Iの契約「兄を起こそう」


 五織がある程度落ち着くと、琴葉は次の行動に出た。無論、兄を起こすのだろうが……


「ちょっと待ってて」


 と、琴葉が執務机のすぐ右手にあった階段から二階に上がりバケツいっぱいの水を汲んで降りてきたのを見て五織は


「あー、枝野さんは才色兼備でもあるけど文武両道でもあったわね」


 と思わず漏らした。

 彼女は剣道四段、柔道六段、弓道五段の全距離対応可能な超武闘派でもあるのだ。


 そんな琴葉はどこから持ってきたのか知れない漏斗ろうとを空いた片手に持っている。

 武闘派の彼女らしからぬ武器にこの後の展開に悪い予感しかしない五織は恐る恐る琴葉に尋ねる。


「ね、ねえ枝野さん……その漏斗っていったい……」


「…………………………(ニコッ)」


「ひぃぃぃっ」


 意味深な笑みに戦慄を覚える五織をよそに琴葉は階段を降りきり、りんごの当たりどころが悪かったのか未だに目覚めない兄のもとへとおしとやかに詰め寄る。


「さあ兄さん、起きて下さい。あらまあこんなに酔っ払われて。今お水を用意いたしますからね」


 兄の反応を待つことなく琴葉は彼のだらしなく開かれた口腔に漏斗をねじ込み一滴も零さないような慎重さでバケツの水を流し込んでゆく。


「ゆっくり、零さないように飲んで下さいな。さあ、さあ」


「がー、がー、ゴッ?……ゴボボッ⁈……ゴボボボボッボッ⁇」


 バケツの水を半分くらい注ぎ込まれたところで琴葉の兄、一条 永嗣は水難事故に遭う夢でも見てしまったのだろう。急に手足をばたつかせ始めた。その姿を見た琴葉の笑顔といったらもう……筆舌にし難い狂気が感じられた。


「あら兄さんったらそんなに私に水を飲ましてもらうのを楽しみにしていたのね。さあ、もっと、もっとお飲みになって」


「ゴボボボボボボボボボ……ブクブク……」


 先ほどまで酒気で少し紅くなっていた永嗣の顔が青ざめ始めるも、琴葉はバケツを傾け続ける。もうそこには初めの丁寧さは無く、床に散乱した資料がビチョビチョになるのもいとわない様子だった。


 そのまま、五織が口を挟むタイミングは無く妹から兄への『水やり』は熾烈を極め続けた。


「あはははは、ほらもっともっとです!まだまだこんなもんじゃ足りませんよ」


「あんた……一体お兄さんに何の恨みがあるのよ……」


 五織の呆れた声が水の零れ落ちる音だけが響く空間を上書きする。

 琴葉の制服のスカートは水に濡れて変色し始めていた。


 バケツの水がなくなるかなくならないかで、ようやく永嗣は漏斗を逆流する汚い噴水をブチまけながら海中から陸にへと帰還した。


「……ブシュウウウ!!!ぶはぁ……ゼーハーゼーハー…………⁈」


「お目覚めですか、兄さん」


 息を荒くし飛び起きた永嗣は自分の傍でステンドグラスに映る天使のような微笑を湛えた琴葉を見るや否やただでさえ青かった更に顔を蒼く染め、そのまま背後の執務机の後ろに掛けてある時計を見遣る。


 そんな兄の様子を見て琴葉は表情を崩さずに切り出す。


「兄さん今何時から確認なさいましたね」


「い、いやあ参っちゃうよな。昨日からこの時計三時間くらいズレてるっぽくて」


 そんなわけないでしょうと、琴葉は自身の身に付けていた腕時計を永嗣の目の前に掲げてみせる。


「私、昨日言いましたよね。『明日は兄さんに来客があるから早く支度するように』って」


「……はい」


 いつのまにか永嗣の姿勢は正座に変更されていた。


「それで?朝来てみれば事務所の鍵は開きっぱなし、中は散らかし放題、おまけに妹と同い年の女の子を襲っているって……どういうことか説明していただけますね」


「待ってくれ、最後のは一向に覚えがないんだが」


「ああ、そうでしたね。兄さんべろんべろんに酔ってらしたもんね。昨日、何時まで、深酒していたのか、知りませんけどぉ!」


「ひいいっ、申し訳ございませんでしたぁ」


 もうどちらが上の立場なのかは一目瞭然だった。

 永嗣は正座した状態のままでその先十分ほど説教を垂れる妹にずっとへこへこしっぱなしだった。

 唖然としている五織に琴葉は叱り終えた兄の襟首を掴んで締め上げながら、あくまで温和に提案する。


「楢崎さん、少しの間隣のカフェでお茶でもしていて下さい。こちらが片付き次第お呼びしますから」


「かたz……わかったわ」


 この後自分のいなくなった探偵事務所で一体どんな悲劇が起きるのか、今から琴葉が本当に片付けるのは散らかった部屋では無く兄の方ではないのか……五織はこの真相は知らないでおこうと強く心に誓った。


「ちょっ……琴葉さん、ヤメ……ぎゃあああああああ……(カクン)」

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