第6話

 天気予報は毎日、大気の状態が不安定と唱えている。どんなに晴れていても油断するなということらしい。今日は本当に天気が悪かった。昼頃はまだ雲が薄かったが、次第に濃く黒くなり、日没よりずいぶん早く表の街灯が灯った。

 神田は儀式のように昼まで眠り、食パンを食べ、掃除機をかけて洗濯機を回した。毎日アイロンをかけなくてもいいよう、ハンカチだけは大量に持っている。夕食がてら外へ出て、ついでにクリーニングに出しておいたワイシャツを受け取ってきた。電気も点けず三和土でサンダルを脱いでいると、一瞬辺りが明るくなる。数を数える間もなく不穏な音が聞こえた。

「近いなあ」

 ダイニングの椅子にシャツをかけて時計を見ると、まだ八時前だった。冷蔵庫からビールを出し、カウチに座ってエアコンとテレビを点ける。これと思う番組はなかったので、一番にぎやかそうなものを選んだ。

 また、外が光る。ささやかな庭に通じるガラス戸に雨粒が当たった。粒と思えたのも一瞬のこと、すぐに悪意を感じる降り方になった。テレビの音量を少し上げる。降られる前に帰ってきてよかった。

せっかくの見合いの日に、鈴川も災難なことだ。夕食を食べることになっていると言っていたが、もう終わっただろうか。どんな女性だったのだろう。

雨には降られていないだろうか。降られたら降られたで、傘を買って相合傘でもするのだろうか。初対面だし、まだ早いか。それとも、最近の若者はそういったことはしないのだろうか。

女性は着物だろうか。濡れたら大変だろう。男は大概スーツなので、大したことはない。鈴川のことだから、細身の洒落たネクタイをしていっただろう。中根が見たら、今度それを締めて合コンに行こうと言いそうな――テレビからどっと笑い声が上がった。

神田はビールを飲み、音量をまた少し上げた。雷が鳴る。雨が打ちつける。携帯電話が鳴る。

携帯電話?

「どこやったっけ」

 よく元妻からも、置き場所を決めろと小言を言われた。今回はダイニングテーブルに自動車の鍵とまとめて放り出してあった。表示された名前に、一瞬手が止まる。

 鈴川 英斗。

「もしもし?」

 電話の向こうからも雨の音が聞こえた。

「もしもし? 鈴川?」

「……かんださん」

 細く掠れた声。かき消されてしまいそうだ。

「ごめん、聞こえない。もうちょい大きい声で、あ、いいや、テレビ消す」

 音量ボタンを探すのが面倒臭い。テレビが薄くなったり画質がよくなったりするのは大歓迎だが、リモコンのボタンが増えるのは勘弁してほしい。

「悪い悪い。雨うるさくて、音大きくしてた。どうした?」

 鈴川は返事をしない。電話はつながっている。雨の音が聞こえる。窓の外が光る。雷鳴までの間を数えるのは、子どもの頃からの癖だ。

「かんださん」

「ん?」

「どうしよう……お、俺、あの人、……って、だって、い、いきなり……こわく、て、に、逃げて……」

「うん」

 雨が降っている。右の耳から携帯電話越しに、左の耳からはガラス戸越しに。溺死しそうだ。

「……き、きす、キスされそうにな、なりました。だから、つ、突き飛ばして、逃げて……に、逃げて、きて、そ、それで……どうしよ……俺、どうすればいいですか?」

 どうすればいいのだろう。

 ダイニングテーブルに残った自動車の鍵が目に入る。

「鈴川」

「……はい」

 どこにいるのだろう。雨に当たっていないだろうか。

「女の人怖いこと、相手に言った?」

「言ってません」

「じゃあ、相手はどうしてお前に突き飛ばされたか、わかってないんだな」

 察しのいい鈴川のことだ。この後何を言われるか、おおよそ見当がついただろう。返事をしなかった。

「もう一回ちゃんと会って、とりあえず謝った方がいい。怖いことは言わなくてもいいから、突き飛ばしたことだけ謝ってこい。こんな天気の日に、おしゃれしてきた女性に、このままじゃ失礼だろ?」

 雨の音が聞こえる。神田はカウチに座った。

鈴川はわかりましたと言うだろう。喫煙ルームでそう言ったように、抑揚なく。

「嫌です」

 予想外だった。

「戻って謝っても、なかったことにはならないじゃないですか」

「うん、まあ、そうだけど、でも」

「俺は最初から見合いなんかしたくなかったんです。気づいたら日取りも何もかも決まってて、嫌だなんて言えなかったんです。そもそも、なんであの女は初対面の人間にキスしようとするんですか。失礼なのはあっちじゃないですか。どうして俺が謝らなきゃならないんですか。おかしいでしょう。俺だって突き飛ばしたくなんかなかった! 怖がりたくて怖がってんじゃない! 姉ちゃんは俺に子ども殺させといて平気な顔して結婚して! 父さんも母さんも俺に彼女がいないの俺が悪いみたいな顔して! なんで俺が謝らなきゃならないんだ!」

