第五章、その四

 この日はなたにとって大切なピアノの発表会があり、両親に連れられて車で会場に向かっていたところだったという。


 事故の直接の原因は、おじさんの運転する車が急に中央分離帯を飛び出し無理なUターンをしようとしたからというのが、目撃者の一致した証言であった。


 あの冷静れいせいちんちゃくなひなちゃんのお父上にしては、とても考えられない行動である。

 僕はとる物もとりあえず、本家へと向かった。

 分家の者として葬儀に参列するのは当然のこととして、何よりもひとり残されたつきちゃんのことが心配だったからである。


 朝からのあいにくの、いやむしろこの場にふさわしい、冷たいさめ模様の一日であった。


 僕はあたかも古い映画にでも迷い込んだかのような黒一色モノトーンの世界で、ふくの大人たちの間をかき分け歩きながら悔恨かいこんの念にとらわれ続けていた。

 どうしてあの時ひなちゃんに、あんなにも冷たく当たってしまったのだろう。

 彼女の望みをかなえてやれなくとも、せめてもっと優しくしてあげればよかったのに。

 まさか彼女と、もう二度と会えなくなってしまうなんて。


 その時視界に飛び込んでくる、小さな背中。

 ゆっくりと振り返る、長い黒髪。


「つき──」ちゃん?


 中途半端にちゅうに消え入る、僕の呼びかけの声。

 なく降りそそぐさめれそぼったその髪はつややきをいや増しながら、少女のいまだ未成熟な肢体からだに重くねっとりとからみつき、闇色の天鵞絨ベルベットのワンピースともども彼女のはくの肌を妖艶ようえんなまでにきわたせていた。

 しかしその時の僕は、おさななじみのいとけなきいろを発する姿に見ほれることもなく、ただただ混乱していた。


 ──どうして、『ひなちゃん』が、ここにいるのだろう。


 遠目でもわかる端整で無表情な人形のような顔。その身にけているのはこの場にもっとも似つかわしい虚飾を排した黒色の洋装。これでは普段一緒に暮らしている人たちだって、あの双子を見分けることはできないであろう。

 でも、この僕だけは違った。たとえ彼女たちが同じしょうを身にけていようが、互いのふくを取り換えていようが、これまで一度として見誤ったことはなかったのだ。


 間違いない。今目に前にいるのは、ひなちゃんだ。


 もしかしたら僕はかんちがいしていたのだろうか。事故にったのはつきちゃんのほうだったのだろうか。

 しかし、えいの中で洋服ワンピースを着て微笑んでいる女の子は間違いなくありし日のひなちゃんだし、第一つきちゃんがピアノの発表会なんかに行く必要なんてない。

 いったいぜんたいこれはどうしたことなんだろうか。なぜ周りの大人たちは何も言わず当たり前の顔をしているのだろうか。

 このげんしゅくなる場において挙動きょどうしんすぎる慌てぶりで、あたりをきょろきょろ見回していたら、突然鋭い視線にぬかれてしまった。


 その少女は、怒りと動揺どうようがないまぜになったような表情で、こちらをにらみつけるようにえていた。


 そう、彼女も気付いたのである。僕がおのれの『正体』を、見抜いてしまったことに。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


 実際当時の天堂てんどう本家は、大混乱のさなかにあったという。

 次期当主親子三人を一度に事故でくしたことはもちろん、何よりも混迷こんめいを極めたのは、生き残った『つき』についてであった。


 ──なぜ『とお巫女みこ』ともあろう者が、自身の肉親の不幸という一大事を、未然に察知することができなかったのかと。 


 当然一族の中から、月世の巫女としての資質を疑う声も出てきた。

 しかし事は天堂一族全体の盛衰せいすいにかかわる問題であり、軽挙妄動けいきょもうどうげんつつしむよう本家からおれが発令され、すぐさま沈静化する。

 もちろんれに揺れていたのは本家も同様で、最も対策に苦慮したのが、これからの月世への処遇のしかたについてであった。

 その中で大勢たいせいをしめたのは、いんしゅうに満ちた養育方針への疑問の声だった。肉親の未来すらもうらなえなかったのは、しきろうなんかに閉じこめて家族と引き離して育ててきたことが間違いではなかったのかと。もっと人並みの生活をさせて、一般常識を身に付けさせるべきではないのかと。

