28.私という存在の軽さ

 米津玄師のニューアルバムをヘビロテしている。

 その中にPLACEBOという曲があって、歌詞がなんとなく米津玄師っぽくないなと思って耳をそばだてて聴いていた(ガチファンというわけではないのでそれっぽい歌詞が他にあったらご勘弁ください)。もちろん作詞は米津玄師ご本人なわけだけど、なんというか直球の恋愛曲なのだ。じっと聴いていて、ふと、この歌詞の主人公はこの人じゃないとだめなんだろうなと感じた。

 当然たいていの恋愛曲はその人じゃなきゃだめなわけだけど、米津玄師からそれがわかりやすく直球で出てくることが私にちょっとした衝撃を与えた。

 私は、私じゃないとだめな出来事に出会ったことがない。

 どこだって誰にだって取り替えの効く人間だった。

 親友だったはずの子は私を嫌いになり、一生の友情をうたった友人たちとは縁が切れた。誰かに愛されたこともない。親にとっては生まれたのがたまたま私だったから私を愛し育てたというだけだ。私じゃない子が生まれていても同じようにしていたはずだ。

 とても悲しかった。特別ななにかになりたいと、私はいまだに思ってしまっている。諦めきれないでいる。それはたぶん地に足のつかない生き方だ。

 唯一、病気をしがちな飼い猫を私と犬で見つけて拾ったので、私がいなければもうとっくに死んでいたと思う。猫は救いだ。ネコと和解せよ。

 同じアルバムの最後にカナリヤという曲があって、これも恋愛曲なんだけれども、そっちは私を苦しくしたりしない。むしろ美しくて泣いてしまったくらいだ。どうしてPLACEBOがこんなに私を苦しくするのかわからない。

 みなさん歌詞を見てみてなにか気づいたことがあったら教えてください。寄る辺ない高齢喪女より。

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