あの日はいつか今度こそ
タウタ
第1話
「どうですか? うちの鈴川は」
預かった書類をまとめて鞄にしまい、神田明彦は向かいに座った女性に話を振った。
「はい、あの、いつもとてもよくしていただいています」
型にはめたような回答は、いっそ微笑ましい。彼女は四月からの新しい担当者だ。二十代半ばだろう。初めて会ったが、産まれたての小鹿のような印象を受けた。
午前十一時四十七分。T社は自動車で片道三十分程度のところにある。昼休み前の用談スペースは慌ただしい。来社した側もされた側もそそくさと話を切り上げていく。
神田はAツーリストという旅行社の営業部に勤めている。肩書は法人営業グループのマネージャーだが、名ばかり管理職だ。権限は狭く、実務は多く、叱責は受けるが残業代は出ない。
普段はオフィスにこもっているが、今日は内勤の部下が一人病欠しているため、人が足りずに駆り出された。本来、T社の担当は部下の鈴川英斗(すずかわひでと)だ。彼は今、オフィスで病欠の社員の業務を代行している。
神田のグループでは、契約先の社員が海外出張に行く際の、飛行機の手配とビザの手続きを行っている。ビザとは、端的に言えば許可証だ。ある国への入国や、そこでの就労を許可する。日本人はビザなしで滞在できる国が多いので一般的に縁が薄い。
「私ミスが多くて、鈴川さんにはいつもご迷惑をおかけしていて申し訳ないです」
「いえいえ、お気になさらず。こき使ってやってください」
「覚えようとはしているんですけど、同じことを何回もお聞きすることもあって、本当にご迷惑をおかけしていて」
女性はもじもじと小さくなる。どうやら、鈴川のことが苦手らしい。理由は大体想像がつく。鈴川が笑わないからだろう。口調も淡々としていて冷たい印象を受けることがある。営業職は愛想がいい人物が多いので、彼女が戸惑う気持ちはよくわかる。
(やっぱり顔がいいだけじゃダメか)
鈴川はファッション雑誌に載っていてもおかしくないような美形で、軒並み女性には受けがいい。ここに来る前に某国大使館へ書類を提出してきた。窓口の女性はつやつやと浅黒い肌をしており、片言の日本語で今日はスズカワじゃないのかと言った。次は鈴川が来ると言ったら、にこにこしながら手続きをしてくれた。
もっと笑えばいいのに、と神田は常々思っている。せっかくの美形がもったいない。
「あれは別に怒ってるわけじゃないんですよ。無愛想ですみません」
「いえ、私が悪いんです。もっと気をつけます」
「とりあえず噛みついたりはしませんので、これからもよろしくお願いいたします」
にっこりと微笑むと、彼女はほっと表情を和らげた。笑顔は得意だ。入社から二十年以上営業畑にいることも一因だが、若い頃からの癖でもある。
神田は眉が太く、彫りが深い。よく口が大きいと言われる。これで釣り目だったら相当凶悪な人相になるところだったが、幸いにも祖母に似ておっとりとした垂れ目に生まれた。それでも、柔和な面貌とは言い難い。
加えて一八二センチ、七五キロという体格だ。仏頂面をしていては、相手に威圧感ばかり与えてしまう。そういうわけで、笑顔でいれば様々なことが円滑に進むということを若い内に学んだ。
時計が正午になる前に、神田は席を立った。外へ出ると六月の日差しが飛びかかってくる。眼球の奥がギョリ、と妙な音を立てた。天気予報によれば、今日も夏日だ。自動車のシートが熱い。安物の人工皮革は溶けてしまいそうなほどやわらかくなっていた。
うるさいくらいにエアコンをかけたが、車内が涼しくなるまでに会社に戻ってきてしまった。足早にエントランスへ入り、涼しい空気で肺を満たした。古いエレベーターは動き出す前に必ず一度揺れる。
五階と六階がAツーリストのオフィスだ。営業部は五階にある。エレベーターを囲むようにコの字型の廊下があり、一方の先にはトイレと給湯室、もう一方には喫煙室がある。
複数のテナントを入れる目的で造られたらしく、フロアは壁で二つに区切られている。オフィスへの入り口は、どちらもエレベーターの正面だ。面倒だからぶち抜いてしまえという案もあったそうだが、ビル側と折り合いがつかなかったらしい。
社名と部署名が入ったガラス戸を押し開けると、さらに涼しい。
「戻りました」
