第11話 最後の大実験
真っ暗な闇の中をずいぶんさまよっていたような気がする。
目の前をいくつもの数式が流れて、あずさがどこかで追いかけてくる夢を見ていた。
ところが、目を覚ましてもまだ周りは真っ暗だった。
なんだか変だ。床が揺れている。
まるで、車の中にいるみたいに。
パーッと車のクラクションの音がした。
やっぱりここは車の中だ!
だが起きあがろうとすると、頭の上を堅い板にすって頭の上が覆われていることに気がつく。
箱状のものに入れられているようだ。叩いてみても堅い質感を確認できるだけで、開く様子はない。
こんなことをやるのは八神しか思いつかない。
俺をどこに運ぼうとしているのかわからないが、ろくでもないことをしでかそうとしているのは間違いない。
「もうすぐ目的地に着く」
運転席の方から、知らない男の声がして俺は固まった。
本当に首謀者は八神なんだろうか?
だけど、八神のほかに思いつく人もいない。
まさか八神弘樹かと考えてると、車が急に止まって、俺は額を前にガツッとぶつける。
痛みに一人でうなってると、前の席から男が外に出る音がした。
「本当にここでいいのか?」
「ああ。これから、あの台車を運ぶんだ」
「あの人は何の実験をやるつもりなんだろう?」
「さぁな。あの人の考えることがわかったらノーベル賞ものだよ。とにかく指示された場所に行くか」
すぐそばの扉が開いた音がした後に、俺の入っている箱を研究員が外に引っ張り始める。
箱の下には車輪がついて運べるようになってるらしく、がらがらとコンクリートの上を走る若干ごりごりした振動がし始めた。
この台車はどこに行こうとしてるんだ?
俺は、知っている景色を思い浮かべて場所を当てはめてみる。
コンクリートの音、階段を滑って上る音、なめらかな床。きっと廊下だ。
建物の中に入ってるのかもしれない。
また、箱が斜めに傾き、登り始める。さっきより長い階段を上がっている。
角度はけっこう急だったが、台車の性能がいいのか、運んでる研究員たちが慣れているのか、台車はあまりふらつくことがなく安定していた。
何階まで上がったのかわからない。
だけど、目的の階についたようで、また廊下の上を走る音がする。
それからしばらくして、箱の揺れはぴたりと止まった。
「ここだ」
研究員の一人が言った。
ここってどこなんだ。
底知れない恐怖の妄想が脳裏を駆け巡る。
このまま奈落の底に放り込まれるか、火葬場で箱ごと焼かれるとか、実はこれはB子の策略で冷凍室で冷凍保存されるとか。
大声を出して内側から箱をけっとばしてみるか。
まさに、声を出そうと口を開いた時だった。
「ご苦労様。ここでいいよ」
聞いた声に耳を疑う。
なんでこいつが?
八神でも、弘樹でもない。
聞こえたのは安東の声だった。
「あとは俺がやるから、おまえたちは戻っていい」
「はい、わかりました」
研究員たちが素直に従って立ち去る気配がした。
この研究員たちに指示を出したのは、安東だったということなのか?
扉をあける音がして、台車が動く。
こいつは何をしようとしてるんだ?
何を?
台車は止まらずにそのままさらに移動していく。
その時、小さな一人分の足音が廊下の方からした。
「先生、教えてもらいたいことがあるんだけど」
入ってきたその足音の主はそう言って、安東の足を止めた。
「……どうしたの、A子ちゃん。場合によっては答えられないよ。ぼくは弘樹さんの部下だから弘樹さんに従わなくちゃいけないんだ」
「そうなんだぁ。でも、わたしは知ってるんだよ。ここに『本物』がいるんだってこと」
今度こそ八神が出てきた。
だけど、八神が言う『本物』ってなんだ?
