第五章、その五

 僕はあれ以来、本家に行くのをけ続けていた。


 もちろん、いろいろ気になることはあったが、あそこには『あの瞳』が、僕のことを待ちかまえているのだから。

 怒ったようにおびえるように、まるで自分に対する『きゅう弾者だんしゃ』を見つめるような、黒き瞳が。


 しかし、筆頭ひっとう分家のあとり息子としては、そうも言ってはおられず、僕は例の事故からほぼ二年後の秋、父のみょうだいとして久方ぶりに、あの古めかしい屋敷の敷居をまたいだのである。

 しかたない。できるだけ早く用事を済ませて、さっさと帰るとするか。

 ──『彼女』と出会ってしまう、その前に。

 長く曲がりくねった迷路のような渡り廊下をもんもんと悩みながら歩いていたまさにその時、僕の胸元に突然何かが勢いよくぶつかってきた。


うしお、潮、来てくれたのじゃな!」


 あまりの衝撃に呼吸と心臓が止まりかけ、とっさに怒鳴りつけようと口を開きかけたとたん──

われのこと、誰だかわかるか?」

 うわづかいにこちらを見つめる、二つのくろすいしょう

 その質問の内容はみずからの成長を、久方ぶりに出会ったおさななじみにほこっているようでいて、その実その顔に浮かんでいるほほみは、まるで童女そのもののあどけなさであった。


 まさか「──つきちゃん⁉」


 それは間違いなく、もはやこの世にはいないはずの少女の名前であった。

 しかしその時の僕は、今までいだいていた過去の確信のすべてを放棄してでも、そう答えざるを得なかった。それほどまでに目の前の光景は、予想外の有様ありさまであったのだ。

 その少女は、僕の立場を忘れたそんなタメぐちに対し少しも気を悪くすることもなく、がんいっしょう満面に笑みをたたえた。


 ……まるで生まれてからこの方、『人形』のような無表情などしたことのないように。


「うん、そうじゃそうじゃ。われは潮が来るのを、一日いちじつせんしゅうの思いで待っていたのじゃぞ!」

 そう言って僕の腕を強引にとり、屋敷の奥へと引っ張っていく少女。

 あまりの展開に困惑しなすがままの僕にひきかえ、彼女の足取りはあくまでもかろやかなるスキップであった。


 ──まさにたった今、神に自分の原罪げんざいゆるされたばかりの、『とがにん』であるかのように。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


 それから僕らは彼女──『つき』の部屋で半日以上ずっと一緒にいたわけなのだが、その少女はどこからどう見てもつきちゃん自身であり、『なた』らしさの欠片かけらも見受けられなかった。


 もっとおさない時に幾度いくたびとなく、こっそりとひなちゃんがつきちゃんの真似まねをしていたことがあったけれど、僕は一度たりとてだまされたことなどなかったのだ。

 なのにこれはどうしたことであろうか。やはりあの事故で死んだのは『日向』であり、この目の前の少女は『月世』自身なのであろうか。

 いや、そんなことはない。あとから確かめたのだが、やはりあの日僕と『日向』が会っている時、他の親子三人は既にピアノの発表会に向かっていたとのことだし、葬儀の場で会った少女は、間違いなく『日向』であったはずだ。

 それでも目の前に見えるのは、あくまでも何のにごりもないじゅんしんなる瞳と、あどけない童女のような振る舞いをする華奢きゃしゃ身体からだであり、それはまさにあのおさな巫女みこ姫そのものであった。


