第2話

 翌週の金曜日、神田は少し早く家を出た。飲み会の日はいつもそうしている。公共交通機関は滅多に利用しないので、ICカードも持っていない。切符を買うのは面倒だが、自動車を置きに一時帰宅するのはもっと面倒だ。

 T社との打ち合わせは四時半からだった。新人担当者と彼女の上司、鈴川、神田の四人で契約更新の擦り合わせを行った。四人と言っても担当者はかしこまって座っているだけだし、鈴川も発言しない。要望を聞くだけ聞き、後日見積もりを送るということで話は終わった。

「今後ともよろしくお願いいたします」

「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」

 型通りの挨拶をしてT社を出る。気温が下がらず、じめじめとしている。昨日の雨が残っているようだ。外はまだ明るく、空は薄い水色をしていた。点々と散らばった雲が黄色っぽく光っている。

ずいぶん日が長くなった。ついこの間まで五時を過ぎれば真っ暗だったのに、早いものだ。

「電話でよかったですね」

 鈴川がぽつりと言った。確かに、見積もりはEメールで送る。先方の要望もメールか電話でもらえば、来社の必要はない。

「でも、顔合わせるのってそれだけじゃないだろ」

「はい、まあ、そうですね」

 こう言うときの鈴川は納得していないことが多いが、これ以上は説教じみてしまうので、神田は黙っていた。

 駅までは徒歩十分ほどだ。歩道が斜めになっていて歩きにくい。最近よく見かけるスポーティな自転車に追い越された。

「鈴川」

「はい」

 声をかけてみたが、適当な話題がない。つい先日、女優のKが二十歳下のアイドルと結婚したが、芸能ニュースに疎い鈴川に通じるはずはない。春先に人気のお笑い芸人が麻薬で逮捕されたことを知らなかった。

スポーツもいまいち。去年の忘年会で部長から野球の醍醐味について熱く語られていたが、反応が薄く部長をがっかりさせていた。駅まで歩く間に政治と経済について意見を交換するのもおかしな気がするし、社内の噂ははしたない。

「今週末何すんの? どっか出かけたりする?」

「いえ、多分寝てます」

 鈴川は無趣味らしい。それを聞いた個人旅行グループのマネージャーがゴルフ仲間にしようと画策していたが、この様子では失敗したようだ。

「神田さんは?」

「ん?」

「神田さんは、今度の休みの日、何するんですか?」

「俺? うーん、アイロンかけたりとか、掃除したりとか、いつも通りだな」

 結婚していたときは、テレビを観ながらごろごろしていた。絵に描いたような休日のお父さんだった。洗濯も掃除も、やってみると案外手間がかかるものだとわかった。それを、毎日――離婚してから、神田は専業主婦を馬鹿にするのをやめた。

「相変わらず、家庭的ですね」

 辞書を引いたような感想だ。しかも表情が変わらない。そこでちょっと笑えば、だいぶ印象が違うだろう。せっかくきれいな顔をしているのに、もったいない。

「鈴川も練習しとけよ。最近は家事ができる男の方がモテるらしいぞ」

「そうですか」

「あ、俺先に行って切符買うわ。ゆっくり来て」

 駅が見えたので、神田は小走りに券売機へ向かった。鈴川は電車通勤なので、定期券兼用のICカードを持っている。見慣れない路線図では、会場のある駅を探すのも一苦労だ。切符と小銭をいっしょにポケットへ詰め込むと、近くで鈴川が待っていた。

「ごめんごめん」

「いえ、ちょうど来そうです」

 ホームはそれほどでもなかったが、止まった電車は混みあっていた。ドアの傍から動けない。冷房が効いていて涼しいが、空気はよどんでいる。

近くの若い女性が背を丸めていた。鞄には、「おなかに赤ちゃんがいます」のキーホルダーがついている。小学生くらいの女児が授業参観で音読するような表情で手すりにつかまっている。神田は同じ手すりの上の方を持った。電車が揺れるたびにふらりとする。平然と立っている鈴川を見ると、老いを感じて悲しくなった。

 ビルの屋上広告やネオンサインが必死に何かを訴えている。車窓はまばたきする間に流れ去り、一つずつの情報をキャッチできない。筋骨たくましい男性が顎にシェービングクリームを塗りたくり、カメラ目線で新発売のカミソリを使っている。どうしてカミソリのコマーシャルは皆半裸なのだろう。男に脱がれても何も楽しくない。

 高校生の一団が乗ってきて車内はにぎやかになった。

「ねえ、あなた大丈夫?」

 鈴川の向こうを見ると、年配の女性が妊婦に声をかけている。彼女は今にもしゃがみこんでしまいそうだ。顔色が悪く、苦しそうにしている。頷いたが、大丈夫そうには思えない。

