星の間(あわい)
日暮奈津子
星の間(あわい)
六冊の本を読み終えてふと気づくと、もう夜が明けていた。
いつの間にか明るくなってきていた窓の外を見て、それから大きくひとつ息を吐き出して、読んだばかりの文庫本を上から順に一巻から六巻まで積み重ねてみた。
いったい、律子さんは何回読み返したのだろうか。表紙はすっかりすり切れて、カバーの折り返しが破れているのをテープで補修したところもある。
テーブルの上にはもうひとつ、大判の封筒に入れられた小説の原稿も置かれている。
もちろん、そちらももう読んでしまっている。
両手をうんと伸ばして背伸びをして、椅子の上でこわばってしまった身体をほぐしていると、寝室のある二階に通じる階段から降りてくる足音が聞こえてきた。
一瞬だけ緊張したが、すぐにそれが人の足音だと気づいて、僕は声をかけた。
「おはようございます」
「……ん? ああ、君か。おはよう」
まだ寝足りなそうな顔で降りてきたのは律子さんだった。
「ずいぶん早いですね」
「うん……。なんか、目が覚めちゃってね……」
「ギンと、貴行(たかゆき)さんは? まだ寝てますか?」
「うん。……そういう君こそ、早いじゃないのさ」ぼんやりした声のまま、律子さんはテーブルをはさんで僕の反対側の椅子に座った。
「早いというか……。これ、ありがとうございました。全部読ませていただきました」
「え?」
律子さんがテーブルの上に積まれた文庫本を見た。
陰気な男の肖像と不気味などくろの描かれた黒い表紙に『H.P.L.』のイニシャル。
『ラヴクラフト全集』
「あとそちらの……泰明(やすあき)さんの原稿も」隣りに置かれた封筒も指し示す。
『青い回廊と西王子家断絶の次第』
「……読んだって……? これ全部?!」
「ええ」
「一晩で?!」
「え? ……ああ、……はい」
「じゃあ、あれからずっとここで? 徹夜して?!」
「そう……なるんですかね……」
──「あれから」、ねえ……?
いったい彼女の中ではどういう認識になっているのか、正直僕にも分からないのだが。
──まあ、いいか。
すっかり眠気の吹き飛んだ顔で、律子さんはしげしげと僕の顔と文庫本とを見比べている。
「すごいなぁ……。私も読むのは早い方だけど、さすがにこれはちょっと……。逆立ちしたってかなわないよ」
「僕だって、逆立ちしたら読めません」
「つまんないこと言うんじゃないの」
律子さんは立ち上がった。
「さて、顔を洗ってくる。それから、朝ご飯にしよう。クロワッサンぐらいしかないけど。……だって、急に来るんだもの」
「え? いただいていいんですか?」
「いいんですかって……お腹すいてないの?」
「……そういえば、すいているような気がします」少しだけ僕は考えて、答えた。
テーブルに両手をつき、がっくりと顔をうなだれて、律子さんはため息をついた。
「そういうところがね……貴行くんにそっくりだよ……。あいつもさ、ほっとくと本ばっかりずーっと読んでて、なんにも食べようとしないの。空腹を感じるセンサーが壊れてるんだよ、きっと。血筋なのかねえ?」
「それは、関係ないと思いますけど」
──そう。それは、ない。
洗面台で顔を洗って、台所へ向かった律子さんの声だけが僕に届く。
「うーん、そうだね。お父さんは、弘道(ひろみち)さんは、よく食べるもんねえ。兄弟なのに全然違ってて、それなのに甥っ子の君が貴行くんの方に似てるっていうのも変な話だよねえ。……紅茶とコーヒー、どっちがいい?」
「じゃあ、紅茶で」
「了解。……いやぁ、しかし徹夜したっていうのに、全然眠そうじゃないよねぇ。やっぱ若いっていいなあ。うらやましいなあ。なんたって十六歳だもんねえ」
「十六歳って、そうなんですか?」
「え?」
キッチンのカウンターから、律子さんが顔をのぞかせた。
「たとえば……貴行伯父さんの十六歳の頃って、そうだったんですかね?」
慎重に、そう聞いてみた。
