第二章、その三

 エレベーターのドアがひらくのを待つのももどかしくマンションの短い通路を走り終え、ようやく自分の家へとたどり着く。


つき!」


 部屋のとびらを開ける──予想通り聞こえてくる激しい水音みずおと──浴室に飛び込む──目を見開く──あどけない表情の彼女が振り向く──「うしおちゃん?」


 あの大騒ぎの朝とはまるで別人のような、きょとんとした童女みたいな顔。

 文字通りからすいろに染まった長い髪は、青白く血の気がほとんどせた肌になまめかしくからみつき、いつものひとえもすっかりれそぼち、肌色をおおい隠す機能をあっさりと放棄していた。

 しかしこれを見て、『ブラボー! コレゾ日本ニッポン艶気エロス、ウタマロデスネー!』なんて、コメントする余裕はなかった。彼女が手にしているシャワーノズルからは、湯気はまったく出ていないし。

「……何を、して、いるの?」

みずごり♡」

 水ごりとは、神職にある者あるいはその信徒が神仏しんぶつに祈願するおり、俗世間のけがれを払い精神統一するための──

「そうじゃなくて。身体からだの状態も万全じゃない時に、なに冷水なんかびているんだって聞いているの!」

「うしおちゃん、こわい」

「つきちゃん!」

 もうやく巫女みこ姫様もありゃしない。どうせ家に入ったとこから、すでにタメぐちだし。

 それに何だか向こうの様子も変だぞ。いつもの尊大な巫女姫づらはどこへやら、何やらいとけない感じでうつむいたりして。いや、おじさん困らないから。

「だって、朝から血が、全然止まらないから」

 はあ?

「生理なんだから、しかたないだろう」

「……せいり、って、何?」

 なっ「ちょっと」待てよ、そういえばさっきから、何かいつもとしゃべり方が違うような。

 いや、つね日ごろだって変なんだが、これはこれでまるでよう退行たいこうでもしているかのような……。

「つきちゃんさあ、今年は平成何年「──これは、ばつなの」

 あ、やばい。

 何だか『人形』めいた顔つきになってきた。最初に出会った、あの蔵の中みたいに。

 その紫色にこごえる唇から、続けざまにこぼれ落ちる、悔恨かいこんの涙のようなこと

「こんなとこから血を出したりするから、私巫女の力を無くしちゃったんだもん。だから早く身を清め直して、力を取り戻さなきゃならないんだもん。だって、だって──」

 やめろ、もうそれ以上は言ってはだめだ!


「私に『とお』の力が無くなったから、お父様やお母様は死んでしまったんだもん!」


 気がつけば僕は、その華奢きゃしゃ身体からだを力いっぱい抱きしめていた。冷水に濡れてしんまで氷のように冷えきった、あらゆる感情をなくしてしまったあやつり人形のような頼りない身体からだを。

「お父様ごめんなさい。お母様ごめんなさい。わたしは……わたしは……」

「いいんだ、もういいんだよ。もうつきちゃんがこれ以上、悩む必要なんて無いんだから!」


 シャワーから勢いよくきだす水しぶきが、二人の身体からだなく濡らし続ける。しかし僕はそんなことには構わずに、この世の何よりも──自分自身よりも大切な『おさななじみ』のからを、いつまでもいつまでも抱きしめ続けていたのである。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


 その夜、僕は泣き疲れて眠ってしまったつきを、そのまま自分のどこへと連れ込んだ。


 お断りしておくが、別にやましい考えもサービスシーンもない。冷水を浴びすっかり冷え込んだ彼女の身体からだ人肌ひとはだあたためんという、雪山遭難や海難救助のシーンにありがちな、あくまでも人道的配慮に基づいたものなのである。はい。

 う〜ん。こうしていても案外、ベッドの中に大きなぬいぐるみを連れ込み抱いて寝ていらっしゃる乙女な皆さんの気持ちはわからないものだ。もっと毛深いほうがいいのかな。でもそれだとしん宿じゅく二丁目方面に道を踏みはずしそうだし。

 しかしまずったな。『一日目』は特に要注意だということをすっかり忘れていた。本当にやく失格だ。何だかづらだけ見ていると生理用品の品質調査みたいだけど。

 たぶん、自分の身体からだから流れ出てくるあかい血を意識することによって、『五年前』のあの日のことを思い出しちゃうんだろうな、『月世』としては。

 そう、これが『月世』だからまだいいんだ。もし『もう一人の彼女』が、あの日のことに目覚めたら……。

 僕は目の前の少女を見ながら、同じ長い黒髪と純白の素肌と華奢きゃしゃ肢体からだを持った、昼間の女王様な生徒会長の姿を思い浮かべていた。

 いや大丈夫、彼女は『なた』なのだから。天堂てんどう巫女みこ姫ではないのだから。その身をさいなむ過去など持ち合わせていないのだから。

 しかし、こうして眠っていてまるで人形のような無表情でいると、『月世』も『日向』もあったもんじゃないな。何だか見ているうちに目の前にいるのがどっちのご主人様かわからなくなってしまいそうだ。ちょっと怖いけど同じ一日をシミュレーションしてみたりして。

 日向お嬢様の家に押しかける→風呂場に飛び込む→抱きしめる→同じベッドで寝る。

 たぶん一本目の『→』の時点でこの世から強制排除される確率87%という、コンピュータのおげが──


「……う、うう~ん」


 いかん。思いっきり調子に乗って妄想に意識をゆだねていたら、目の前のご尊顔そんがんがむずかりだしぱっちりと目を開け、

「──な、何をしておる!」

 ようやく生気を取り戻したそのくろすいしょうの瞳は、まず目の前の忠義の臣下をえて、次に自分の身体からだを見下ろし、それから部屋の四方を見回し、最後に再び僕へとロック・オンした。

