第5話

 あの言葉が耳について離れないまま、梅雨が明けた。今年も梅雨らしい降り方はほとんどせず、もっぱらゲリラ豪雨に終始した。中根は最後まで妊婦のおしゃれを貫き、無事産休に入った。

 夕方になるとパソコンの液晶が輝き始める。オフィスの窓は南向きだが、ビル群で反射を重ねた西日が入ってくる。神田は窓に背を向けているので、直接的にはまぶしくない。ブラインドを下ろすのが面倒で、自分の頭で陰を作りながらキーボードを叩く。不意に快適になったと思ったら、鈴川がブラインドを下ろしていた。

 小さなため息が聞こえた。席に戻る足取りが心なしか重い。数日前から、鈴川はどうも元気がない。

「鈴川」

「はい」

「なんか詰まってることある?」

「いえ、ないです」

 はっきりと否定された。では、本当にないのだろう。業務上の問題は小さい内に相談が来る。鈴川はいい意味で抱え込まない。

「なんかあったら言えよ?」

 一人減り、二人減り、オフィスはだんだん灯りが消えていった。離席時には頭上の電気を消すルールだ。九時を過ぎると点いている蛍光灯の方が少ない。

航空会社が新しく発行するマイレージカードの導入について部長と話していたら、思いの外長くなってしまった。その部長は、話が終わると俊敏に帰っていく。

「何? 消したの?」

点けっぱなしにしていったはずが消えている。神田はナイロンの紐を引っぱった。

「話、長そうだったので」

「これ消したらお前のとこ暗くなるだろ? わざと点けてったのに」

 あの日と同じ、薄紅の頬。目が合うとうつむいてしまう。鈴川は眼鏡を外し、ぐりぐりとこめかみを揉んだ。首の骨が浮いている。日に焼けた皮膚が赤い。顔を上げたが、鈴川の肩は丸まったままだった。まばたきをくり返し、目を眇めてパソコンの画面をにらんでいる。険悪な顔だ。

「鈴川」

「はい」

「コーヒー飲もう。奢ってやるよ。コーラでもいいぞ」

「炭酸苦手なんで、コーヒーがいいです」

 鍵を閉められないよう、まだ残っている社員にすぐ戻ることを伝えてオフィスを出た。エレベーターホールの自動販売機で缶コーヒーを二つ買い、喫煙ルームに入った。ここには嵌め殺しの窓がある。五階からでは夜景と呼べるようなものは何も見えない。冬になれば街路樹のイルミネーションが始まるが、豆粒ほどの電球にときめく心は、社会人になるときに持ってこられなかった。

コーヒーはさておき一服する。鈴川はごちそうさまですと言ってプルトップを引いた。

「元気なくないか? 疲れてるなら適当に切り上げて帰れよ」

「いえ、疲れては、ないんですけど」

 鈴川はそこで言葉を切った。神田は先をうながさなかった。タバコを灰皿に落とし、コーヒーを開ける。これまでと香りが違うという売り文句の新製品だったが、神田には何が変わったのかわからなかった。

「見合いするんです。今度の日曜に」

 飲みかけたコーヒーがおかしなところに入り、神田は盛大にむせた。変な咳をしてしまって喉が痛い。

「見合いって、お前、」

 ひとまずハンカチで口元を拭いた。スーツが無事でよかった。

「父の知人の伝手で」

「親父さん断らなかったのか?」

「両親は俺が女の人怖いの知らないんです」

「なんで?」

「言っていないので」

「どうして?」

「なんとなく、悪い気がして」

 誰に? と喉元まで出かかった。胸のあたりがもやもやする。飲み損ねたコーヒーとタバコの煙がぐるぐる回っている。

「どう思いますか?」

「どうって、何が?」

 二本目のタバコに火を点ける。

「理由を言って、先にはっきり断るべきか。それとも見合いをしてから、ご縁がありませんでしたって、適当に断るか」

 そんなことを聞かれても困る。鈴川が不快な思いをするのは目に見えているし、相手の時間も奪うことになる。結果が同じなら、先に断るのが合理的だ。

しかし、そのためには両親にも黙っている女性恐怖症を見ず知らずの女性に打ち明けなければならない。引き受けてしまっているなら、父親の面子も関わってくる。ずっと黙っていた分、両親に打ち明ける方が厄介かもしれない。

『……じゃあ、諦めなくていいんだ』

 どうしてここでこの台詞。

 鈴川はじっとこちらを見ている。いつもの鈴川だ。笑わないけれど優秀な部下。

「嫁さんに逃げられた俺が言うのもアレだけどさ、とりあえず会ってみたら?」

 口の中がじゃりじゃりする。コーヒーの香りは悪い方向に変わったらしい。

「もしかしたら、大丈夫かもしれないだろ。最終的に好きな相手は一人いりゃいいわけだし、その人がそうなら、ラッキーなんじゃないか?」

 勝手に言葉が出てくる。録音に合わせて口を動かしているようだ。中途半端に残ったタバコを灰皿に押しつけ、新しいものを出した。百円のライターはカチカチ鳴るばかりで火が出ない。自分でもいらついていることがわかった。

 気に入らない。コーヒーは不味いし、火は点かないし、上辺だけ繕って適当なことをしゃべっている。神田はようやく火が点いたタバコを思い切り吸った。

 確かに上辺だけだ。しかし、言っていることは真っ当だろう。模範解答にしてもいいくらいだ。他に、一体何が言える?

 神田は考えることをやめた。

「わかりました」

 鈴川の声には抑揚がなかった。それは電話を取り次ぐときの鈴川の声なのに、妙に尖って聞こえた。

「神田さんはそう言うと思いました」

 たった数時間の我慢だから。練習だと思って。親父さんの顔を立てて――無責任なことならいくらでも言える。

「見合い、行ってきます」

「……ああ」

口の中がじゃりじゃりする。

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