第四章、その二

「ねえ、ゆう

「ん?」

「こっち向いて」

「何だいヒナ──むぐっ」

「ん~♡」

「──んぐっむごっ。なたの舌が、唾液つばが、体温ねつが、私の口腔なかに~」

「ちゅぱっ」

「ぷはっ!」

「うふ。どうだった?」

「はあはあはあ。日向、いきなり、どうして?」

「何だか夕樹のこと、うしおなんかにやるのは、もったいなくなっちゃって」

「ほ、ほんと?」

「ええ」

「このお。そんなこと言ってると、このまま押し倒しちゃうぞ」

「それは無理」

「え?」

「だって、即効性の睡眠薬やつを使ったからのう」

「──な。だってそれじゃ、君だって」

われにはそこら辺の市販薬くすりなぞ、かぬのじゃ」

「……君は、本当に、日向、なのか……」

「おやすみ♡」


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


 ──走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ!


「くそっ! 間に合うか⁉」


 家に帰ったらつきがいなかった。一応二時間待ったが帰ってはこない。

 こんなことは今までなかった。──いや、あってはならないのだ。


「間違いない、今日学園に来ていたのは、あれはなたではなく『月世』だったんだ!」


 急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ!

 目指すは、せいレーン学園高等部女子専用第一校舎生徒会資料室、通称『サロン』。


 あの『魔女』が、目覚めてしまう前に!


「──月世!」

 既に夜も九時過ぎ。校門も校舎もじょうされていたが、一応これでも名門天堂てんどう家の誇る護衛のプロ、じゃの道はへびなんなく女子第一校舎へと忍び込み、サロンの扉を勢いよく開け放ち──


「……何じゃこりゃ」


 間違いなく僕は、自分の大切なる少女の危機にさいしてあたかも『白馬の王子様』みたいに、今や身の毛もよだつ悪の儀式の行われんとする現場に踏み込んだつもりであったが、それが文字通り『何じゃこりゃ』な状態であったわけで。

「意識的にけてきたけど、一応形式的ぐらいには、巫女みこの勉強もさせるべきだった……」

 仮に教育係だとしたら失格の烙印らくいんを押されてもおかしくはない、あるじらくに導く悪魔のごとき折り紙付きの『甘ちゃんやく』にすら、本気で反省をうながしてしまいそうなこのありさま

 三角護摩ごまだんに魔方陣、紅白のしめなわに(祝ってどうする!)まん絵図えず。古今東西のじゅほうがチャンポンになっており、しかもこの俗っぽさは何ですかと自分の管理責任はたなの上段にあげ、本人に最近の読書傾向なぞを真剣に詰問きつもんしたくなった今日この頃である。

 守衛さん対策か、カーテンでしめ切られ数本の蝋燭ろうそくの明かりしかない薄暗いサロン内には、現在月世の姿はない。しかたなく(にえ台と思われる)テーブルの上に寝かせられている、やま副会長のもとへと歩み寄る。

「副会長起きてください。こんな状況を一人で対応しなければならないなんて、いやすぎます!」

「う、う~ん」


「無駄じゃ。そやつは薬でぐっすりと眠っておるからな」


 声のほうへと振り返れば、なぜか酒屋の包みを抱えた(お神酒みきか?)月世が、サロンの入口に立っていた。

 ……………………えーと、本当にその格好で買い物に行かれたのでしょうか?

 彼女の身を包んでいるのは女子高生の制服でも、いつものざっくばらんなひとえいっちょうでもなく、ちゃんと腰から下に色のはかまを着用した、正式なる『巫女姫仕様』であった。

 う〜む、こうして改めて見ると、彼女ご自慢の黒髪とはくの肌が、紅白の衣装によくえること。こりゃあ、そのすじのマニアからすれば、


「ひ、日向、最高ー‼」


 とでも、思わず叫んでもおかしくないぐらい……って、副会長さん⁉ あんた薬で眠らされていたんじゃないのですか?