 どうしよう。

 どうすればいいのだろう。

 どうしろと言うのだろう。

「神田さん」

「はい」

 いつもと逆。

「俺、神田さんが好きです」

 いつもと。

「戻るの嫌です。あの人怖いし、全然好きじゃないから嫌です」

 笑ってしまうくらい素直な理由だ。純粋で、透明で、「大人の都合」でひとくくりにされる面倒事は一切排除されている。シンプルすぎてめまいがする。神田は額に手を当てた。

「それでもさ、鈴川」

 その気持ちを肯定するほど、無責任にはなれない。

「初対面のお前にいきなりキスしようとするような人でもさ、全然好きじゃない人でもさ、もう一回会って、謝るべきだと思うんだよ。相手が女性だからとか、親父さんの面子がどうとか、理由をくっつければキリがないけど、明日目が覚めたら、お前が後悔するよ」

 どんなに両親の勝手でも、どんなに相手の女性が無礼でも、最後に責めを負うのは鈴川になるだろう。ならばせめて、自分の非礼について謝罪をしたという事実は、作っておいた方がいい。

「話ができたらうちに来い。待ってるから。な?」

 鈴川は返事をしない。雨はいつしか小降りになっている。雷は遠ざかったようだ。

 電話が切れた。

 神田は身体中の力が抜けてしまうほど大きく息を吐いた。携帯電話をカウチの前のテーブルに置く。テレビを見る気にはなれず、横になった。丸い蛍光灯カバーに点々と黒い染み。羽虫はどこからでも入り込む。

 急に電話をしてきて、泣きついてきて、返事をしたら鬱憤をぶつけられた。理不尽だ。突き放しても、無視しても、怒り返しても、問題なかっただろう。そうしてもよかったはずだ。どうしてそうしなかったのか、あまり考えたくない。

 鈴川は来るだろうか。きっと来ないだろう。返事をしないで電話を切った。見合い相手にも会わず、このまま帰宅するだろう。

 もしも来たらどうしよう。

来ないのだから考えなくていい。

 考えなければわからないことは、考えなければわからないままにできる。

 しかし、考えなくてもわかることは、わからないままには決してできない。

『俺、神田さんが好きです』

 いつもの鈴川の声だった。高くもなく、低くもない。吃音も出ていなかった。神田は返事をしなかった。代わりに、来いと言った。待っている、とも。それは神田の知覚できる範囲外から出た言葉だった。何故そんなことを言ったのか、あまり考えたくない。

コツをつかんだ知恵の輪のように、一つわかるとするするわかる。コーヒーがまずかったり、表情の変化が見えたり、小さなつぶやきが耳から離れなかったりする。その理由も考えたくないけれど、考えなくてもわかってしまうから性質が悪い。

 面倒なことは嫌いだ。今までと違うことは好きじゃない。

 一回り以上年下で、同性だ。

『俺、神田さんが好きです』

 何がいいのかわからない。今までの女性も皆そうだった。自分の何がよかったのかわからないままつきあった。告白するのは相手の役で、神田は頷くだけでよかった。結婚もそうだ。プロポーズをした覚えがない。親に会ってと言われたから頷いた。そうやって、ことが進んでいった。

 浮気相手は妻より年下だった。なんの仕事をしていたか忘れたけれど、年収はずいぶん低かった。それもあって示談金が少なかった。仕方がないと思った。顔はもう思い出せない。美形だとも不細工だとも記憶していないから、十人並のつくりだったのだろう。妻にとって彼の何がよかったのか、神田は聞かなかった。自分の何が悪かったのかも、聞かなかった。

 それまでの女性も皆そうだった。何が悪かったのかわからないまま別れた。別れを切り出すのは相手の役で、神田は頷くだけでよかった。

「そういうとこが、ダメなんだな」

 それなりに好きだったのだと思う。少なくとも、嫌いではなかった。けれど、「それなり」や「嫌いじゃない」程度の結びつき、すぐに壊れてしまう。ずっと、そういうものだと思っていた。壊れてもなんともなかったし、壊れないような努力もしてこなかった。

皆、自分のそういうところに気づいたのだろう。そして、離れていった。懸命だ。

 今更ながらに、妻に悪いことをしたと思う。怒ったり、引き留めたり、謝ったり、戦ったりといったことを何一つしなかった。彼女がそれを望んでいたかはわからないけれど、そういう気持ちがなかったことを申し訳なく思った。今頃どうしているだろう。彼と、幸せにしているだろうか。

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