「さあ? 私たちが知り合ったのは大学時代だから知らないなあ。でも、やっぱり今と変わらないくらいの変人だったんじゃない? ……いや、もっとひどかったのかも。ほら、弘道さんに聞いたことない? 高校に入ってすぐの頃に二年生たちが教室まで見物にやってきて『なんだ、神原の弟にしてはぜんぜん普通だな』って言われたって話」
「いえ……聞いてませんが……」
それはいったいどういう十六歳だったのだろう。
「じゃあ、律子さんは?」
「私? ……私の、十六歳の頃ねえ……」
二人分の紅茶セットとクロワッサンをお盆に乗せて台所から出てくると、律子さんは再び僕の向かいに座った。
「……よく覚えてない……。もう二十五年も前だもんね。ああ、でも……十六歳の誕生日にね、友達がくれたプレゼントがさ、よりにもよってヘルマン・ヘッセの『車輪の下』だった」
「え?」
「『この本、すごく感動した!』って言って、その友達がくれたんだけどさ……。で、まあ、読んだわけよ。それで思ったのがさ、『ああ、私が自殺する時には、絶対この本を勉強机の上に置いといて、父親に見せつけてやるんだ!』って」
「……」
「つまり、それぐらい、すごい重圧を感じてたんだろうなあって。その友達も、私も。十六歳の頃」
「それ、どういう本なんですか?」
「……あ! 読んだことない? ヘッセの『車輪の下』」
「はい」
「あのね、主人公はすごく頭のいい……」
「あ、いいです。自分で探して読みますから」勢い込んで語ろうとする律子さんを僕はあわててさえぎった。
「……じゃあ、いただきます」
熱い紅茶とクロワッサンを僕は口にした。
「おいしい?」
「はい」
「そう。それはよかった」
クロワッサンをかじりながら、律子さんがつぶやいている。
「きちんと食事はとろうよね。おいしく食べられるってことは、大事なことなんだよ? ……だって、ちゃんと生きてるっていう証拠なんだから……」
テーブルの上のランチョンマットと、紅茶セットと、クロワッサン。
その向こうに、律子さんが見ているのは僕じゃない。
あの朝の風景の中、門前に立っているのは……。
「なにを見ているんですか?」
「えっ?」ティーカップを両手につつんだまま、律子さんの動きが止まった。
「いえ……、なんだかまるで、昔あこがれていた人を思い出しているみたいな表情ですよ?」
僕は小首をかしげてにっこり笑ってみせた。
「な……!」ぎくっと、カップがぎこちなくソーサーに置かれる。
「貴行さんが初恋の人ってわけじゃないですよね?」
「……え、ええっ……」
「いや、それよりもっと、ずうっと前なんですよね。いいじゃないですか別に。満開の桜の下で、制服の海軍さんが待っててくれて……」
がたんと大きな音をたてて椅子が倒れ、律子さんはテーブルを回ってずかずかと僕の方にやってきた。
「ちょっとなんでええっ! なんで急にそんなこと言い出すわけぇっ! この子、いったい……いったいどういうことなんだよぉっ!?」
沸騰した笛吹きケトルみたいに気恥ずかしさと怒りを吹き出しながら、つかみかからんばかりの勢いで僕に詰め寄ってくる。
「落ち着いて下さい。そんなにうるさくしたら、ギンが……、貴行さんとギンが起きちゃいますよ」
「これが落ち着いてなんかいられるか! ごまかそうったってそうはいくか! こいつ、大人をからかうんじゃないぃっ!」
──そう。どうやら僕は彼女をからかいすぎたようだ。
「……朝からなにやってんの、君たちは」
二階からパジャマ姿の貴行さんが降りてきた。
「あのさ、何があったか知らないけど、あんまり手荒なことは……そいつ、弘道に似ないで華奢に育ったんだから」
「すみません、起こしてしまって。あの、ギンはまだ寝てますか?」あわてて僕は階段の方をうかがった。
「だから、ごまかすんじゃない! この子ったらなんなのもう、さっきからギンばっかり気にして! どうだっていいでしょうが、ギンなんか!」
「ギン? ……ああ、どうやら起きてきたみたいだよ」