「いいぞお、よく似合っているよ日向。『巫女さんコスプレ』グレイト! ようやくわかってきたじゃん。やればできる子♡」

 いつの間にか生け贄台の上で身を起こして、さかんに月世に向かって熱烈なるエールを送る王子様。ここはあたの演芸場か。いや実際のところ、コスプレなんかじゃなく本職というか、むしろ普段着扱いなんですけど。

 しかし、そんな彼女のハイテンションさとは裏腹に当の巫女姫様のほうは、この頃お気に入りの能面のような無表情でおごそかに言い放つ。

「ちがう。われの名は『月世』である」

「あ、そうなの? うん、わかった。よろしくね『月世』ちゃん。それより大丈夫なの? 口調まで変えて、今さら『キャラ替え』なんかしたりして」

「……副会長。もう少し自分の置かれている状況というものを、ちゃんと把握してください」

「何を言っているんだうしおくん。君はいつもこうしたお嬢様のコスプレ姿に慣れ親しんでいるかもしれないけど、数百年来の天堂てんどう家門外不出の『とお巫女みこ』様のお姿を拝謁はいえつできるなんて、一般ピープルである私の立場からすれば、まさに千載一遇せんざいいちぐう機会チャンスなんだよ?」

 嘘つけ、ただのキャラえのくせに。あ、こら、デジカメをとりだそうとするんじゃない!


「ならばいっそ好都合というものじゃ。では心置きなく、我が天堂家の秘儀のもつとして、その命をささげてもらおうではないか」


「命を捧げる?」

 その物騒ぶっそうな物言いに、さすがの副会長も顔色を変えた。よかった、ようやくまともな展開になってきたぞ。


「……くくっ、くくくくく」


 おやあ?

「いい、いい、最高! 巫女さんの格好をして何をやらかしてくれるかと思ったら、期待以上だよ!」

 もしもーし。あの、王子様?

「ああ、なんて私は幸運な人間なんだろう。愛する人の手にかかって殺される、こんな理想的で恍惚こうこつ感に満ちた人生の幕切れなんて他にあるだろうか。やはりこの私が目をつけただけある。日向、いや、月世ちゃん最高! 壊してよかった♡」

 この人は、いったいどこまでこうなんだろう。こんなことなら起こさずに、そのまま生け贄になってもらえばよかった。


「ではこれより、天堂家数百年来の秘儀、『遠見の巫女』の復活の儀式をおこなう」


 そう言いつつ、えりもとから闇色に染め抜かれてにぶく光をはじく、うるしりのふところがたなを取り出す月世。

 いかん。馬鹿に気を取られていたら、式のほうはとどこおりなく進み始めていた。なんてマイペースな司会者なんだ。

 抜き去られゆかへと落ちるさや。きらめく白刃はくじん。それを手にゆっくりと、みずからが選んだ『贖罪の山羊スケープ・ゴート』のほうへと近づいていく巫女姫。

 しかし、あの無表情な顔で何だか足元もおぼつかずにとことこと歩いてくるもんだから、まるで人形か赤ん坊って感じがして、どうにも迫力というものに欠けるんだよなあ。

 見ろ。副会長のほうもすっかりリラックスして、にやにや笑いながら待ちかまえているし。

「無益なせっしょうは好かぬが、許してたもれ。これも天堂一族全体のためであり、ひいてはこのもとの万人のためにもなるのじゃ。おぬしのとおとい犠牲はけして無駄にはせぬからの」