 ──いや。もしかして、これって。


 確証は何も無い。ふむ、ここはひとつ試してみるか。

「つきちゃんさあ」

「うん?」

 無邪気に楽観的に首をかしげる少女。


て、覚えてる?」


 轟音ごうおんが耳をつんざいた。

 次の瞬間、猛烈に吹きつけてきた突風に、その身を激しくたたみへとたたきつけられる。

 舞い上がる数多あまたの書物。家具。ひとえすそ。そして彼女の長い黒髪。


「ひなたひなたひなたひなたひなたひなたひなたひなたひなたひなたひなたひなたひなたひなたひなたひなたひなたひなたひなたひなたひなたひなたひなた」


 表情をまったく失った人形のような唇からつむがれる、じゅのような声。

「おらぬ、日向なぞおらぬ。そんな女なぞけして存在してはならぬのじゃ! あやつのせいでお父さまもお母さまも死んでしもうた。悪いのはすべて『日向』なのだ。『月世』は──われは、何も悪くないのじゃ!」

「わかった、わかったから、もうすんだ。『つきちゃん』!」

 無防備に突風にあおられ続けるそのかぼそ身体からだかばうように抱きしめて、耳元で言い聞かせるように叫んだ。

「君はつきちゃんだ。間違いない。僕が保証するよ!」

「うしおちゃん?」

 ようやく反応を見せる、あどけない瞳。

「僕が君たちのことを見間違えたことが、あったかい?」

「……ない」

「だったら、君は間違いなくつきちゃんだ。そうだろう?」

「そうじゃ、われは『月世』じゃ、『月世』なのじゃ!」

 母親にめられたおさなのように、はしゃぎだす『月世』。

 いつの間にか、風はんでいた。


「──さすがはきょうあとり殿。お見事でした」


 そして部屋の入口には、小柄で上品な老婦人がたたずんでいた。

 僕はすかさず片膝かたひざをつく。

「これはご当主様。本日もご機嫌うるわしく」

 やばい。元々ここへは父親のめいによって、ご当主様のごげんうかがいをするために来ていたんだっけ。それがあまりにも目の前の少女のひょうへんぶりに驚き、すっかり忘れ去っていた。

 いったいどんなお仕置きが。やはり古典的に蔵の中でつるし上げ? それとも地下牢でむち打ち? あ、いや、別に期待しているわけではございませんよ。

「ほほほ。かしこまることはないのですよ。今日はこの月世のために来ていただいたのだから」

 へ?


「鏡池うしお殿。貴殿には我が天堂てんどう本家のほうである『とお巫女みこ』たる、この月世の『やく』となっていただくことを正式に要請いたします」


「なっ……うわっ!」

 かたわらにいた少女が、突然抱きついてきた。

「うれしい。これで我らはいつでも一緒だな!」

 しまった。元々これが、今回僕を本家に呼び寄せた理由だったんだ。


 なかなか守り役しゅうめいに応じない僕に、最近情緒不安定で巫女の力を暴走し始めた月世の姿をたりにさせて、とても断れない状況を作るために。


「うしおちゃん♡うしおちゃん♡うしおちゃん♡うしおちゃん♡うしおちゃん♡うしおちゃん♡うしおちゃん♡うしおちゃん♡うしおちゃん♡うしおちゃん♡」

「……つきちゃんさあ」

『♡マーク』使いすぎ。

「──守り役殿」

「は、はい!」

 って、それは僕のことですか?

「これからは仮にも自分のあるじに対して『ちゃん』づけなど、ひかえられたほうがよろしいかと」

 それでは、ご主人様が『アグネス』や『テッド』や『おさむ』な方々の場合は、どうするのでしょうか?

「月世もですよ。たとえおさななじみでも『守り役』は『守り役』、ちゃんと呼び捨てで呼びなさい」

「うむ、わかった」

 僕の背中に回していた腕をほどき、半歩さがってにっこりと微笑む少女。

「これからよろしくな、『潮』!」

 その瞬間、僕の背中に電流が走った。昨日までただのおさななじみだった女の子が自分のご主人様となり、呼び捨てにされるこの快感♡ ──なんて、本音を述べている場合ではありませんよ。第一今日初めに会った時から、既に呼び捨てだったし。ここは断固として断らねば。


「ははー。こちらこそよろしくお願いいたします、月世様」

 あれ?


「うむ、よしなに」

 あれえ?


 いや、根っからの『犬根性』とか、そんなんじゃないですよ。けっして。

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