Iの契約「一条探偵事務所の謎」


 五織は琴葉の指示通り一条探偵事務所の隣にあるカフェ『コンクリート』で琴葉が呼びに来るのを待っていた。

 コンクリートは老年のマスターと男女二人の従業員によって営まれており、小さいながらも一条探偵事務所の隣に置いておくには勿体ないくらいにお洒落な外観をもち、それに釣り合う内装が施されていた。

 店の名前の由来はおそらく「具体的な」とか「現実の」という意味のコンクリートだと思われる。

 平日の昼間ならこの辺りの職場のOLが殺到しててんてこ舞いになるであろう従業員たちも祝日の今日は暇を持て余している。

 そんな従業員の一人につい先刻注文したホットコーヒーはもう三杯目。思ったよりも長く待たされることになっていた。


「はぁ〜っ、なんだか先が思いやられるわね」


 先ほどの枝野、一条兄妹のやり取りを脳内で再生しながら五織は嘆息した。

 果たして自分はあの酔っ払いの兄貴を師匠にしても大丈夫なのだろうか?そんな不安が彼女の心中の八割を占めていたからだ。

(あとの二割は見間違いと思いたい琴葉の言動への恐怖心)

 いや、しかし彼は魔女をも認める凄腕の魔術師のはず。きっとあれは世を忍ぶ仮の姿で……


 と、五織が脳内論議を繰り広げていると男性の方の従業員が五織に話しかけて来た。


「お客さん、もしかして隣の一条探偵事務所でバイトしようと思ってるの?」


 五織はこのナンパ紛いの行為を無視しようとも考えた。しかし、ここは五織が事前に調べてもそのホームページすら見当たらなかった一条探偵事務所の姿を知る好機と捉えることにした。


「ええ、そうよ。知人に紹介してもらったの。腕の良い探偵事務所だってね」


「おいおいそれマジで言ってんのか? お客さんそれ揶揄からかわれてるんじゃないの?」


「一体どういうことよ?」


 男性従業員は五織の前に隣の空席から椅子を持ってくると後ろ向きにまたがるようにして座り語り始めた。


「あの探偵事務所、いまどきホームページもないから事件依頼やアポイントメントは全部電話か手紙じゃないと通じないって話だし。おまけに愛人調査や素行調査、ペットの捜索なんかの他の探偵事務所でも扱っている業務は行わないらしいぜ」


「へえ、それはまた随分と気取っているわね」


 暇なのか本気で五織を狙いに来ているのか、男は五織が話に食いついていると見ると更に話しを続ける。


「そうなんだよ。そのくせあの探偵事務所はウチのマスターがここに店出す前からずっとやっているらしいんだ。ご近所じゃ一つの都市伝説になっているくらいだぜ。『一条探偵事務所は一体どこからその営業資金を調達しているのか』ってな」


「……魔術師としての稼ぎが相当あるってことか……」


 五織の独り言を彼は聴き漏らさなかった。


「魔術師? お客さん面白いこと言うね。まあ確かにそんな噂が流れたこともあるみたいだけど。『一条探偵事務所は魔術師の家系で構成されている』とかね。まあ流石にこれはそこらの小学生が流したデマだろうよ」