 振り上げられる、氷の切っ先。


「ふうん。『万民のため』の『尊い犠牲』か。いいねえ。でも、あいにくだが私は自分の美学や愛のためには死ねても、そんなお題目なんか知ったこっちゃないんでね!」


 テーブルに突き刺さる懐刀。しかし、そこには既に獲物の姿はなく、三歩ほど離れた横合いで余裕の笑顔でたたずんでいた。

 刀を引き抜きながら、あどけなく首をかしげる月世。

「なぜじゃ、なぜよける。我のために死んでくれるのではなかったのか?」

 それに対し、いつものオヤジ臭い含み笑いを浮かべる王子様。なんか、いやな予感。

「この安っぽい命をあなたにささげるのはやぶさかではないけれど、その前にこんじょうの楽しい思い出として、やはりそれなりの『サービス』はしていただかないとね♡」

 ……結局それか。

「残念じゃが、その期待には応えられぬ。巫女はじゅんけつでなくては、その力を失ってしまうのじゃからな」

「それじゃ交渉決裂ってことで、私はこれにて失礼させてもらおうかな」

「そうはいかん。わが天堂家の秘密をこれほどまでに知られたのじゃ。もはや日の光を見ることはあきらめてもらおう」

 そう言いながら、再びやいばるう巫女姫。しかし、またしてもなんなくよける王子様。

「はいはい、巫女さん。こっちおいで♡」

 はやし立てるように手を叩きながら、サロン中を逃げ回る副会長。

「……」

 それを無言&無表情で追い回す、何だかチャイルドなホラー状態の月世。

 何か性質たちの悪い子供の遊びを見ているような気がしてきた。こっちこそもう帰っていいかな。さっきから完全に無視されているし。

 そうこうしているうちに、副会長が壁際かべぎわまで追いつめられ、逃げ場を完全に失ってしまう。

「覚悟しやれ」

「やだよ~ん」

 ……わざと自分から危機的状況を作り出して、楽しんでいるんじゃないのか、この人。

 さっきから見ていると完全に主導権は、可憐な巫女姿の死刑執行人ではなく、ふざけきった生け贄役の少女のほうにあった。

 いかにも素人しろうとっぽいぐさで無駄におおまわりをくり返す月世に対して少しも慌てず、何か武道の心得でもあるのか最小限の動作で無難にけていく副会長。さすがは王子様。

「あっ」

 とうとう月世の足元がもつれ、サービス満点に袴のすそを乱して倒れ込む。

「ほらほらお嬢様、似合わないことをするからだよ♡」

 紳士的なさわやかな笑顔で手を差し伸べる王子様。ばかっ、そんなゆうしゃくしゃくなことしている場合


「──じゃないだろっ、けろ!」


「うわっ!」

 すかさず相手のすそを握りしめた月世が、予備動作なしに懐刀を勢いよく一直線に突き出した。

 髪の毛数本を犠牲にしてからくも身をのけらした副会長は、親友をためらわず足げにして大きく後方へと飛び退く。

「何なんだ、あの運動おんの日向が。さては音楽の時間と自主交換してしゃせんいていたな!」

 ……何ですかそのいまだ健在な余裕は。それにさっきのカウンター・パンチをあっさりけてしまうなんて。あんたいったい何者なんですか。

 それにしてもするどいのかにぶいのかわからない人だな。今目の前にいるのが自分の知っている『日向』ではないと、どうしていまだに気がつかないんだ。

 見た目だけで甘く思ってもらったら困る。巫女だからといって神通力やお付きの者たちに頼ってばかりで生きているわけではないのだ。最後に頼りになるのはいつだって自分自身の力だけなのである。常に危険がつきまとう身の上だからこそ血のにじむような努力を課され、もはや暗殺術と言っていいほどの最高の護身術をその身にたたき込まれているのだ。

 つまり今の彼女の状態は、『水を得た魚』つうか『××××に刃物』?

 そしてまるでホラー映画の主役かパンチ・ドランカーのように、ゆらりと立ち上がる月世。

 手痛い渾身こんしんのキックを受けたというのに、その能面のような表情に何らふくするものはなく、改めて懐刀を構え直す。もはやかよわさを演じて相手の油断を誘うのはあきらめたようだ。

 次の演目えんもくはさしずめ、本気になった『巫女姫の死の舞』であろう。


 しかたがない。こちらも少し、『真剣マジ』になるか。


 殺気などみじんも感じさせないごく自然なしょで、再び夕樹のほうへとすうっと歩を踏み出す月世。

「副会長、下がってください!」


 次の瞬間。二つの光跡こうせきが、サロンの薄闇うすやみを切り裂いた。


「……何のつもりじゃ」

 目と鼻の先で見つめ合う主従。両者のそれ以上の接近は、こうするすいな二本のやいばによってはばまれていた。

「あなたを見習っているだけですよ。刃物なんてものはただ持っているだけじゃ意味はない。たまには使わないとね。そこでせっかくだから、あるじおんみずからのご指導をたまわろうかと思いましてね」

 これでも由緒ゆいしょ正しき『守り役』の後継者なのだ。ものごころついた時から武芸一般に古今東西の武器類の取り扱い方を、しっかりとこの身にたたき込まれているのである。もちろん大型ナイフの一本や二本の携帯など当然だ。しかし、それを当の守るべきあるじに向けたんじゃ、失格だがな。

「すごい……」

 これまでの騒動にはほとんどどうずることもなかった副会長殿の唇から無意識にこぼれ落ちた、ため息のようなつぶやき。

 それも当然であった。そのとき彼女の目の前で展開されていたのは、けして派手な激闘などというものではなく、むしろ幽玄ゆうげんなるのうの舞いとも呼ぶべきものであったのだ。

 おそらくじょうじんの目に映るのは、互いのやいば交錯こうさくする一瞬だけであろう。まるで軽業かるわざのように、もっとありていに言えばカリオストロな影の軍団みたいに、サロンという三次元空間内を縦横じゅうおうじんに、ねる、る、ける、つ、ぐ、ぶ、く、りつける、月世様であった。