 こうして月世はおもにそのきょを移され、しんしょくその他日常生活のすべてを祖父母家族と共にすることとなり、あまつさえそれまでなたが通っていた学校に行くことまで認められたのである。

 いやはや。考えてみればこれはごく普通のことであり、今までが異常過ぎたのである。それを自分たち本家の都合でころころと態度を変えるなんて。天堂の大人たちの身勝手さに、いきどおりよりもむしろむなしささえ感じてしまう今日この頃であった。


 しかし、誰よりも困惑し身も心もやつれ果てるほど悩み続けていたのは、当の月世──いや、『日向』自身であったろう。


 そう、予言ができなかったのも当然なのだ。何せ生き残ったのは、巫女姫ではない日向のほうだったのだから。

 僕があの日、蔵を訪れたとき月世の姿がなかったのは、既にピアノの発表会の会場へと向かっていたからなのだ。

 そして、何らかの理由で月世であることが発覚し、門外不出の巫女姫を外に連れ出したことに気づいたおじさんが、慌てて家に戻ろうとしたことが事故の原因だったのではなかろうか。

 では、なぜ当の『本物の月世』が事故のことを予言しなかったかというと、実は巫女といえど自分の死期に関することだけは、絶対にうらなえないのである。

 たとえ巫女と言っても人間なのだ。自分の死期がわかっていておだやかに生きていくことなんてできはしないだろう。しかも力が強い巫女ほど予言は絶対でありけえないのだ。下手したら発狂してもおかしくはないだろう。

 だから一見矛盾しているようにも思えるが、巫女は自身に振りかかる災厄さいやくが重大であればあるほど、本能的に予知能力を発揮すること自体を忌避きひしてしまうのであった。


 とにかく一番驚いたのは、生き残ってしまった日向であったろう。


 何せ、たとえ本気ではなかったとしても、自分が月世の死を願った直後の出来事だったのだから。

 もちろん彼女には、よもやこんなことになるとは、知るよしもなかったはずだ。

 この日月世と入れ替わったのは、あくまでも僕と一対一で会い、秘め続けてきた自身の想いを伝えたかったからにほかならない。

 そこまで彼女は、みずからに課せられた当主としての運命に思い悩んでいたのである。

 この日大切なピアノの発表会があったことさえ、忘れ去ってしまうほどに。


 さらに彼女に大きくのしかかったのは、これからどうやって『生きていく』かということであった。


 万が一にも自分が『月世』ではないと、見破られてしまってはならないのだ。

 自分は今や『巫女殺し』の大罪人なのである。こんなことを天堂の人間に気づかれたら、どんな仕打ちにあうか想像すらもできなかった。

 特に大事なあとりをくしたんに暮れるお祖母ばあ様が、あれほど待望していた巫女姫すらも失ってしまったと知ったら、たとえ同じ孫娘である自分すらも断じて赦しはしないであろう。

 自分が月世と入れ替わったりしなかったら、自分の代わりに月世が死んでしまうことはもちろん、元々父親が運転ミスなぞすることもなく、あんな事故自体が起こらなかったのだから。

 皮肉にも日向が母屋に与えられた部屋は、自分自身がこれまで使っていた部屋であり、通う学校の学級クラスも同様であった。

 家ではこれまで一緒に暮らしてきた肉親や使用人たちが自分のことを『つきちゃん』と呼び始め、学校では無邪気な級友たちがいまだに時折ときおり『ひなちゃん』と呼んだ。

 つまり不幸中の幸いとして、ごく親しい者たちですら日向と月世の区別が明確にはついておらず、とりあえずのところ自分の『正体』がけんする恐れは、ほとんどなかったのである。


 ただし、一人だけ、その例外が存在してはいたが。

 そう。あの憎くていとしい裏切り者の、分家の少年だけが。


 そして少女は決意したのである、これから自分は『月世』として暮らしていくことを。


 周りのすべての人々を──そして自分自身すらをもあざむいて、みじめにいていくことを。

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