ちらほらと、おかえりなさいが聞こえる。昼休みが交代制のため、半分ほどの社員がいなかった。ホワイトボードの行き先を消し、上着を椅子の背にかける。出かけるときにはなかった書類が置いてあった。
左隣の鈴川の席は空だ。
「神田さん」
弾んだ声に振り返ると、中根が立っていた。双子が入った腹の分だけ遠い。妊婦だっておしゃれしたい! を合言葉に、今日もひらひらとしたワンピースを着ている。
「ちょっと、お話いいですか?」
「何?」
「ちょっと。ちょっとだけ」
手招きされるままオフィスを出て、給湯室に連れていかれた。中根はさっと廊下を見回し、声を潜めた。
「来週の飲み会、鈴川くん呼んでください」
飲み会とは、中根の歓送会のことだ。来月から産休に入るため、部での飲み会が企画されている。出欠はとうに取っているが、中根曰く今日までなら間に合うらしい。
鈴川は忘年会にしか来ない。酒の席が好きではないようで、今回も欠席と聞いている。飲みニケーションが遺物になった世代、とは部長の言だ。
「なんで俺に言うの? 本人に言いなよ」
「だってぇ、今まで私が誘って来てくれたこと一回もないですもん」
「全部合コンだからでしょ」
二十九歳。独身。彼女なし。恋愛にも興味なし。草食系の見本、とは部長の言だ。
「絶対モテるのに、何が嫌なんだろ」
「中根さんがいじめるから」
「いじめてませんよ! かわいい後輩いじめるわけないじゃないですか。それに、合コン来てくれないのは神田さんもいっしょですよね」
「俺みたいなおっさんと誰が合コンしたいって言うの。もう四十五だよ?」
「渋メン好きだっています。実際、神田さんモテるじゃないですか。話し上手だし、笑顔も素敵だし」
褒められれば悪い気はしないが、それが合コンへの勧誘となれば素直に喜べない。神田は苦笑しながら左手の指輪に触った。
妻とは八年前に離婚した。ある日家に帰ったら、まるでテレビドラマのように食卓に離婚届が置かれていた。就職し、結婚し、マイホームを持ち、子どもはなかったが文部科学省が推奨するような人生を歩んできた。驚かなかったと言えば嘘になるが、別の男がいることは薄々感づいていた。専業主婦だった妻にはさしたる貯金もなく、相手の男からわずかの示談金を受け取った。
ところが、話はこれで終わらなかった。一息ついて指輪を外した途端、社内の女性二人から猛烈なアプローチが始まった。のらりくらりとかわしている内に彼女たちはお互いの存在に気づき、神田を挟んで対立構造ができあがってしまった。どちらとも何もしていないのに、同僚からは白い目で見られるし、上司には忠告を受けるし、散々な目に遭った。
実は社外にも一人、同様の女性がいたとは言えない。以来、神田は護身のために無用の指輪をつけ続けている。
「育児一段落したらまたセッティングしますから、今度こそ来てくださいね」
「まあ、機会があったら」
「大丈夫! 機会は私が作ります!」
何が大丈夫なのだろう。
「それはそれとして、鈴川くんのことお願いします」
「合コンじゃないのに?」
「やっぱイケメンがいるとお酒がおいしいじゃないですか」
「妊婦は飲めないでしょ。それに、俺が誘ったって来るかどうかわからないよ」
「絶対来ます。鈴川くん、神田さんのこと大好きだもん」
その自信はどこから来るのだろう。結局、駄目でもいいからと押しつけられてしまった。きっと中根の一存ではなく、他の女性社員の意向も含まれているのだろう。お局様の山崎あたりから指令が出ているのかもしれない。
オフィスに戻ると、中根は早速近くの女性社員に耳打ちをした。そんなにきらきらした眼差しを送られても、成功するかどうかわからない。背後から異様なプレッシャーを受けつつ席に着く。
「おかえりなさい」
鈴川の声は高すぎず低すぎず、聞きやすい。
「フィリピンが大雨で何便か欠航してます。まだ一本も連絡来てませんけど、多分振り替えが出ます」
「もう台風の季節か」
「T社の受け取りありがとうございます。もらいます」
「うん、これな。書類の内容はざっと見ただけだけど、よさそう」
預かってきた書類一式をわたすと、鈴川はパスポートを金庫に保管し、顧客情報をデータベースに入力し始めた。神田は新しく机に増えていた書類に目を通し、ちらちらと鈴川の様子をうかがいながら会話の糸口を探った。