 それは一見基本に忠実な優等生的な剣技に見えて、こちらがほんの少しでもすきを見せようものなら、ためらいもなくまったく予測不可能できょうきわまりない反則技をろうしてくるのであった。

 たとえば、彼女のすそがめくり上がった時ついそっちに目を向けたとたん、痛烈つうれつなかかと落としをくらったり「──闘いの最中にどこを見ておる、このれ者が!」

 あ、これは自業自得でした。

 そんなあるじの速攻に次ぐ速攻に対し、一見防戦一方のようだったしもべではあるが、戦況は刻一刻とこちらのほうが有利に押し始める。

 当然である。護衛が守るべきご主人様におくれを取るなど言語道断であり、その身に受ける訓練の厳しさも、常にあるじが受けるものの数段上を行くものを課せられていたのだ。

「くっ」

 だんだんと本来の獲物である久我山夕樹嬢から引き離されて行き、まゆを寄せることで初めて感情らしきものをその顔に浮かべる巫女姫。

「なぜじゃ、なぜそれほどまでにその女をかばう。まさか本気でわれらを捨てる気ではなかろうな⁉」

だかき巫女姫のたまよ、どうかしずまりたまえ。このままでは今あなたが宿っている、『本来の月世』様の身も心も持ちませぬぞ!」

「ええい、らちもない!」

 そう怒鳴りざま、大きく後方へと飛び退き距離をとり、手にしていた懐刀をためらいなく放り捨てる。

「な、月世様?」


 そのとき少女が、微笑んだ。


 まるで天よりの使つかいのように、じゅんしん無垢むくに。

 死をつかさどる黄泉よみの女王のごとく、凄絶せいぜつに。


「──いかん。副会長、伏せろ!」

 世界が、耳鳴りにおおわれた。

 一拍いっぱく遅れて、よこつらを張り飛ばすような突風になぎ倒される。

 砕け散る窓ガラス。飛びかう無数の書類や文具や調度品。

 吹きすさぶ風圧に、顔を上げることすら並々ならぬ努力を要した。

 しかしそのさいの中心では、華奢きゃしゃな白い人影が、みじんのるぎもなく立ちつくしている。

 舞い上がる袴の裾。大蛇だいじゃのようにその身をくねらす長い黒髪。

 再び取り戻した人形みたいな無表情で室内の惨状を睥睨へいげいするさまは、さしずめ最後の審判のため生きとし生ける物すべての裁きに訪れた、大天使ガブリエルのようでもあった。


 だめだ。彼女が──本物の遠見の巫女が──あの魔女が、ついに目覚めようとしている。


「これは何のイリュージョンなんだ。日向のやつ、いったいどうしたって言うのかね⁉」

 いつの間にかいつくばったままにじり寄ってきていた副会長が、このにおよんでたわけたことをほざきやがった。本当にこの人ときたら。

「何言っているんですか、あなたがやり過ぎたから、こうなってしまったんじゃないですか!」

「なんで彼女にあんなことができるんだ? あれは日向なんだろう?」

「今や彼女は『日向』どころか『月世』でもありませんよ。個人的な恋愛感情だか美学だか知りませんが、あなたは今伝説の『最凶の巫女姫』をよみがえらせようとしているんですよ!」

「いや、まさかこんなことになるとは。たしかに日向の中に何か天堂家の特別な血が流れていることには気がついていたけど、巫女姫とは言っても、せいぜい数日後の運勢とか天候のしを占うぐらいのものかと思っていて」

 まあ、結局はそういうことだったわけだ。

 たしかに彼女は日向の真の理解者であり、その盲目的な愛情から、かなり核心的なところまでつかんでいたことは事実である。

 しかし、それはあくまでも野性的なかんのようなものであり、確証となるものは何ら持ち合わせていなかったわけなのだ。実際彼女はいまだに『日向』と『月世』の区別すら、今ひとつ完全にはつかめていないようだしね。

 そんな彼女が、天堂家数百年来門外不出の『遠見の巫女姫』の秘密や、この世で僕一人しか知り得ない『たった一つの真実』のことなんて、知りようもなかったわけである。

 だが、今はそんなことを、つべこべ考えている場合じゃない。

 このまま『巫女』の復活を許してしまえば、今度こそ本当にわがあるじの身も心も壊れてしまうのだ。

 もはや、ばんきゅうすか。


 しかたない。『この手』だけは、使いたくはなかったのだが。


「潮君、何を⁉」

 あっけにとられる副会長を尻目に、腰をかがめて猛ダッシュ。かすり傷と青あざを生みつつも短い障害物レースをけ、目標のあかはかまめがけて渾身こんしんのタックルを決めた。

