第8話 古代ローマ入浴法
「兄さん、大丈夫?」
妹が心配そうにこちらを見る。
なるほど、血を分けた肉親には、日頃の疲れなど隠しても無駄なようだ。
「少し、疲れてる?」
ため息を一つこぼして、妹は続ける。
「最近、また残業増えたもんね。兄さん、体はあんまり強くないのだから、無理しないでね」
そう言うと、妹は私から仕事用のカバンを奪い去り、風呂場へと押し込んだ。
「こうゆう時は、何も考えずに寝るのが一番。下手な考え、休むに似たり。だったら休めよ、ってね」
そう言い残すと、妹はバタンと扉を閉めてリビングへと去っていった。
流石は我が妹、既に浴槽には適温のお湯がはってあった。
私は、促されるままに風呂に入ることにした。
シャワーで軽く体を洗い流し、浴槽に入る。ゆったりとしたお湯が、筋肉を和らげてくれるのを感じる。今日一日中、というか最近体が緊張し続けているからな。
下手な考え、休みに似たりか。たしかに、我が妹ながら良い言葉を知っている。下手に考えても、つまりは無駄に悩んだところで現状は変わらない。だったら、少しでも眠って体力回復にリソースを当てるべきということ。
湯船から出て、頭と体を洗う。
そして、ゆっくりと風呂で過ごす。
目を閉じ、脱力する。
……
…………
………………
「湯加減は……問題なさそうですね。流石は私」
「は?」
「どうも、妹です」
どうぞよしなに、とお辞儀をしながら妹が登場した。
病的な感じの白い肌。
え、何。どういうこと。
湯気でほんのり顔が赤い。
脳が処理落ちしそう。
「まあまあ。兄妹なんだから落ち着いて」
妹はそう言うと、硬直している私の顔を、反対側へとぐいと回す。見慣れた、白いタイルが視界を覆う。
ーーかと思うと、再度私の顔をぐるりと戻す。
すると、これも見慣れた白さが目を覆う。
もちろん、タオルである。
拭いて良し、巻いて良し、ねじって良し。なんでもできる、文明の利器。
「ちゃんとタオル巻いているから、大丈夫だって」
落ち着いて視界を確認するとちゃんと見てはいけない所は隠されていた。セーフであった。
「でもこれで、兄さんが考えていたーー否、悩んでいたことは、どこかへとんでいったでしょ。妹の裸体に勝るものなんて、この世にはそうはないからね」
「裸体言うな。それと反対側向いてろ、恥ずかしい」
「まあまあ。たまにはレディの裸くらいみておかないと、テストステロン値が下がるよ」
「兄をからかうもんじゃない」
「血を分けた妹だと、恋愛対象として見れないっていうから、効果は薄いかもねー」
そう言うと、妹はふぅと一息して黙った。
ゆったりとした息遣いだけが聞こえる。
狭い浴槽に妹と二人。時間経過で落ち着いたとはいえ、心拍は安定しない。
ーー
……どれくらいたっただろう。
妹は黙り、私も特に喋る話題をもっていないため、久遠の如き時間が流れた気がする。
長風呂は得意な方ではない。そろそろ、限界だった。
顔拭き用のタオルをサッととり、下半身を覆う。
「待って、兄さん。大事なことを忘れているわ」
「ひぁあん」
風呂場に響く、甲高い声。声の主は妹ではない。
もちろん、私の声である。
急に冷水を体に浴びせられたせいで、変な声が出たのだ。
「ひぁあん、だって。やっぱり兄さん、テストステロン値が低いのでなくって?」
ケラケラと笑う妹。
「き、急に水かけられたらそうなるだろ」
「いや、ローマ皇帝はそんなみっともない声は出していないよ、きっと」
それより、冷たい。体が一気に冷える。
妹は、そんな私を顧みず、いつもの如く人差し指をピンと立てる。
だが、その間もシャワーの冷水は容赦なく私から体温を奪っていく。
「これはね、ローマ式の入浴法なんだよ。なんでも、これをやるだけで免疫力が上がるんだって」
「どんな仕組みだよ」
「仕組みというか……私もどんな原理かは知らないよ。ただ、古代ローマで伝わっていた健康法らしいよ。ある種の民間療法か。まあ、サウナの後に水風呂浸かる、みたいなやつだよ。お風呂とかサウナとかで、ある程度体を温めてから、冷水で一気に温度刺激を与える。すると、その刺激が免疫系に『なんやかんや』して、機能を向上させるらしんだよ!」
「なんやかんやって、なんだよ!!ーーそれより、もう十分なのでは」
「あと10秒くらい待って。私が調べた文献だと、30秒くらいやったデータしかなかったから、もう少し頑張って」
妹はそう言うと、シャワーホース片手に、私の周りをぐるぐると回り始めた。
ちょっとした拷問だった。
とにかく寒い。冷える。冷たいーー
けど、頭はシャキッと冴えてきた気がする。体も心なしか軽く、だるさも消えている感じもする。これが、冷水の効果ーーなんやかんやの力かっ!
けど、寒い。
「はい、とりあえず実験結果を兄さんで立証するために、これから30日、毎日続けてね。さぁ、兄さんの免疫力を取り戻すために、レッツトライ!」
「さ、30日は長いだろ!」
「大丈夫、ちゃんと可愛い妹である私が、毎日手伝ってあげるから」
そう言って妹は悪戯っぽく笑った。
私の悩みがまた一つ、否、二つ増えた瞬間だった。
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