12.人生設計

 人生設計とか先の展望とか、私には「死ぬ」しかありません。気持ちの上でも現実的なところでもそうです。

 極論、人はみんな死にますが、私にはそれしかないのです。いつどのように死ぬか、本当に死ねるかが私の人生設計と言えば言えるのかも。

 家族を持ちたい、作りたいとも思わない。かと言って自分ひとりさえ食わせていくだけの甲斐性もパワーもスキルもない。それらを得ようという欲求とでもいうのか、気力もない。得たところで長生きなんてしたくもないし、孤独死も迷惑がかかるので避けたい。生き延びる術は得たくないのです。得たらずるずるとこのまま生きれてしまうから。

 かといって実際に自死できるかというと、難しいところです。昔、何度か試みたことがありますがすべて自殺未遂の未遂みたいな感じで終わりました。死ぬのって、生きるのに抗うのってこんなにも難しいんだとそのとき私は痛感しました。

 それに加えて今は抗うつ剤を飲んでいて、希死念慮が和らいでいる感覚があるので更に難しいかと思います。けれど生きていくという自分の姿が一切想像できない。ある程度のところまで生きてしまうというのは容易に想像がつくけれども。

 ただもう、ひとりで死ぬしかないだろうなと思っています。母が死んだらもういいかなとも思います。猫も長く生きてもあと10年いくかいかないかでしょうし、弟は結婚して楽しそうに暮らしていますから私が死んでも問題はないでしょう。この家から、母と私から解放されて彼女と暮らす弟は幼少時以来見たことがないんじゃないかというほど、無邪気に楽しげに笑っていました。ふたり仲が良くて幸せそうです。少くとも私にはそう見えます。だから姉としては本当にほっとしたし、かわいい弟ですから楽しく暮らして幸せになってくれるならうれしいことです。私はせめて弟は家から母から逃したいと思っていたので、今は本当に安心しています。だから猫が死んで母が死んだら私には何も残りません。何もできない、何もしたくないゴミみたいな自分が残るだけです。そうなったらもしかして死ねるのかなと今は思っています。実際はどうかわかりません。

 引きこもりとかいじめで不登校とか、そういう人が福祉や専門の人の手助けを受けて良い方向へ向かっていくドキュメンタリーを何度か見かけたことがあります。なぜ私には手が差し伸べられなかったのか、そのことが悔しく妬ましく気が狂いそうになるのでいつも逃げ出しました。

 恐らく救いの手がない人のほうが多いのではないかと思います。でもそういう人たちってどうすればいいんだろう。私はわからなくて、助けてほしくて救われたくて、今はただひとりここにいます。支えてくれる人もないまま。

 だから、死ぬしか見えないのです。良い方向ってどこなのか、何なのかわからないし、良くなれない。良くなれない人間は社会的にも許されない。

 良くなるために私は薬を飲んでるのかなあ、どうして病院に通ってるのかときどきわからなくなります。生きられるなら生きたいからかな。きっとそうかもしれません。生きてしまうことはできるかもしれない。でも生きられるとは思えないです。

 ひとりで死にます。私はひとりでいるのがわりと好きですが、誰かが一緒に死んでくれたらいいのになといつも思います。一緒に死のうという愛の言葉に憧れています。

 でも、現実はそう綺麗ではないと私は知ってしまいました。夢見がちな馬鹿がようやく気づいた事実です。私の焦がれるものはたぶん現実にはない。だからひとりで死にます。

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