第7話
インターホンが鳴って目が覚める。いつの間にか眠っていたらしい。時計は九時半になっていた。起き抜けのぼんやりした状態で玄関へ向かう。
ドアを開けると、鈴川がいた。口をきゅっと結んでいる。いつもと違う眼鏡をしているが、フレームが歪んでいる。ネイビーブルーのジャケットにグレーのスラックス。シャツは水色のストライプだ。ネクタイはしていなかった。これでずぶ濡れでなければ、どこから見ても爽やかな好青年だろう。
「あ、会って、あや、謝ってきました」
「うん」
「かっ、神田さんが、来いって……こ、来いって、言った、から」
「うん、言った」
雨は上がっていた。濡れた地面に街灯が反射している。鈴川はビニル傘を持っていた。傘があるのにどうして濡れているのだろう。
「とりあえず入れよ」
鈴川は首を振った。濡れた髪から雫が落ちる。
「か、帰り、ます」
「そのまま帰せるわけないでしょ」
逃げるように踵を返した鈴川の腕をつかんで引きずり込む。まるで人さらいだ。
「だ、だって、濡れてて」
「タオル持ってくる」
「い、いいです、帰ります!」
「帰ったら冬のボーナスの考課下げる」
「横暴です!」
バスタオルを取って戻ってくると、鈴川はぽつんと立っていた。後生大事に持っているビニル傘を奪い、タオルを押しつける。歪んだ眼鏡をジャケットのポケットに入れ、鈴川は髪を拭き始めた。シャツが肌に貼りついている。靴の中もぐしょぐしょだろう。
「鈴川」
「はい」
「俺のスウェットでよかったら着る?」
鈴川はこの世の終わりのような顔をした。
押し問答の末に全部脱がせた。問答と言っても、鈴川は途中から、ああとかううとか唸り声しか出せなくなっていた。ジャケットとスラックスはハンガーにかけ、シャツと靴下は乾燥機に放り込んだ。
神田がコーヒーを淹れている間、鈴川はカウチの隅で小さくなっていた。貸したTシャツはサイズが合わず、肩が落ちている。袖から突き出た腕が細い。
カップを差し出すと、鈴川は両手で受け取った。コーヒーには砂糖を少しと牛乳をたっぷり入れた。なんとなく、甘いものを与えたかった。
入念に吹き冷まし、そっと口をつける。一口飲み、カップを膝に下ろす。ほっと息をついて、また飲む。そうやって一口ずつ、確かめるように飲んでいる鈴川を、神田はカウチの反対側から眺めていた。
普段見ている鈴川と違う。覇気がなく、弱々しい。まるで色水を作ったあとの朝顔のようだ。電車で妊婦に遭遇した日もだいぶぐにゃぐにゃになっていたけれど、あのときはまだ色がついていた。
「鈴川」
声をかけると、鈴川はびくりと肩を震わせた。カップを持つ手に力がこもる。
このままそっとしておいた方がいいのだろう。見なかったことにして、聞かなかったことにして、忘れてしまった方がいいのだろう。
彼が元妻だったら、そうしただろう。
「俺のこと好き?」
鈴川は膝のコーヒーをにらみつけていた。吐く息が震えている。何度も口を開きかけるけれど、言葉は出てこない。
答えがなくてもよかった。彼がそう望むなら、忘れてもいい。それは、今までと違って随分とポジティブな感情だった。
「すみません」
「なんで謝るんだよ」
「すみません、俺、勢いで……ごめんなさい」
まだ話ができる状態ではないようだ。
神田は待つことにした。乾燥機が作業完了を告げたが、神田は動かなかった。ただ、カウチの端から鈴川を眺めている。沈黙は苦手だと思っていた。こんなに長い時間、話し声がなくても平気なことを初めて知った。テレビもタバコも欲しいと思わない。
鈴川がコーヒーを飲もうとして、ちらりとこちらを見た。目が合い、白い頬が紅潮する。あの日と同じ顔をする。
「俺のこと好き?」
しつこいおっさんだと思われているだろう。でも、どうしても確かめたい。
「すっ、好きです」
上擦ってはいたが、いつもの鈴川に近い声だった。
一度目は驚きが勝っていた。二度目を聞いたらはっきりするかと思った。
十六も年下で、同性だ。それでいいのか、確証が持てない。
何に?
自分に。
「キスとかしたい?」
鈴川はみるみる内に耳まで赤くなり、カップに額がつきそうなほど屈んでしまった。
「……したい、です」
「する?」
鈴川は二つ折りになったまま、かすかに頷いた。神田が隣に移動すると、弾かれたように上体を起こした。泣きそうな顔をしている。夜中の海のように瞳が揺れる。顔を近づけると、ぎゅっと目をつぶってしまう。
がちがちに強張った肩を抱き寄せ、キスをする。鈴川の唇はやわらかかった。
「続きは?」
問うと、視線がさまよった。廊下へ続くドアを見て、膝のコーヒーを見て、そこで固まってしまう。片手がカップを離れたが、宙で止まって結局元の位置に戻った。鈴川は身じろぎもしない。静かすぎて耳鳴りがしそうだ。
やがて、ぎこちなく顔が上がる。白い手が神田の肩に触れ、シャツを握った。
「したいです。抱いてください」
熱っぽい眼差しで、目をそらしたくなるほどまっすぐにこちらを見ている。
「お前、えらいな」
鈴川は首を傾げた。あどけない仕種がアンバランスだ。
「すごく嫌だったのに、相手の子にもう一回会いに行っただろ?」
「そんなの、ご褒美があったからです。神田さんが来ていいって言ってくれたから」
「今も、自分がどうしたいかはっきり言えるしさ」
「こんなチャンス、二度とないから」
ご褒美があってもチャンスがあっても動けない人間はごまんといる。自分もその内の一人だ。始めることも、終わることも、全部相手に任せてきた。決定的な言葉も、キスも、鈴川に押しつけた。
「ほんとはお前に説教じみたこと言えるような人間じゃないんだ」
格好悪いったらない。今までずっとそれを考えもしなかったことが恥ずかしい。
「神田さん」
コーヒーがまずかったのは、見合いをすると言われたからだ。
表情の変化が見えたり、小さなつぶやきが耳から離れなかったりしたのは、気になったからだ。
唐突に泣きつかれても突き放さなかったのは、できなかったからだ。
「俺のこと、好きですか?」
考えたくなかったことに、答えを。
「好きだよ」
「キス、したいですか?」
「したい」
シャツを握る手から、鈴川の緊張が伝わってきた。
「じゃ、じゃあ、」
唇が震えている。必死にすすっているけれど、鼻水が垂れている。色男が台無しだ。いっぱいいっぱいなんだなあ、と思った。知らず、笑みが浮かぶ。
「続き、してもいい?」
キスした瞬間、欲しいと思った。考えるまでもなかった。
「抱きたい」
長いまつ毛に涙の雫をたくさんつけて、鈴川は頷いた。
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