第4話

 雲一つない空の下、蝉が鳴いている。表の並木道は耳を聾するほどだ。どこもかしこもコンクリートで固められた街の、一体どこにこれだけの蝉が潜んでいたのだろう。

 神田は下半期の売り上げ計画とグループメンバーの残業予測に頭を悩ませていた。一時期はどこの会社も経費削減を掲げて海外出張を控えてきたが、ここ数年は件数が増えている。順調に行けば、計画通りの売り上げになるだろう。ただし、件数が増えれば残業も増える。もちろん増員はない。各自で低減に努めるようにと部長は言うが、こちらの一存で手続きの簡素化ができないので難しい。

「はい、かしこまりました。それでは担当から折り返しお電話いたします。失礼いたします」

 盆休みが近づくと、個人旅行の依頼が増える。鈴川は毎日、その電話を該当のグループへ回していた。

「お疲れ様です、鈴川です。お客様にご連絡をお願いします。番号は」

 あの日から、鈴川とは私的な話をしていない。ピザを食べて帰ったと思ったら、謝罪と礼とついでに吃音も黙っていてほしいというメールが来た。月曜日には、洗濯され、アイロンをかけられたハンカチが返ってきた。それきりだ。

今日も鈴川は女性恐怖症など微塵も感じさせない。クールに仕事をしている。しかしよく観察してみると、急に女性が近づいてきたり、意図せず接触してしまったりすると目が泳いでいることがわかった。不意打ちに弱いらしい。

「はい、これ。鈴川くんの分ね」

「ありがとうございます」

 個人名で届いた郵便物と、大使館や仲介業者から返却されたパスポートが束になって押し寄せる。開封する間もなく電話が鳴った。

「はい、Aツーリストでございます……お世話になります、鈴川です。ええ、はい、まだですね。八月に入らないと……通常はカレンダー通りですが……わかりました。またご連絡いたします。失礼いたします」

「あ、今終わりました。少々お待ちください。鈴川! 外線三番!」

「はい。お待たせいたしました。お世話になっております」

 稀に、鈴川がじっとこちらを見ていることがある。神田が気づくと、目をそらす。何か言いたいことがあるのかと聞くと、大概、ぼーっとしていたと言う。この仕事ぶりを見ていると、ぼーっとできるようには思えない。

『……じゃあ、諦めなくてもいいんだ』

 何を? とはあえて聞かなかった。

 極めて個人的な打ち明け話をされたが、特に親密になったわけではない。会話の頻度も変わらない。いつもの彼らしく、事務的で淡々としている。ただ、わずかに、口調がやわらかくなった気がする。褒めたとき、まんざらでもない顔をするようになった気がする。

 鈴川は受話器を肩に挟んだまま郵便物を開け、手早く仕分けた。電話を切り、書類を印刷し、クリップで留め、クリアファイルにまとめて鞄に入れる。

「外行ってきます」

 鞄をつかみ、足早に出ていく。周囲はパソコンの画面を見たまま、形式的にいってらっしゃいと送る。五分もしないうちに、鈴川の電話が鳴った。神田の向かいの社員が取る。

「鈴川、ですか。ちょっと今外出してまして、戻りが、えー」

 ホワイトボードが空白だ。神田が手を広げると、彼は頷いた。

「五時頃になるかと思います。戻りましたら、折り返しお電話いたしましょうか?」

 神田はホワイトボードに勝手に五時帰社と書き込んだ。

「かしこまりました。失礼します。……神田さん、最近鈴川にやさしくないですか?」

「私も思った! 仲いいですよね。昨日の会議も鈴川くん呼んで隣に座らせてたし、資料も二人で見てたし」

「あいつがいつまでも座ろうとしないからだよ。資料は、誰かが印刷部数を間違えたからじゃなかったっけ?」

「ひどーい。そういうの、パワハラっていうんですよ」

 斜め前の社員はマニキュアを塗った爪をきらきらさせながら笑った。

 本当は、放っておいたら鈴川は彼女の隣になりそうだったからだ。女性と一つの資料を覗きこむのは辛いだろう。

気遣いは必要だが、他の部下の目に贔屓と映ってはいけない。気をつけようと思った。

「ま、神田さんはいつでも誰にでもやさしいですけど」

「褒めても冬のボーナスの考課変わらないぞ。俺じゃなくて、鈴川の方がちょっと丸くなったから仲良く見えるんだろ」

「なんか変わりました? いつも通りだと思いますけど?」

「ここんとこ褒めても嫌そうな顔しなくなったんだよ」

「元々嫌そうな顔なんかしてないですよ。鈴川くん、神田さんに褒められるとすっごいうれしそう。お花飛んでます。私見えます」

 花? 彼女のコンタクトレンズは黒目が大きくなる以外の機能もあるのか?

「眉間にしわ寄せてるのに?」

「て、れ、か、く、し」

「しないだろ。考課も変わんないし」

「神田さんそればっかりっすね。こないだもらったじゃないですか」

「いくらでも欲しい」

 会話に参加していない社員もくすくす笑っている。雑談は自然に始まり、自然に終わる。鈴川がこういった話に入ってくることはない。もちろん笑うこともないし、花が飛んでいるところも見たことがない。

 嫌われてはいないと思うけれど、特別好かれているとも思えない。普通だろう。

フツー。曖昧で便利な言葉だ。

『……じゃあ、諦めなくていいんだ』

 きっと思い過ごしだ。自分とはまったく関係のないつぶやきだったのだろう。

(そうだよな。十六も年上の男に)

 どうなのだろう。あの反応を見る限り、女性を恋愛対象にはできなさそうだ。

では、男性は?

(だったら、なんだってんだ)

 神田は前年度の残業実績のデータを開いた。秋口に異様な数字が並んでいる。そう言えば某国でストライキがあり、フライトの変更に追われた。今年はないといい。

『……じゃあ、諦めなくていいんだ』

 そういうことはあまり考えたくないし、これまでもあまり考えてこなかった。だから今回も、神田は考えることをやめた。

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