五、僕が『犬』になるまでに。

第五章、その一

  五、ぼくが『いぬ』になるまでに。



 ──僕がその少女たちと最初に出会ったのは、初めて訪れた天堂てんどう本家の広大なる屋敷で迷い込んだ、古めいてばかでかい蔵の中であった。


 その日父親にれられてきた僕は、筆頭ひっとう分家たるきょう家の事実上の後継者として、天堂本家のそうそうたる顔ぶれの前で紹介されることになっており、緊張のきわみに達していた。

 そしてうかつにも、お手洗いを借りたあとひかえのへと帰る道筋を間違えてしまい、あせればあせるほどどんどんと屋敷の奥へと入り込んでしまい、気がつけばいつのにか回廊かいろう続きに建てられた、大きな内蔵うちくらの中に迷い込んでしまっていたのだ。


 小さな明かり取り用の窓しかないそのだだっぴろい空間は、夏のさなかだというのに薄暗くひんやりとしていて、いかにも『何か出そうな』不気味な雰囲気をかもし出していた。


「……さすがは数百年の伝統を誇る旧家の蔵だよな。お仕置きでこんなところに閉じこめられたりしたら怖くて夜も眠れないよ。しかも明るいところから入ってきたばかりで視界もほとんどきかないし。いつのにかさっきまであんなにうるさかったせみの声も全然聞こえなくなったし。やだやだ。さあ、とっとと引き返そうっと」

 まさに、その時であった。


「──あなたは、だあれ?」


 暗闇の中からこぼれ出てきた、おさなき少女の声。

 思わず振り返り、だんだん目がなれてくるに従い、僕はあぜんと立ちつくしてしまう。


 初めは、人形が口をきいたのかと思った。


 何せその、ちょっとした宴会もやれそうな二十畳ほどの広い部屋は、三方の壁に設置された物置棚ものおきだなはもちろんゆか一面にまで足の踏み場もないほど、きょう人形、フランス人形、ぶんらく人形、ビスクドール、市松いちまつ人形、はか人形、その他あまたの古今東西の少女人形で埋めくされており、しかもそのど真ん中にひっそりと正座している白い和服の少女はというと、腰元までゆうに届くつややかで長い絹糸きぬいとのような黒髪と、いまだ性的に未分化なほっそりとした小柄な体躯からだに陶器のようにすべらかで純白の肌、そしてその小作りの顔はあたかも能面のように無表情なものの、まさしくだいの人形師が丹精たんせい込めて作り上げたような絶世のしゅうれいさを誇っていたのだ。

 僕は言葉を発することなぞ完全に忘れ果て、その自分と同じ六、七歳ぐらいの少女の姿にただただ見とれ続け、その場を立ち去ることもそれ以上少女に近寄ることもできずにいた。

 彼女の天使か妖精かと見まがうほどの神々こうごうしさにおくれしただけではない。実は僕ら二人の間をへだてていたのは無数の人形の群れだけでなく、大人の腕ほどに太くがんじょうなる木製のこうが立ちはだかっていたのだ。


 その時の僕はまだ、『しきろう』という言葉を知らなかった。


 しかし少女のほうはというと、こんな場所にいきなり現れた来訪者がよほど珍しかったのか、床に散らばる人形を押しのけながら迫り来て、格子しにその細く短い腕を懸命けんめいに伸ばしてきたかと思うもなく、僕の両ほほわしづかみにしたのである。

「あ、あの……」

 横一文字に切りそろえられた髪の毛の下でれている、何の感情にも染まっていないくろすいしょうのようなき通った瞳。

 僕は文字通りへびににらまれたかえるのように身じろぎ一つできずに、このままこの子とこの蔵に閉じこめられてしまうのかそれもいいかもねと、なかばあきらめかけていたまさにその刹那──


「そこで、何をしてるの⁉」


 突然背後から響き渡る、少女の声。

 思わず振り返った僕に、更なるきょうがくが訪れた。


 そう。そこでわずかに怒気どきを含んだ表情でおうちしていた青いワンピースの少女は、いまだ僕の頭部を拘束し続けている人形だらけの部屋の少女と、まさしくうり二つの顔かたちをしていたのだから──。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