「何でわれとおぬしが、一緒に寝ておるのじゃ⁉」

 あ、いつもの状態に戻っている。

「よかった、すっかり元気になったようだね」

「よくないわ! 放さんかこのらちものが! あるじを知らぬに自分の寝床に引き入れるとは何事なにごとじゃ!」

「何だよ、いつもは自分からもぐり込んでくるくせに」

「それとこれとは話は別じゃ。いいから白状せい。いったいどんな蛮行ばんこうに及ぼうとしていたのじゃ⁉」

 しゅうしんさいなまれ顔を真っ赤に染め、僕の腕の中で身をよじらせ暴れ続ける少女。

 おお、いつもの巫女姫然としているより、こういうふうなのも新鮮でいいね。少しばかり意地悪したくなっちゃうほどに。

「たまにはいいじゃないの、こうして旧交をあたためるのも」

「きゅうこう?」

 きょとんとした表情で、暴動を沈静化する少女。


「そう。巫女姫だとかやくだとか忘れて、タメぐちを使って遠慮なく身を寄せ合って──十年前、初めて会った時のようにね」


 きょを突かれたように言葉を失い、今度はあっにとられた表情となる。

「だめかい──いや、だめでありましょうか。それならば今からでも態度を改めまして、言葉づかいのほうも──」

「い、いや、だめではないぞ!」

 これまでで一番必死になって、僕のセリフをさえぎる月世。そしてまるで何か『お話』を期待する子供のように、口を真一文字に閉じた真剣な表情で、僕の顔を正面からえてくる。

「つきちゃんはね」

「おう」

「少しまじめ過ぎるよね」

「むう?」

 わずかにまゆを寄せた不快感に構わず続ける。

「自分が巫女姫で無いと、『とおの力』が無いと、天堂てんどう家にとって意味が無いと思い込んでいるよね」

「うぐっ」

「それで少しでも巫女の力を取り戻そうと、毎日毎日いっしょう懸命けんめいがんばっている」

「う、うむ」

「でもそれって、考えすぎだと思うんだ」

「考えすぎ?」

「たとえばね。僕やひなちゃんは、つきちゃんが巫女姫だったから仲良くしてたと思うかい?」

「そ、そんなことはなかろう。……たぶん」

「そうだよ。僕らはただ、つきちゃんという女の子と仲良くしたかっただけなんだ」

「──」

「巫女の力があるとか。天堂家で最も大切にされているご本尊ほんぞんであるとか。そのくせ生まれた時からずっとしきろうの中に閉じこめられていたとか。そんなことちっとも関係ないんだ」

「……」

「それは今この時だって、少しも変わってはいない」

「……」

「天堂本家の年寄りたちのことは知らないけど、僕はただつきちゃんやひなちゃんという、おさななじみの女の子が好きなだけなんだ。だから一緒にいたいと思っているんだ。君たちだからこそ、僕は守り役をしているんだよ」

 すっかり無言化してしまっていた少女が、そっぽを向くように寝返った。あれ? 何か怒らせるようなことを言ったかな。


「……てもよい」


「はあ?」

「何度も言わせるな。よいだけはおぬしと一緒に眠ってもよいと言っただけじゃ! ……昔のようにな」

 そう言って勢いよくこちらへと向き直り、すがりつくように僕の胸元にその顔をうずめる少女。

「こうしておると、何だかなつかしいのう。そなたはたぶん、我の父親に似ておるのじゃろう」

 ありゃ、そちら方面に行ってしまいましたか。たしかおじさんは分家からの婿養子だったから、案外僕の家系と近かったのかも。あとで家系図を調べておくか。

 とか何とか思っているうちに、お子さまな月世ちゃんはすやすやと再び寝息をたて始めました。そんなとこまで教育番組仕様にしなくてもいいのに。

 まあいいか、今夜だけは『父親ヴァージョン』でも。

 目の前には、安らかな寝息をたてている、まるでおさなのようなじゅんしん無垢むくなる寝顔。

 やれやれ、眠っている時だけは『ツンデレ』も『ヤンデレ』もなく、これまた昔通りに素直そうで可愛らしいのになあ。

 そう。眠っているということは、人間の中身である感情や欲望、そしてその人物を識別する個性や人格が、すべて機能停止しているということなのである。


 つまり今この時だけは、僕の目の前にいるのは、『天堂日向そのもの』であると言っても過言ではないのだ。──あのあこがれの天堂本家のお嬢様にして、学園の女王様たる生徒会長の。


 そんなよこしまな思いのままに、改めてその少女をじっくりとながめてみる。

 僕のまきに必死にしがみついている白魚しらうおのようなじっからみついているすべらかで冷たい黒髪。

 更にはこすりつけるようにすり寄せている胸元や太ももは寝乱れたひとえから露出し、そのなまめかしいはくの肌と体温とをむき出しにしていた。

 ──そして、僕の首筋をくすぐり続ける、なまあたたかい吐息。


『ひなちゃん』、どうして君は僕に、こんなにも残酷なことをするのだろう。


 その不実な唇は、目の前の女の子の寝顔をいとおしそうに見つめながら、別の少女の名前を平気でつぶやく。

 なんてきょうな男なんだ。

 こうして甘やかせば甘やかすほど、月世は巫女の力を失っていき、いつまでも天堂本家への帰還が果たせないままになることを、わかっていながら。


 しかしそれこそが、僕の本当の『願い』なのだから。


 忠実な犬のふりをして、大嘘をつき続けて、二人のご主人様を自分だけのものとするための──。

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