貴行さんが階段の方を振り返った。
「ふぎゃおおう」
不穏な猫の声が、階段の方から聞こえてくる。
僕たち三人の視線が階段の上にそそがれる。
白い毛並みの猫が、一階を見下ろす階段の踊り場から、毛を逆立てて僕を威嚇していた。
ギンの視線が指し示したかのように、貴行さんと律子さんが僕を見た。
「長居をしすぎたみたいですね」二人に、僕は告げた。
「……君はいったい誰?」僕から後ずさり、律子さんが揺れる声で問いかけた。
「そうだ……僕たちに甥っ子はいない。弘道に息子なんていない。なのに、どうして僕たちは……」貴行さんの声は辛うじて平静を保とうとしていた。
「……僕の方からは、何も言わなかったんですけどね」食べかけのクロワッサンと紅茶を残して僕は席を立った。
「……君がここへ来たのは……泰明さんの原稿を読みたいと言ってうちに来たのは昨日の夜……? ううん、違う。君はいったいいつ、どうやってうちに入ってきた……?」呆然と律子さんがつぶやく。
「それも何も言っていませんよ。僕は」
二人の視線を、僕は受け止めた。
僕だけが持つ、この黒い瞳で。
「あなたたちが自分で、そういう認識をしたんです。全部」
凍り付いたままの二人から目をそらし、僕はテーブルの上の封筒を手に取った。
「それを奪いにきたのかい?」貴行さんが僕に聞いた。
「違いますよ」
封筒の中に手を差し入れる。
僕が取り出したのは原稿用紙の束ではなかった。
代わりに中から出てきたのは──
瑠璃色の薄い布張りのハードカバーに、銀の箔押しのタイトル。
ページの小口は、青のグラデーション。
うっすらと、瓶覗きのしおり紐が覗く。
「それは……」貴行さんが目を見開く。
『青い回廊と西王子家断絶の次第』
「あの日、あなたたちが『夢の回廊』で見つけたこの本は、いま、ここで僕が作ったものです」
原稿の束を中に残したまま、僕は貴行さんに歩み寄り、封筒を返した。
「だから、あとはもう必要ないんです。さようなら」
ギンの鋭い爪が身体に届く一瞬前に、僕は神原家を後にした。
* * *
主治医と兄が並んで病室を出て行った。
他の家族や親戚に連絡をして、それ以外にも会わせたい人がいるなら……、これからそんな話をするのだろう。
それと入れ違いに、光彦は僕の病室に入ってきた。
二人の後ろ姿を彼は少しの間だけ見送っていたが、彼の存在が気づかれるおそれはなかった。
「気分は、いかかですか? 先生」後ろ手に扉を閉め、光彦は小声で僕に呼びかけた。
「……うん、まあ、ご覧の通りだよ。医者も、もう何もすることがないんじゃないかな」
やや大きめの黒い瞳が、ほんの少しだけ翳(かげ)った。
「君はちっとも変わっていないね」
「先生も、変わっていませんよ」
「まさか。だって、僕はもうこんなおじいさんだ」
「魂の色は、変わっていません。色褪(あ)せてすらいない。あの頃からずっと」
そういって、彼は一冊の本を取り出した。
『青い回廊と西王子家断絶の次第』
青い表紙の本に、銀の箔押しのタイトルが見えた。
「……その本は」
「そう、この本は、どこにもない本です。だから僕だけが持っている」
「でも、どうして?」
「貴行さんが原稿を見つけたんです」
「貴行?」
「先生のお兄さんの、お孫さんです」
「……そうか……」
僕は目を閉じた。
「やっぱりあの原稿は僕が処分すべきだった。梶尾にあれを押し付けようとしたのは間違いだった。僕が勇気のないばっかりに」
「そうとも言い切れませんよ。僕をこの時の、この場所へ来てみようという気にさせたのですから」
「……すごいな」僕は目を見開いた。
「『ここへ来ることができるようにさせた』ではなく『来てみようという気にさせた』ということは、君は自分が望みさえすれば、いつでもこの時のこの場所へ来ることができたんだっていうことだよね?」
顔を横に向けて、彼の方を見た。
口の端にかすかに浮かべた笑みで、光彦は僕の言葉を肯定した。
