Iの契約「兄妹探偵」


 五織が魔女の紹介で一条探偵事務所に出向いたのは会談の一週間後のことだった。

 祝日にも関わらず彼女は珍しく早起きをし、クローゼットから下ろしたてのワインレッドのカーディガンにクリーム色のニットセーター、グレーの膝上までのプリーツスカートでめかし込んだ。母親がいた最後の誕生日にプレゼントしてもらった思い出の品である。


 トーストで簡単に朝食を済ませると、家事を一通りしてから家を出る。

 五織が魔女に用意してもらったマンションの一室から徒歩二十分。

 魔女が五織を預けた最後の希望が残る場所、それこそが一条探偵事務所だった。一体どんなに素敵なところなのか。


 残念ながら、そんな浮かれた気分でいられたのは秋分を過ぎた初冬の寒空の下を歩いているときだけだった。


「なんだかパッとしないところね」


 探偵事務所の門構えの酷さは温室育ちである五織以外の目にも明らかだった。


 雨風に弄ばれて錆びついたチープな金属製の看板に、古風と言えば聞こえがいいがボロいだけの木製の扉は同じく木製の棒状のドアノブを引く時に手に棘が刺さらないか気が気でなくなる。


 アンティーク調でお洒落な造りのシャルルとは大きな違いだ。


 もうこれ以上失敗できない五織は次の紹介どころでは自分の(唯一の)取り柄である若さを目一杯アピールするために元気よく入って行けと魔女から助言をもらっていたのだが、この店構えを見ただけでそんな気はすぐに失せた。


 その魔女曰く


「研修会に入っている魔術師ではないが腕は確かだし、私の信頼する男だから心配は無用だ」


 とのことだ。魔女が研修会の頭目がをしている間はその男が本当に私の師匠筋になっても研修会の外の魔術師だということは魔譚連盟にはもみ消してくれるらしい。

 しかし、いくら魔女の言葉は信じられても魔女が側にいない今の五織の心は不吉な予感で一杯だった。

 ただ、いつまでも門の前で突っ立っている訳にはいかない。


「よぉぉし、覚悟決めろ、わたし」


 気持ちのいい朝の空気を大きく吸い込み、同様に大きく吐く。自分の中の倉皇を全て追い出してしまうかのように。



 もう魔女に迷惑を掛けるのは嫌だ。

 もう誰かに低く見られるのは嫌だ。

 もう独りになるのは嫌だ。



 わたしが楢崎家を再興するんだ。



 心の中で自分に向けての決意表明を再度行い、自分を奮い立たせドアノブに手を掛け力強く押し開ける。


「おはようございます、明り採りの魔女から紹介を受けて参上致しました楢崎五織です。今日からどうぞよろしくお願い致します…………て、あれ?」


 この一週間を掛けて魔女と必死に練習した正しい挨拶は思いっきり空振りになった。


 ーー営業時間に入っているはずなのに人の気配がしない。


 扉の先にあったのは見かけだけは一流レストランであるシャルルと同じくらい洒落た応接間。

 しかし、深夜でも灯りの消えることはないシャルルとは違い薄暗く、木のタイルを敷き詰めた床には外観の汚さに比例するかのようにそこら中で土砂崩れを起こしている書類の山が目立った。