 少女のうちの一人とは、それからほとんど時を置かずに再会することになった。


 あのあと屋敷の大広間で行われた僕のお披露目ひろめの式で、将来『やく』としてあるじあおぐことになる天堂てんどう本家直系のご令嬢として引き合わされたのが、誰あろうあの蔵の中で出会った洋装ワンピースのほうの少女、『なた様』だったのだ。


 座の末席まっせきにいる僕と、はるか遠くのかみにいる彼女とでは、その場では口をきくことすらもあたわなかったが、二人は時おり意味いみしんなアイコンタクトをこころみ、目が合えばひそかに微笑み合った。

 まあ、ありていに言ってしまえば、たかだか六、七歳ぐらいの子供たちにとっては、本家だの分家だの、旧家の格式だの慣例かんれいだの、お披露目だの守り役だの、そんなむずかしいことなど知ったこっちゃなく、あの蔵の中で偶然出会ったとたん、すっかり意気投合して仲よくなってしまっていたのである。


 特に、この古びた本家の屋敷の中でほとんど閉じこめられるようにして育てられてきた少女のほうは、初めて出会う同じ年頃の男の子である僕に対して、異常なほどに関心を寄せてきた。


「へえ、『うしお』ちゃんて言うんだ。年は六つか。私たちのほうが一つだけお姉さんだね」

「そっちは?」

「私は『ひなた』。こっちは『つきよ』よ」

「ひなちゃんにつきちゃんか。でも二人とも、すごくよく似ているよね」

「当たり前でしょ。私たち双子なんだもん」

「ふたご?」

「そう。『いちらんせいそうせいじ』って言うのよ」

 なにそれ、おいしい?

「つまり、二人はきょうだいということ?」

「ばかね、女の子だから『しまい』よ。私が妹で、つきよがお姉ちゃんなの。でも生まれたのは一緒だけどね」

「はあ」

 何だか女の子の世界はふくざつかいきだ。その時僕はよわい六さいにして早くも、『じょせいのしんぴ』に目覚めてしまったのだ……て言うか、結局彼女の言っていることが、その当時よくわからなかっただけである。

「ところでそっちの、つきちゃんだっけ、なぜその子はろうやなんかに入っているの? 何かいたずらでもして、おしおきされているの?」

「ちがうわよ。つきよは『とおみのみこひめ』で『もんがいふしゅつ』なんだから、外に出てはいけないのよ」

「何それ。どうして『みこ』だったら、蔵の中に閉じこめられたりしちゃうの。『みこ』って、そんなに悪いものなの?」

「何言っているの。『みこ』はこのてんどう家にとって、もっともたいせつな『しほう』なんだから。お父さまやお母さまや、『ごとうしゅ』であるおばあさまよりもえらいのよ!」

「それならなおさらおかしいよ! どうしてそんなえらい子を閉じこめたりしちゃうわけ?」

「そういえば……そうよね」

「だって、つきちゃん、なんだかさっきからずっとさみしそうだよ。つきちゃんだって外に出て、みんなといっしょに遊びたいんじゃないの?」

 そうなのである。まるで先ほど僕にむかって呼びかけたことすら嘘だったかのように、その少女はあたかも人形そのものみたいに無表情のままでしきろうの中に座り込み、僕たちの会話にも何の反応も示さなかったのだ。

 少しのあいだ腕組みをして何事か考えていたひなちゃんが、きっと顔を上げた。

「わかったわ、こうしましょう!」

「え」

「私たちで、つきよを外に出してやりましょう!」

「でも、つきちゃんは『もんがいふしゅつ』なんでしょう?」

 いぜん意味はわからないけど。

「だいじょうぶよ、いいこと考えたの。でもそのかわり、うしおちゃんも手伝ってくれないとだめよ」

「ほんと? うん、やるよ。ぼくだってひなちゃんやつきちゃんと遊びたいもん」

「おとなの人たちには、ぜったいに言ってはだめよ」

「うん、ぼくら三人だけのひみつだね!」


『三人だけの秘密』──なんてあまっぱい響きがする言葉なんだろう。僕は知り合ったばかりのとてもかわいい女の子たちとすっかりなかよしになれたことで、文字通りちょうてんになっていた。


 そしてこれこそが、僕にとって最も大切な、『思い出の日々』の始まりだったのである。

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