「……けれどもね、僕にだってできないことというのはあるんです。ええ、それでも……」
光彦の瞳が上を向き、病室の天井を越えて、水星のはるか向こうへ続く『回廊』を見つめた。
「先生の魂が、脳髄が、このまま失われてしまうのはあまりに惜しい。だって、それこそが、僕を深淵の果ての星まで導いてくれた『回廊』なのだから」
「うん。でも、それは仕方ないことなんじゃないかな……」
だんだんと弱まっていく呼吸と鼓動を、僕ははっきりと自覚していた。
「……でしたら、代わりにこれを」
視線を落とした光彦がそう言うと、僕の枕元に積み上げられていた五冊の本をひとつずつ手に取り、胸に抱え込んだ。
『妖精奇譚』
『夜凪ノオト』
『銀と真珠の宴』
『名も無き聲』
『星の間』
「それは……」萎えかけた腕を、僕は伸ばそうとした。
「代わりにこれらを、いただいて行きます」光彦が繰り返した。
「うん……。そうだね……いいよ」
ぱたりと僕の腕が掛け布団の上に落ちた。
「え?」
「持って行くといい。深淵の彼方まで」
光彦の黒い瞳が大きく見開かれた。
「本当に? だってこれは、先生が……あなた自身がこの世に生きた証(あかし)ですよ?」
「うん。だから、それを連れていってやって欲しいんだ。それに……」
僕の目が青い本の表紙に引き寄せられる。
「その本は、君しか持っていないんだろう? だったら、一緒にしてやって欲しい」
「君と一緒に、行きたい」
最期にそう囁いて、目を閉じた。
その声が、彼の耳に届いたのだろうか。
「……はい。わかりました、先生」
白く長い指先の手を、静かに差し伸べる。
その光景が、鼓動を亡(な)くした僕の目にもはっきりと映っていた。
光彦の手の中に小さな光があった。
──三万年を隔ててなお輝き続ける鍵……。
水面(みなも)のように、僕の胸はそれを受け入れる。
かちり、と、かすかな音がした。
僕の中の『回廊』が開かれる。
はるか遠く、遠く、遠くへと。
──水星の向こう、深淵のはるか彼方の星へ。
──星の間(あわい)をつなぐ、この『回廊』を越えて。
そうだ。
僕はついに、取り戻したのだ。
僕の、僕だけが持つ、銀の鍵をーー
* * *
音もなくドアが開き、黒い服の男が病室に足を踏み入れた。
それと入れ替わるように、光彦は泰明の枕元を離れた。
梶尾の右半身が光彦の肩口を空気のようにすり抜ける。
彼の眼に映るのは、ベッドの上の旧友だけだった。
だが一目で、彼にはその人がもう息をしていないのが判った。
枕元にあったはずの五冊の本もない。
──遅かったか。
目を閉じて、うなだれて、くちびるを噛む。
その唇が動いて、何事かを呟いた。
だがすぐに目を開くと、ポケットから小さなメモ帳を取り出した。
万年筆の青いインクで素早く書き留める。
病室の入り口で、光彦は黙ってそれを見ていた。
だが、なにもしなかった。
王はそれを許容して、立ち去った。
瞬息のうちに、彼は深淵を越えた自分の王国へと帰っていった。
梶尾も、メモ帳のページをちぎって枕元に置くと、そのまま病室を出た。
「にゃあ」
ドアを開けてすぐのところに、白い毛並みの猫が待っていた。
驚きもせずに一瞥をくれて、彼は猫の横をすり抜けて歩き去った。
猫もおとなしく、その後ろをついていった。
誰も病院を出てゆく男と猫の姿を見ることはなかったが、まだその時代なら、男の来ていた服が大日本帝国海軍士官の制服だと判った者も多かったはずだ。
──しかし、しなやかに歩む黒い猫のように星の間(あわい)を渡る深淵の王の姿は誰の目にも残ることはなかった──
(終)
《このお話は、投稿済みの『青い回廊と西王子家断絶の次第』『猫のゆくえ』
『銀と真珠の宴』『夜凪ノオト』『妖精綺譚』『名も無き聲』という一連のお話の最終着地点です》
星の間(あわい) 日暮奈津子 @higurashinatsuko
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