれたから、おそらく随分と落胆しているように見えていたのだろう。

 ホイアンは夜が美しい。狭い通路を照らすのは、赤、オレンジ、紫、青……といった鮮やかな色とりどりのランタンで、古い建物の黄色い壁を妖しく照らす。連なる店舗の内部もランタンの光を打ち消さないように薄暗く、雰囲気があった。目的なく歩くだけでも十分堪能できる。マーケットではランタンを購入することができるが、購入する人はほぼいない。ランタンは、ここホイアンで見るべきものなのだ。

 街に沿った川に街の灯りが映っている。その風景を写真に収め、小さな橋を渡り終えたとき、幼い少女から声をかけられた。

「ワンダラー」

 その七歳くらいの少女が両手で持ったお盆には、小さなフローティングキャンドルがいくつか乗せられていた。

 ワンダラー。そう言って少女は悲しそうに笑顔を作る。飛行する鳥のおもちゃを売る少年や、切り絵のギフトカードを売る女性など、観光客に集う現地の物売りは多く、ずっと無視して素通りしてきたけれど、この少女の前を通り過ぎることが、なぜかできなかった。思わず、財布を取り出す。

 ドル紙幣を受け取った少女の笑顔は美しかった。蝋燭の灯りが美しさを際立てる。

 少女は私の手をとり、川辺へと誘った。私にキャンドルを渡すと、川を指差す。浮かべろ、と言っているのだろう。

 川の流れは緩やかで、浮かべたフロートは右に左に彷徨いながら、ゆっくりと流れていった。サンキューという少女に、カムオンと礼を言う。

 少女は足早に橋のたもとに戻っていった。生活の足しにするには一ドルでは到底足りないはずだ。私には非日常でも、少女にとってはこれが日常なのだ。


 昼間のホイアンは夜とは違った趣きがある、昨晩は幻想的な風景を楽しむことに徹していたけれど、今日は名物料理を堪能する計画を立てていた。蒸し餃子のようなホワイトローズ、三重の伊勢うどんが原型といわれる汁なし麺のカオラウ、そして野菜やミートをフランスパンにいっぱい挟んだバイバー。どの店がいいか見当がつかず、結局ガイドブックにあった有名店に向かう。二階建ての老舗だ。

 並ばすに入れたものの、店内は観光客でいっぱいだった。観光客向けの価格帯に若干興ざめもしながらも、料理を堪能する。

 オープンエアの店内には、客だけでなく、物売りも平気で入ってくる。物売りたちは、こちらの了承を得ることなく、テーブルの上にどんどん商品を並べてゆく。テーブルについたソースが商品についてもお構いなしだ。賈わないという明確な意思表示をするとすぐに店じまいをし、隣のテーブルに移っていく。見る限り、ひとつも売れていない。

 ふと、脳裏に、昨日の少女の顔が浮かぶ。彼女は今頃どうしているだろう。街を歩いていても、同じ背格好の現地の少女を見かけると顔を確認してしまう。えくぼのある鼻がぺちゃっとした愛嬌のある顔の少女だった。同時に、もう会うことのないボーイフレンドに似た顔を無意識に探していた。一人旅には、さまざまな考え事をする時間がたっぷりと用意されている。


 レストランではホワイトローズとカオラウを味わったので、残るは、ベトナムのサンドイッチ、バインミーだ。すでに胃には物がいっぱい詰まっていたけれど、パスするわけにはいかない。

 意気揚々と店に向かう。ガイドブックには、オールドタウン中心部からすこし外れたところに、ベトナム随一のバインミー屋があるとあった。

 訪れると評判どおり十人ほどの長い列ができていた。フランスパンの焼きあがる香ばしい薫りがただよい、満腹だったはずの胃がくるくると動き出す。

 最後尾に並び、メニューを物色する。全ての具を入れた一番高価なものでも、日本円で三百円もしない。是非これを注文しようと列の進むのを待っていたときだった。

「あ」

 昨日の少女だった。店の軒先に佇んでいる。長らく探し続けていたような、懐かしい感覚を覚える。

 そうか、この店の子だったのか、そう思って跳めていたがどうも違う。持ち帰る客の後ろ姿を、もの欲しそうに眺めている。

「シンチャオ」

 声をかけると、少女は目を見開いた後、微笑んだ。覚えてくれていたのかわからなかったけれど、なんだか嬉しくなり、サンドイッチを二つ購入し、ひとつを少女に渡した。

「……サンキュー」

 彼女は素直に受け取り、しばらくそれをじっと眺めた後、大事そうに抱えて歩き始めた。無意識に、彼女の後を追う。車とバイクと自転車が有象無象に行きかうメインロードを、少女はどんどん進んでいく。 どこまで歩くのか、少女は黙々と歩き続ける。後をつけたことを後悔し始めたころ、脇道に曲がり、水田の広がる一帯の小さな家に入っていった。庭にアヒルが三羽と痩せた黒い犬が木陰に休む、古い農家のような佇まいの家だ。少女は私がついてきていることを承知していて、家に入るように振り返った。遠慮なく、玄関をくぐる。

 典型的な農村の家族、――つまり、祖父母、父母と兄弟たち――がいるのだろうと予想したがまったく異なり、少年少女が十人ほどいるだけで大人が一人もいなかった。彼らは一心にフローティングキャンドルの外側の紙を組み立てる作業をしている。彼らは子供たちだけで共同生活をしているのだろうか。

 すぐに少女が私が手渡したサンドイッチを何等分にも切り分け、彼らに配る。しかし、口にできるのは一口にも満たない大きさだ。手をつけていなかった私の分のサンドイッチを彼らに提供する。

「ここには、あなたたちだけで住んでいるの?」

 皆、一様に私の顔を眺めるだけで何も答えない。彼らは私の問いかけを理解できないようだった。つたない英語が通じないのか、そもそも英語が理解できないようだった。つたない英語が通じないのか、そもそも英語が通じないのかはわからない。

「私も手伝うわ」

 彼らからは何の返事もなく、それぞれの作業に戻ったが、何故か受け入れてくれたと感じた。

 フロートの組み立ては単純作業だった。見よう見まねですぐに要領を得る。元々、単純作業は得意なのだ。

『作業が丁寧だわ。まるで何年もこの作業をやってきたみたい』

 少女が小さく言った気がした。

「カムオン」

 褒められたのが嬉しくて、どんどん手を進める。陽は傾き、部屋はオレンジ色の光で満たされ始めた。

『さあ、そろそろ街に行きましょう。あなたも一緒に行く?』

『……いいの?』

『もちろん』 少女ともう一人の別の少女、そして私の三人で、街に向かう。

『今日はいくつ売れるかなあ』

『欧米人の観光客に積極的に声をかげましょ』

 二人の会話を聞きながら歩き、ほどなく中心部に到着した。すっかり日は暮れて、ランタンの光があちこちに浮かんでいる。

 早速フローティングキャンドルに火を灯し、お盆に並べる。

「ワンダラー」

 少女の売込みを真似して、私も観光客に声をかける。予想通り、観光客は素通りだ。

 ワンダラー、ワンダラー、機械のように発声する。

 そのとき、パシャ、とシャッター音がした。顔を上げると、日本人らしき男性がカメラを構えていた。やだ、やめて。そう思うのに、その日本人男性は、カメラの液晶画面をこちらに差出し、よく映っているだろうとでも言いたげに微笑んだ。

 嫌々ながらその画面を確認すると、そこには、フローティングキャンドルを売る、幼いベトナムの少女が映っていた。

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蝋燭を売る少女 山本ナッツ @kuru1796

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