第3話

 鈴川は三和土できちんと靴をそろえた。神田がスリッパを出すとぺこんと頭を下げる。

「そっち座って。辛かったら寝てていいから。麦茶飲む?」

「あの、お構いなく」

 神田は鞄をダイニングの椅子に置き、鈴川には居間のカウチを指した。

 居間、ダイニング、キッチンは一続きになっている。元妻の所望で、カウンターキッチンだ。今ではほとんど使われていない。大画面のテレビと、昼寝をしても身体が痛くならないカウチは離婚後に買った。木製の低いテーブルは以前からあったものだ。元々床にはラグが敷いてあったが、掃除が面倒だったので処分した。

床に散乱したマネー雑誌や新聞をまとめてマガジンラックに突っ込む。飲み残したコーヒーカップを流しへ。冷蔵庫からペットボトルの麦茶を出して、二つのグラスに注いだ。

鈴川はカウチの隅に所在なさそうに座っていた。

「上着脱いだら?」

 鈴川は素直に上着を脱いで膝に置いた。受け取った麦茶のグラスを両手で包み、同じように膝に置く。神田はカウチの反対側に腰を下ろした。

彼が何か話そうとしていることは察せられたが、促す言葉は出てこなかった。タバコ、と上着のポケットを探り、先ほど空になったことを思い出す。テレビをつけたい。何も考えずに笑えるバラエティ番組がいい。観たいかと言えば、そうではないけれど。

「俺、」

 不意に、昔つきあっていた女性のことを思い出した。別れ話を切り出す前に、彼女もこんな顔をしていた。

「俺、女の人ダメなんです」

 鈴川は首を絞められたみたいに真っ赤な顔をしていた。

「怖いんです」

 きれいな顔が歪む。今度こそ、本当に泣き出すのではないかと思った。

「十歳のとき、姉に呼ばれて……そのとき、姉は、中学生だったんですけど、突然、お、おなか殴れって……い、意味わかんなかったけど、姉ちゃん恐かったから、俺、言われたとおりにして……そしたら、いきなり、姉ちゃん苦しみ始めて、ち、血が、血がいっぱい……っ」

 白い指からグラスをそっと奪う。鈴川の手は寄る辺を求め、上着をぎゅっと握った。

「に、妊娠してて……それで、それから、」

 赤黒い血。

のたうつ姉。

救急車のサイレン。

半狂乱の母。

「それから、女の人も、血も、こ、怖く、て」

 合コンに行かないのも、妊婦を振り払ったのも、最初のタクシーに乗れなかったのも――思い返せばぽろぽろと、色々なことが腑に落ちる。T社の担当者は鈴川を恐がっていたようだが、彼女よりもずっと、鈴川の方が彼女を怖がっている。

美形なのにもったいないと思っていた。もっと笑えばいいのに、と。笑えないのだろう。怖くて、笑うどころではないのだろう。

「ほんとは、中根さんも、こわ、怖いんです。や、やさしいし、近くにいるから、だ、だいぶ慣れたし……いいかなって思ったけど、でも、お、おなか、大きくなって、それで……」

 神田は胸を突かれる思いだった。

「ごめん。飲み会、何も考えずに誘った」

「い、いいんです。誰にも言ってないから……か、神田さんが、たまにはいっしょにって言ってくれたの、うれしかったです。だから、いいんです」

「そう言ってもらえると楽だけど、俺が悪かったんだから、気ぃ遣わなくていいよ」

 無理をさせるつもりはなかったが、結果的にはそうなってしまった。挙句、フォローまでさせて、罪悪感が募る。

 鈴川は大きく息を吸って、吐いた。強張って貼りついた指を上着から引きはがす。一本ずつ、一本ずつ。

「姉は、安全日を試してみたんだそうです。興味本位で」

 妊娠がわかり、叱られると思って密かに堕ろそうとした。そして、弟にはトラウマが残った。

「誰も俺を責めませんでした。叱られたのは姉一人でした。流産のことも、大きくなってから調べて、安定期に入るまでは自然に起こることもあるって知りました。姉も、もしかしたらその内の一人だったのかもしれません」

 責められないだろう。まだ十歳だ。姉が妊娠していたことも知らなかったのだ。

「けど、俺が殺してないって確証はどこにもないんです」

殺した確証も殺していない確証もないから、周囲の大人は殺していないことにしたのだろう。自分がその場にいたら、同じようにしていたはずだ。

もともと駄目だったんだ。お前が殴っても殴らなくても姉ちゃんは流産してたんだ。お前が殴ったから子どもが流れたわけじゃないんだ――そう言うだろう。そうやって、鈴川を守ろうとしただろう。大人たちは皆そうしたはずだ。しかし結局、誰も彼を守れなかった。

公園で、流産なんかしないと、大丈夫だと言ったけれど、あれでよかったのだろうか。あのときは、ああ言うしかないと思った。今は、それが正解だとは思えない。本当は、なんと言ってやればよかったのだろう。

神田は沈黙した。同じチャンスが形を変えて巡ってきたのに、今も何を言えばいいのかわからない。

「すみません。変な話しました。誰にも言わないでもらえると、ありがたいです」

「言わないよ。俺も協力できるとこは協力するから。合コン断ったりとかさ」

 そう言うと、鈴川はかすかに笑った。ちょっとだけ目尻が下がって、ちょっとだけ口角が上がる。それだけで、驚くほど印象が違う。なんだろう。仔猫の腹の毛を撫でているような、この感じ。

しかし、それも束の間だった。桜が散るように笑みが消える。そこには、いつものクールな鈴川がいる。なんだか少し、残念な気がした。

「ところで腹減ったな。何か取ろうか。ピザか寿司のちらしならあったと思う」

「いえ、お暇します」

「食ってけよ。帰っても飯ないだろ?」

「でも、奥さんが」

「あれ? お前知らなかった?」

 そうか。離婚からの一連の騒動は、鈴川が入社する前のことだった。彼が営業部に異動になったのも三年前だ。当時は社内で知らない者はいなかったが、今ではもう誰も話題にしない。そもそも、鈴川がそういった話が出る場に居合わせることがない。

「独身? え、だって、指輪」

「これはね、話せば長い物語があるわけよ。聞く? 俺のモテ自慢。でも食いながらな。待ちの間でもいいけど、とにかく注文だけはしないと」

 ちらしは全部マガジンラックに入れている。上から考えなしに雑誌を入れたので、底でぐしゃぐしゃになってしまっていた。ピザと、寿司と、中華もある。蕎麦も発見。

「独身……」

「はは、そんなに驚いた?」

 使い古されたネタだが、まだ有効なところがあった。鈴川になら、社外の女性のことを話してもいいだろう。

 ハンバーグもあった気がしたが、どうやら捨ててしまったらしい。ちらしを重ね、脚の上でのばす。

「よし、どれでも好きなの頼」

「……じゃあ、諦めなくてもいいんだ」

 白い頬が、紅を差したようだった。

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