第10話 空と海の距離
周りの学生たちも、ただ固まって見ている。高瀬さんも女の子を見上げたまま一言も発しない。その髪からはカップの中に入っていた液体が滴っている。
「ふんっ」
女の子…いやもうそんな可愛い呼び方はできない。その女は高瀬さんを見下ろすと、そのまま去って行った。
本当は十秒もなかったかもしれないが、しばらくその場が固まっていた。
その後、固まって見ていた学生たちがざわつき始めた。みんな見て見ぬふりで、高瀬さんに近づかない。
俺は我に返り、高瀬さんに駆け寄る。
「高瀬さん!」
高瀬さんが顔を上げた。
「あ…宙くん?」
「大丈夫ですか?」
「あ、うん。そうだね。大丈夫…じゃないかも。」
何とか口角が上がったが、困っているというか悲しいというか複雑な顔だ。
「ちょっと洗ってこようかな。カップの中身コーヒーみたいだったし…。」
コーヒー?
あまり香りはしなかった。きっと自動販売機か何かの適当なインスタントなのだろう。
そんなことよりも、人の頭にコーヒーをかけるなんてよっぽどの状況でないと思いつきもしない。
いったい高瀬さんと女の間に何があったのか。
そのまま高瀬さんが立ち上がろうとしたので、俺は羽織っていたサマーカーディガンを高瀬さんの方にかけた。高瀬さんは不思議そうにこちらを向いた。
「…あの。シャツ白いからそのまま出ると目立ちますよ。」
「…ふふ。やっぱり君は面白いね。」
そう言って微笑んだ。いつもの高瀬さんの笑顔。二人の時に見せてくれる感情のある顔。
「ありがとう。」
「いえ、俺もこの前お世話になったし、どちらかというと俺の方が迷惑かけたし。」
「ふふっ。でも、ありがとう。」
「いえ。」
俺は高瀬さんについて教室を出た。
トイレの水道で軽くシャツを洗い、手洗い場が小さかったので髪は洗えなかったが濡らしたタオルで軽く拭いた。
「部室に行けばシンクがあるんだけど…」
「部室までは少し遠いから、ここで少しでも汚れを落とした方がいいでしょ。」
そう言って俺は再びすすいだタオルを高瀬さんに渡す。
「ありがとう。」
高瀬さんはインナーの襟が濡れないように避けながら、首まわりと顔を拭いた。一通り応急処置が終わり、俺は部分的に水洗いしたシャツを高瀬さんに渡す。
「これ、部室に干してから授業に行くね。ありがとう。助かったよ。」
俺は、そのままシャツの中に着ていた、薄い半袖のインナーのままトイレを出ていこうとする彼を呼び止めた。
「ちょっと高瀬さん、待ってください。そのままじゃ薄着すぎるから、これを着てください。」
俺はさっきのサマーカーディガンを差し出す。
「え、いいよ。宙くんが着て来たんでしょ。」
「俺は普通にTシャツ着てるし、高瀬さんが着てください。」
「…ほんとにいいの?…じゃあ借りるね。ほんとにありがとう。」
カーディガンを受け取って、高瀬さんはトイレから出ていった。
本当は聞きたかった。高瀬さんと女の間に何があったのか…。でも俺が聞いてもいいんだろうか―
俺も授業に行かなくては、そう思いだして教室に向かう。
それにしてもあの女は何だったのか。頭の中はぐるぐるしている。
俺は外の木に張り付いた蝉の声が響き渡る廊下を急いだ。
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