あるじ様、ご無礼つかまつる!」


 いったん気を落ち着かせるように大きく深呼吸をしたあと、押し倒した少女のかぼそからおおいかぶさり、ほほを両手ですくい上げ、その花のつぼみのような唇を奪い取る。


 一瞬、静寂が空間全体を支配した。

 みるみる生気を取り戻す、目の前の端整なる顔。やった、成功か⁉

 あれ、何だか真っ赤になってきたぞ。元気よすぎ。

「この──」

 上半身を起こす少女。

れ者が!」

 響き渡る破裂音。火傷やけどのような頬のひりつき。なんともジャストミートな平手打ちであった。

 よし、『月世』に戻ったぞ。第一段階終了。

「この、ばかばかばかばか。潮なんか嫌いじゃ。日向でもそこの女でも、勝手に新しいあるじを選べばいいのじゃ。われはもう知らん!」

 少女の激怒に呼応するかのように、再び荒れ狂いはじめる暴風。

「何いきなりセクハラやっているんだ。前より状況が悪化したじゃないか!」

 そんな心あたたまる副会長の声援を背に、少女の身体からだを自分の胸に押しつぶすようにかかえ込む。

「はなせ、はなすのじゃ、この大ばか者!」

 僕の顔に爪をたてたり、げんこつをお見舞いしながら、身をよじりのがれようともがき続ける巫女姫姿の少女。

 そんな彼女を、さらに力のかぎり抱き寄せ、その耳元で叫んだ。

 ──そう。けして使ってはならない、僕と彼女との、たった一つの『真実の言葉』を。


「もう、やめるんだ、!」


 その瞬間。少女の腕が、あしが、どうが、心が、すべてひょうけつした。

 唯一活動を続けていたきょうがくいろどった表情筋のうち震える唇が、やっとのことで言葉をつむぐ。


「……うしお、ちゃん?」


 まるで七歳のころに戻ったような、あどけない顔。

「どうして、うしおちゃんが、いるの?」

 そしてきょろきょろと不思議そうに、すでに風もやみゆか一面に雑多なものが散らばり落ちているサロン内を見回し始める。

「ここはどこ? 今何時? どうして私こんなところにいるの? なぜ私とうしおちゃんがこんな夜中に知らない場所にいるの?」

 ぶんぶんと長い髪を振り乱し、心底何が何だかわからないように困惑する少女。

 それは現在の彼女に比べあまりにもつたない童女の振る舞いとはいえ間違いなく、ぞくにまみれずじゅんしんな巫女姫様の『月世』ではなく、比較的常識ある良家のお嬢様である『日向』のしょであった。

 さすがの副会長殿も呆然ぼうぜんとした表情で、僕らと十歩ほどの距離をけたままなすすべもなくたたずんでいる。しかしその貴重なまぬけづらをおがんでいるひまなぞはない。


 目の前にいるのが日頃いかにもクールでお嬢様然としている『日向』のほうだからこそ、その混乱ぶりが異様にきわって、まるで発狂一歩手前にすら見える。──やばい、そろそろ限界か。


 唯一の救いを求めるかのように、自分のかたれの名前を叫び始める少女。

「つきよ! つきよはどこ⁉ うしおちゃんは『遠見の巫女』の守り役なんだから、いつだってつきよと一緒にいなくちゃ駄目だめじゃない‼」

「落ち着くんだ、ひなちゃん!」

「落ち着いてなんていられないわ。私これからピアノの発表会があるのよ。いつまでもつきよの身代わりにろうやの中なんかに入っていられないわ。そうだ、お母様はどこ? お父様はどこなの? うしおちゃん探してきて!」

「もういいんだ。ピアノの発表会のことも。しきろうのことも。つきちゃんのことも。おじさんやおばさんのことも。もう忘れてしまっていいんだ!」

「いやよ、うしおちゃん、なんでそんないじわるを言うの⁉ 返して、私につきよやお母様たちを返してよ!」

 もはやただのおさなのように、僕の腕の中で錯乱さくらんし続ける『ひなちゃん』。

 でも僕には、その最愛のおさななじみの希望を叶える手段を、何ら持ち合わせていなかった。


 だってもうこの世のどこにも、『つきちゃん』も彼女の両親も、存在していないのだから。


 ──みんなみんな『ひなちゃん』が、殺してしまったのだから。

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