『この先、電車が揺れます。ご注意ください』

 独特のイントネーションで車内放送がかかった途端、電車が大きく揺れた。立っていた乗客たちがよろめく。声をかけた女性もたたらを踏み、女児は全身で手すりにしがみついた。

 妊婦が鈴川の方へ倒れ込む。

「――ッ!」

鈴川は引きつった声を上げ、彼女を振り払った。妊婦は驚いた顔をしたし、周囲の乗客も目を見開いていた。車中が宇宙のように静かになる。

腹を押さえ、妊婦がうずくまった。

「ちょっと! アンタなんてこと」

 咎める声は急速に勢いを失う。

鈴川はドアにもたれて胸を押さえていた。呼吸が浅く、異様に速い。膝が震えている。このまま崩れ落ちてしまいそうだ。

『次は……次は……』

 アナウンスが入り、電車が減速を始めた。

「降ります! 通して!」

 神田は妊婦を支えて立たせ、鈴川の腕をつかんだ。高校生たちが一旦降りて道を開けてくれる。ぐにゃぐにゃの鈴川と妊婦をベンチへ座らせ、改札へ走る。訳を話すと、中年の駅員がドタドタとついてきた。

「お客さん、しっかりね。今楽にできるところ準備してるから。若いのがすぐ車椅子持ってくるから。タクシー呼ぶ?」

 彼女はいくらか血色が戻りつつあった。受け答えもしっかりしている。

「そちらさんは? ビニル袋いります?」

 鈴川は紙のように白い顔をしていた。駅員に声をかけられても答えられない。上体を屈め、肩を抱いている。

「鈴川」

 丸まった背に触れると、水をかけられた猫のようにびくりとした。焦点の定まらない視線が神田の上をさまよう。駅員の言葉をくり返すと、鈴川は首を振った。

「いらないみたいです」

「え、ホント?」

「立てるか? 外行こう」

 驚かさないよう、耳元でゆっくりと話す。鈴川は頷いた。覚束ないながら立ち上がる。

「ホントにいい?」

 神田は心配そうな駅員に会釈をした。ホームの人々が何事をかとこちらを見ている。

「あの、」

 唇がふっくらとした愛らしい女性だった。

「ありがとうございます」

「お大事に」

 神田は微笑んだ。エレベーターを待っていると、車椅子を押した駅員が降りてくる。彼は鈴川を見て一瞬迷ったようだが、中年の駅員に大声で呼ばれて駆けていった。

 神田は鈴川を近くの緑地公園へつれていった。小さな公園だが噴水があり、遊歩道が通っている。芝生と植木の配置がいかにも人工的だ。緑が濃すぎて、作り物に見える。噴水はプログラム通りに水を噴き上げていた。ぜんまい仕掛けのランナーが噴水を回り、来た道を戻っていく。

洒落たデザインの街灯の下に洒落たデザインのベンチがあった。まずは鈴川を座らせ、自動販売機でスポーツドリンクと微糖のコーヒーを買う。

「どっちがいい?」

 両方を差し出すと、鈴川はスポーツドリンクを選んだ。鈴川がペットボトルに口をつけるのを見届けて、神田は電話をかけた。幹事の携帯電話は一度留守番サービスになったが、すぐに折り返しがあった。

「田中君? お疲れ様です。神田です。ごめん、俺と鈴川行けなくなっちゃった」

「神田さん」

 鈴川が上着を引っぱる。

「ん? うん、ちょっとね。精算月曜でいい? うん、うん……あー、中根さんには謝っといて。え、山崎さん? やっぱり? そっちもよろしく。ごめんって。頼むよ。名幹事だろ?」

 身振りで待てと伝える。

「うん、ありがとう。迷惑かけて申し訳ないです。うん、それじゃ失礼します」

「神田さん」

「何? 吐きそう?」

「飲み会、行かないんですか?」

「そんな調子じゃ行けないだろ?」

 顔色は多少よくなったようだが、酒の席には耐えられないだろう。

「でも、神田さんは」

「ああ、俺? いいよ。お前置いてくの心配だし、途中から入るとみんな一斉にこっち見るだろ? あれ苦手なんだ」

「すみません」

「しょうがないよ。誰だって気持ち悪くなることはある。酔った?」

「……ええ、まあ」

 鈴川の返事は煮え切らなかった。乗り物酔いではないだろう。毎日のことで、電車には慣れているはずだ。途中まではしっかりと立っていた。何かきっかけがあったはずだが、神田はあえて聞かなかった。