 カカッ、と鋭く尖る八重歯を見せながら従業員が笑う。


「まあでも、受けた依頼の成功率は百パーセントらしいから代々凄腕の探偵なのは確かなんだろうけどなぁ」


 魔術師はないぜと、従業員は呆れたように繰り返す。


 そんな浅はかな反応に男性従業員興味を失った五織が入り口の戸に目を遣ると、ガラス張りのそれは爽やかな鈴の音を立てて開き、そこから枝野琴葉が顔を覗かせた。


「龍一さん、ウチの貴重な働き手をたぶらかさないで下さい」


「ゲッ、枝野琴葉……間が悪いぜ」


 龍一さんと呼ばれた従業員は最後に五織にピエロのように大仰にお辞儀して見せるとそそくさと店の奥に消えていった。


「枝野さん、その…………そちらの方は片付いたのね?」


「ええ、もうすっかり。お待たせしましたね、さあ戻りましょう。今日からウチが貴女の職場ですよ」




 琴葉に促されるまま一条探偵事務所に戻ってくると、さっきまで雑然としていた事務所の応接間は一変して誰を迎えても恥ずかしくない立派なものに様変わりしていた。

 コーヒー三杯の間にこれだけの片付けをやってのけたのだとしたら枝野琴葉は想像以上のお掃除上手だ。


 そして、五織が一番驚いたのがその応接間の最奥に鎮座している一条永嗣の変貌ぶりだ。先ほどまで着用していたヨレたワイシャツは糊付きの真新しいものに着替えられ、シャワー浴びた後の彼の醤油を焦がしたような色の髪からは鼻をつまみたくなるような酒臭さではなく清潔感が漂っていた。


「枝野さん……あんたお兄さん二人いたりしないわよね」


「……まさか、私の兄は一条永嗣ただ一人ですよ」


 何故か彼女の反応には数秒のラグがあったような気がするが、五織がそれを指摘する前に琴葉が場を仕切りはじめる。


「さあ、改めまして。こちらが当探偵事務所の所長であり、私の実の兄でもある一条永嗣です」


 そう紹介されると永嗣は年季の入ってところどころ擦り切れた茶色い革張りの椅子からスッと立ち上がる。先ほどは地べたに倒れていたので五織は気がつかなかったが、永嗣は長身痩躯の典型例とも言える身体つきをしていた。

 そのままランウェイを歩くモデルのように軽やかに五織の顔前まで歩み出ると、今し方異国語にも聞こえる咆哮を上げていたのと同じ声帯から出ているとは思えない清澄な美声で挨拶を始める。


「初めまして。ご紹介に預かった通りわたくしがこの探偵事務所の所長だ。もし分からないことがあったら何でも訊きなさい」


 台詞までがもう先刻の酔っ払いのイメージを払拭できるほどに完璧だった。


 こんなにも完璧な人間が師匠になるのならば、五織は運命というものを信じたやもしれない。


 そう、五織の背後で琴葉がカンペ出しさえしていなければ。



(兄さん、次の台詞は『さあ、お手をどうぞレディ』よ。自然な感じで楢崎さんの手を握ってエスコートするのも忘れないでね)


(おうともさ。お前の用意してくれたプランだ、是が非でも完璧にこなして見せるぜ妹よ)


「『妹よ』じゃないわよ!何してんのあんたたち?」


「何してるって、そりゃ初対面なんだから挨拶に決まってるだろう。なあ、妹よ」


 あいも変わらず澄ました表情で五織の問いに答えつつ、永嗣は琴葉にアイコンタクトを送る。


(作戦βに移行、即座に証拠隠滅だ)


(ラジャー)


 しかとメッセージを受け取ると、琴葉は手に持っていたスケッチブックと黒マジックを書棚の下に素早く滑り込ませながら、さも何事もなかったかのように振る舞い続ける。


「そうですね兄さん。でも楢崎さんも初出勤で少し緊張しているのでしょうから大目に見てやって下さいな」


「いや、今スケッチブック隠したの見てたからな」


 五織の指摘に「チッ」と舌打ちをすると書棚の下から指示道具を回収してきて


「兄さん申し訳ありません。私が不出来なばかりにせっかくの演出を台無しにしてしまいました」


「おい枝野さん、てか枝野。今演出とか言いあがったわね」


 五織のツッコミなど無視して二人の世界は尚も続く。


「いいんだ妹よ。そもそもこんなダメを具現化したような兄を救うために策を弄してくれたというのに……俺が気を引ききれなかったばかりに辛い思いをさせたなぁ」


「兄さん」


「妹よ」


「あーもう付き合ってられないわ」


 自らの眼下で感動で涙にむせび、抱き合う兄妹を俯瞰しながら五織は頭を抱えた。

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