くり返すが、鈴川は美形だ。きれいなアーモンド形の目をしていて、まつ毛が長い。鼻筋が通っている。唇は薄い。一つ一つのパーツがどうと言うより、バランスがいいのだと思う。整った顔をしている。
身長は神田より十センチばかり低い。体重はもっと違うだろう。色白で線が細く、ひ弱に見えるが、女性にはこういう容姿が受けるらしい。横を刈り上げてトップをふわっとさせた髪形は若者の間で流行っているのだろうか。
シンプルな銀フレームの眼鏡をかけている。ネクタイの趣味がよく、カラーシャツもさらりと着こなす。
「鈴川」
「はい」
「次の会議資料なんだけど」
「まずかったですか?」
「ここの表、グラフにして。あとはOK」
「すぐやります」
書類の提出は早ければ早い方がいい。ダメ出しをするにも修正をするにも時間がかかる。その点、鈴川は優秀だ。ホウレンソウもきちんとできる。ソウが少し多い気はするが、こちらの緩急をよく計っている。
「鈴川」
「はい」
「変な依頼来ちゃった。この日程無理だろ。なんで俺にメールするかな。担当外れたのに」
鈴川は上半身を傾けて神田のパソコンを覗いた。
「きついですね。とにかく明日M証券の後行きます。でもそのまま申請はできないです。それ転送してください」
「いいよ、俺から返事する。明日の時間と返却予定日だけ教えて」
「最悪、Cトラベルに回します」
「向こうがどうしてもって言うならね。とりあえずCさんにリミットだけ確認しといて」
もう受話器を取っている。先延ばしはしないし、代替案も卒なく出せる。これは経験によるところが大きいが、センスも必要だ。
鈴川が電話をかけている間に、神田は各社への請求書一覧を確認した。ドイツ、ロシア、南アフリカ――行ったこともない国の名前が並んでいる。製造業の会社は東南アジア方面が多い。承認印を押し、部長へ回して戻ってくると、鈴川が訪問時間、返却予定日、Cトラベル社の締め切り時間が書かれたメモを差し出す。
「鈴川」
「はい」
本当によくできる。きっと出世するだろう。鈴川以降、法人営業グループには人が来ていないが、もし新入社員が入ったら世話を任せたい。将来管理職になったときに役に立つだろう。
「いや、いいわ。サンキュ」
褒めたかったが、引っこめることにした。鈴川は正面から褒めると何故か険しい顔をする。眉間の皺が深くなり、唇を一文字に結んでしまう。この程度で、と思うのかもしれない。実際、彼には「この程度」だろう。
先方に返信し、未読になっているメールを片端から開いた。
「鈴川」
「はい」
「中根さんの飲み会来ない?」
「は?」
鈴川は怪訝そうに眉を寄せた。飲み会に誘われてその顔はないだろう。中根の席が離れていてよかった。
「出欠の返事、もう出しました」
「知ってる。でも、今日までなら間に合うんだって」
「俺、そういうのあんまり」
「知ってる。でも、しばらく会えなくなるしさ」
知ったことじゃない。どうでもいい。行かないって言ってるのに――そういう思い全部に蓋をしたような表情だ。つまり、極度のポーカーフェイス。本当に嫌なのだろう。なんだかひどいことをしている気がしてきた。
「中根さんからですか?」
その通りなのだが、そうとは言えない。
「いや、お前忘年会しか来ないから、たまにはいっしょに飲みたいと思って」
口から出まかせだったが、まったくの嘘ではない。鈴川は明確に困った顔をした。当然だ。ただの先輩からではなく、直属の上司から指名されているのだ。これもパワハラだろうか。失敗したと思ったが、遅かった。鈴川は黙ってスケジュール帳をめくり始めた。
「他の約束があるなら断れよ?」
今更そんなことを言っても空しい。
「いっしょにT社に行く日ですよね?」
「うん、その日。鈴川、どうしてもじゃないから」
「行きます」
「え? 行く?」
てっきり断られると思っていた。いずれにせよ、乗り気ではないらしい。鈴川はこちらを見ない。スケジュール帳をにらみつけている。
「幹事、田中さんですよね? お願いにいってきます」
「なんか、ごめんな」
「いえ」
鈴川はすっと立ち上がり、幹事のところへ向かった。中根がそれを見送り、神田に向けてVサインとともに小首を傾げてみせた。Vサインを返すと、中根はそのまま高々と手を上げる。数人の女性社員が力強く親指を立てた。
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