沈黙は苦手だ。手が上着のポケットに伸びる。

「鈴川」

「はい」

「吸っていい?」

「はい、どうぞ」

神田はタバコに火を点けた。空になった箱を潰してゴミ箱に放り込み、鈴川から顔を背けて煙を吐く。とりあえずこれで口が塞がった。

「あの人、大丈夫でしょうか」

「ん? さっきの妊婦? 大丈夫だと思うよ。最後の方、お前より顔色よかったし、お礼の声もはっきりしてた」

「俺、あの人のこと振り払って」

 ペットボトルを持つ手が震えている。鈴川はどんどん前屈みになって、四つに折りたたまれてしまいそうだ。

「か、会社にクレームとか来たら」

「来ないよ。名乗ってないし、俺もお前も社章つけてないだろ」

「流産、とか、したら」

「しないよ」

 確証などない。それほど腹が大きくなかったから、当然胎児は小さいだろう。もしかしたらショックで流れるかもしれない。

「しない。大丈夫」

 けれど、そう言うしかない。鈴川の背を撫で、神田はプルトップを上げた。

鈴川は無愛想だ。笑わないし、つきあいも悪い。けれど、礼儀正しい。子どもや老人や、まして妊婦に無体を働くような人間ではない。恐らく、突然のことで驚いてしまったのだろう。

 神田はちびちびと缶コーヒーを飲んだ。体温が移ってあっという間に温くなる。空は薄っすらとオレンジ色になりかけていた。雲にピンク色の陰影がつき、ファンタジックな様相だ。ビルの西壁が金色に光っている。少し、風が出てきていた。

杖をついた初老の男性がやってきて、先ほどのランナーと同じく噴水を回って戻っていった。つれていたポメラニアンは主人の足に合わせ、進んでは止まり、止まっては進んだ。黒く大きな目が、興味深そうにこちらを見ていた。

神田がコーヒーを飲み干して立ち上がると、鈴川は半分ほどになったペットボトルを鞄にしまった。帰宅ラッシュにぶつかったらしく、ガムでまだらになった通りにはビジネスマンの姿が増えている。もう一度電車に乗る気にはなれなかったので、交差点でタクシーを止めた。

「料金は折半な」

 冗談のつもりだったが、鈴川は真面目な顔で頷いた。その顔が、また引きつる。

「どちらまで?」

ふくよかな女性ドライバーが振り返る。

「俺、いいです。電車で帰ります」

 鈴川は早口に言って神田とタクシーに背を向けた。

「え? おい、鈴川! ごめんなさい。また今度乗せてください」

 ぽかんとしたドライバーに愛想笑いをして、よろよろと歩く鈴川をつかまえた。唇が紫色だ。しゃくり上げるように息をしている。

「きれいじゃないけど」

 ハンカチを握らせ、鼻と口に当てさせた。過呼吸になったら始末が悪い。鈴川は泣きそうな顔をしていた。さっきの公園でもう少し休むことも考えたが、もっとゆっくりできるところへ連れていった方がいい。

「無理なら途中で降りればいいから、とりあえず乗ろう」

 鈴川は痙攣するように頷いた。次に来たタクシーはごま塩頭の男性ドライバーだった。鈴川はぐったりとシートにもたれ、窓の方を向いている。ドライバーは不安そうにルームミラーでその様子を見ていたが、神田が自宅近くを告げるとそろりと発車した。

 街灯やヘッドライトが流れていく。タクシーは繁華街を抜けようとしていた。信号で止まると、談笑するスーツの一団が前を横切った。仕事帰りなのだろう。これから飲みに行くのかもしれない。中根には悪いことをした。他の女性社員も鈴川が行くのを楽しみにしていたはずだ。

(……けどなあ)

 鈴川は目を閉じていた。投げ出された手は神田のハンカチを握っている。こんな状態の鈴川をつれてはいけない。

死ぬほど飲み会に行きたくなくて、精神的に参ってしまったのだろうか。いや、それほど嫌なら忘年会にも来ないだろう。残業は何時間しても何日続いてもけろりとしているし、ストレス耐性はある方だと思う。元々風邪気味だったのかもしれない。

「そこ、左で」

 タクシーは住宅街に入っていった。この辺りは道が細く、自然とスピードが落ちる。

「鈴川」

「はい」

「起きてんならいい。もうすぐ着くからな」

家の手前の四つ角で止めてもらった。財布を出すと鈴川に止められる。

「まとめて払っておきます。今日はすみませんでした」

「何言ってんだ。お前も降りるんだよ」

「え?」

「えじゃなくて。レシートいいです。ほら、早く」

 呆然としている鈴川をタクシーから追い出す。いくらタクシーが家まで運んでくれるとはいえ、いつどこで倒れるかもしれない人間を放っておくわけにはいかない。自宅まで送り届ければいいのだけれど、そんなことをしたら鈴川はもちろん両親にも恐縮されてしまう。それは本意ではない。

「そういうわけだから、上がってきなさい。散らかってるけどさ。とりあえず休んで落ち着いて、それから帰る。いい? その方が、俺も安心だから」

「……わかりました。お邪魔します」

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