 他にも、荒らされた跡のある不気味な書棚や奥で唯一微かな光を放つ開け放たれた冷蔵庫からもただならぬ雰囲気を感じた。


「うっわ…………わたしの予想の遥か斜め上をいく汚部屋おへやね……」


 五織は開け放たれた扉から無意識のうちに一歩後退していた。この事務所に入る(元)お嬢様の心境は未開の地に足を踏み入れる探検家のものと殆ど同じものだったからだ。

 視線を足下に落とすことで、ようやく五織は自分が事務所から退き始めていることを認識する。


「ええい、ここで逃げ帰ったら楢崎の名がすたるわ」


 自身の頬を張り、気を引き締め直して魔境に一歩足を踏み入れる。


「す、すみませーん。どなたかいらっしゃいますか」


 仮に他人がいても不審者だとは思われないように張り上げない程度に声を出す。

 足下に転がっている紙片がすねをくすぐる不快感を味わいながら、無限に続くかのように思える目測十五畳ほどの応接間を散策する。


 しばらくし、暗所に慣れてきた五織がよく目を凝らすと床に散らばっていたのは書類だけではなかった。


「何よコレ………………」


 食べかけのコンビニ弁当や割れた一升瓶、盛大にハラワタを掻っ捌かれたクマさん(人形)なんてものもあった。

 ここを形容する言葉を五織は一つしか知らなかった。コレは……


「ゴミ屋敷ってヤツよね」


 歩を進めるごとに増す不快感は五織が最奥の立派なコレもまた木製の執務机に辛くもたどり着いた頃には吐き気をもよおすほどにまで肥大化していた。

 これも温室育ちの弊害なのだろうか。

 視界はボヤけ、脳に酸素が足りなくなっているのが感じられる。

 心なしか熱も出てきたように思えた。



「まさか、これ……魔術……」



 五織がそう危惧した時、もう何年も使われていないかのようにひっそりと静まり返っていた執務机が突然びくん、と胎動した。


「ひっ……」


 五織が悲鳴を上げると、それに反応するかのように執務机から身を起こした黒い影は熟したトマトのように真っ赤な双眸をしばらく遊ばせた後五織をその中心に捉える。


「……ガ……ズヲ……ダザ…………バヤ……」


「え、……なに、なに……今なんか言った……」


 あまりの非常事態に五織は腰を抜かしてしまい、まともに逃げることすらできなくなっていた。

 幸いにも書類の山がクッションになり、腰を痛めることはなかった。

 影のバケモノは四肢を巧みに操り、執務机を器用に乗り越えて五織に迫る。


「ウェ…………ヴェ……ヴォ……」


 影が五織に近づくたびに相手が言葉を発している穴から一瞬意識が飛びそうになるほどの激臭がする。


「やだ……こないで…………いや…………」


 五織は目一杯おぼつかない四肢を動かして影から遠ざかろうとするが、影がにじり寄る速度の方が少し速い。


 影はほどなくして五織に接触し、まるで動物が敵味方を判別するかのように彼女の匂いをスンスンと嗅ぐ。


「ヴォ…………ボ…………ヲォォォォォン」


 掠れ切った声で異文化の言語を喋っているようだった影は唐突に雄叫びを上げ、もう既に抵抗することを辞めて放心状態に入ってしまっていた五織に飛びかかる。


「わたしはイモムシわたしはイモムシわたしはイモムシわたしはイモムシわたしはイモムシわたしはイモムシわたしはイモムシわたしはイモムシわたしはイモムシ」


 影の一回り大きな肢体が五織の瑞々しい身体に肉迫した、そのときだった。


 確かな光を放つ扉の方向から凛とした叱声が飛ぶ。


「いい加減にして下さい!」


 その声量でなんとか正気を取り戻した五織がすがる思いで振り向くと、そこには五織と同じ高校の制服を着た少女のシルエットがあった。

 彼女は五織には一瞥もくれることなく、今まさに再度五織に襲いかかろうとしている影に向かって右腕に掛けていたバスケットから赤い球体を取り出し、投げつける。


 その球体は吸い込まれるように影へと一直線に飛来し、鈍い衝撃音とともに一撃で影の意識を刈り取った。


 カツカツという高い靴音とともにシルエットの女性が室内に入ってくる。そのまま早足で五織に駆け寄ると申し訳なさそうに謝罪を始める。イグサを思わせる心を落ち着かせる懐かしい香りが彼女の進路に広がっていた。


「あの……大丈夫でしたか?うちの兄が本当に無礼なことを」


 少女はまるで自分に責任があるとでも主張するように、しゃがみ込んで目線を合わせて五織に謝罪する。


 その整った顔立ちや深い海を連想させる藍色の髪の毛に五織は覚えがあった。


「へ?……あ、貴女は……枝野さん?」


「あら、矢張り楢崎さんでしたか」


 ん、矢張り?

 シルエットの主、枝野琴葉は五織のクラスの学級委員を務める少女であった。

 彼女は成績優秀、容姿端麗と、まさに才色兼備を具現化したような人物。

 容姿はそこそこなものの、前述の通り絶望的に人気のない五織とは決して交わることのないように思われる人種だ。


 そんな枝野琴葉とは面識も薄いせいか、五織の次の質問は的を射ないものとなった。


「えーと、てことは……これも枝野さん?」


 五織は執務机の奥に大の字になって倒れ伏している影に震える指を指しながら、矢張り伝わりそうもない質問をする。

 これにはじめは首を傾げていた枝野琴葉であったが、これも学級委員の度量というものだろう。数秒後には質問の意図を理解して応答を開始する。


「ええまあ……そこの大の字で倒れている人は私の兄です。名前は一条 永嗣えいじ。この探偵事務所の所長なんです」


 影が……お兄さん?

 当惑している五織を見て、ああ確かに暗いですねと、琴葉は西側に掛かっていた深緑のカーテンを開け始めた。

 現時刻はまだ正午前なので直射日光が入ってくることはなかったが、それでも眩しい外の光が暗く閉ざされていた事務所の陰鬱な雰囲気を塗り替えていった。


 五織は恐る恐る自分を襲った影の方を見遣る。そこには正体不明の怪物などではなく、妹に新鮮なりんごを投げつけられ気を失った正真正銘へべれけに酔った青年であることを確認して安堵の溜息を吐いた。


「はぁ〜もう、驚かさないでよね」


「本当にごめんなさいね?兄も悪気があってしたことじゃないから」


 そのあとでーー悪気があったら殺してるしねーーと、琴葉が呟いたのを五織は聞き漏らしていなかった。

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