「先生も教えてくれないんだね。お兄ちゃんも、研究所の人はみんなひどい人ばっかりだなぁ」
「A子ちゃん、先生は仕事があるんだ。もういいかなぁ、おしゃべりは」
「ねぇ。その運んでる箱の中身は何?」
安東は答えない。
「先生、わたしの大好きなものを隠しちゃだめだよ」
とたんにガッと箱の外側を金属がえぐる音がした。
八神がメスで先生をねらってはずしたらしい。
俺は驚いてびくっと箱の中で肩をゆらした。
「これを隠してから、君を脅すつもりだったんだけど、まぁいっか」
安東の声はとても落ち着いていた。
「『本物』の場所は教えられない。実は弘樹さんも本物がすりかわってることを知らないんだ」
するっと布がすれる音がして、安東は何かを取り出した。
「修学旅行で、殺人犯がいるから護身用に持たせた電気メスがあったよね。あれ以外にもぼくはいろいろ開発していて、今度はこんな電気鞭を作ってたんだ。悪い子をお仕置きするにはちょうどいいよね」
修学旅行で八神に電気メスを渡したのは数学教師だったらしい。
いやそれよりも、電気メスはかなりの威力があったはずだ。チェンソーとぶつかって火花が散っていたのを覚えている。
「あずさを作るにはA子は邪魔なんだ。もう失敗作はいらない。これはお仕置き……って言うか殺すけど」
これは、いくら八神でもやばい。
ビリビリと電気が走る嫌な音がした。
続いて、大きくものにぶつかる音。
「いやああああっ!」
八神の悲鳴が聞こえた。
俺は箱の天井に向かって思いっきり頭突きをした。
ゴンと頭の上を鈍い音が駆け抜けた。
思った以上に箱は堅くて丈夫だった。痛みがハンパない。
それでも、頭突きを繰り返した。
数学教師は容赦なく狭い部屋で鞭を振り回しているのかあちこちから、電気や鞭のしなる音、物に派手にぶつかる音がした。
「あんまり暴れると、人に見つかるよ。それじゃあ、こうすれば少し静かにしてくれるかな」
俺のいる箱が急に振動し始めた。
と思った瞬間、体全体が電気をくらったみたいにびりびりし始めた。
「うわぁああああ!」
目を閉じてるはずなのに、チカチカ光っている
映像が見える。
八神から受けた痛い記憶ばかりだ、そして、その中にあずさが見える。
「先生、やめて!」
八神が叫ぶのが聞こえた。
だけど、電気はやまない。
全身が電気の歯にかじられているみたいな悲鳴を上げている。
「やめないと、先生、わたしこれを使っちゃうよ?」
八神がそう言ったその時、電気の強さが弱まった。
「それは本物か?」
「試してみる? わたしが作った爆弾だよ」
爆弾。
八神はさらに危ない物を用意していたらしい。
「ここの教室が楽々吹っ飛ぶくらいの勢いはあるよ。先生、わたしを脅すつもりだったみたいだけど、脅そうとしてたのはわたしも同じ。ねぇ、『本物』はどこにいるの?」
ぴたりと電気が止まった。
俺は死にそうなくらい激しく息をして、箱の中を転がっていた。
意識が吹っ飛びそうだ。
「おいおい、バカはやめてくれよ! まさか本気でここに本物がいると思ってるのか!」
「ここにいるよ。絶対に」
「や、やめろ! こっちに来るな!」
安東があわてて逃げようとしたのか俺のいる箱にぶつかった。よほど強くぶつかったのか箱が傾いた。
床に落ちた振動で俺は強く肩を打ちつけた。
「うっげえええっ!」
腕の骨がはずれたかもしれない。
はずれなくても絶対に元の位置からずれている。脱臼したかもしれない。
目の前がちかちかして吐き気がする。
その時、箱の扉が開いた。
「やっぱり柿沼くんだぁ。元気にしてた?」
箱のすきまから、にこにこと緊張感のない八神の顔が見えた。
「元気じゃ…ねぇよ」
手からずるずると箱の外に出ると、俺はべったりと床に頭をくっつけてつっぷした。
「元気になる薬いる?」
茶色い液体の入った小瓶をぶらさげて八神が聞いてきた。
「いらねぇ」
俺は即答すると、左肩をおさえながら立ち上がった。
まだ頭がくらくらするが、八神の作った薬を使うよりはましだ。
周りを見ると安東の姿がない。
「先生は逃げちゃった。どこに行ったのかなぁ」
「そうだ、おまえ爆弾持ってたんだよな!」
「うん。見たい?」
八神はくるっと俺に背中を向けた。
その背中にリュックサックのように、灰色の大きな丸い固まりをひもで何十にも結んでしょっている。
「動くなそのまま!」
「えっ、何?」
八神が無邪気にぴょんぴょん飛び跳ねる。
「やっ、やめろぉおおおお!」
「だいじょーぶだよ。これくらいじゃ爆発しないよ」
八神が余裕の笑みで答えた。
その時。
スピーカーから音声が入る耳障りな機械音が入った。
「校内に爆発犯がいる! 校内にいる生徒、学校関係者各位は緊急避難してください! 今、警察と消防を呼びました!」
安東の声だ。
「やばいぞ、八神。そんなもん持ってたら警察に捕まるぞ」
「平気だよ。捕まる前に使うから」
「使う!? ちょっとまて……」
「先生は放送室かな。行こう」
「まて、走るなぁああああっ!」
爆弾をぶんぶん上下に揺らして走り出した八神に向かって俺は叫んだ。
こんなところで爆発されたら死んでも死にきれない。
その時、俺の後ろから誰かが駆けてきた。
「あっ、君たち!」
振り向くと、そこにいたのは、八神にぞっこんという悪趣味を持つ同級生の桐谷だった。
桐谷はまっすぐに八神の前に来た。
「八神さんっ、ここに爆発犯がいるらしんだ! いっしょに逃げよう!」
目の前にいる八神がその爆発犯だとも思わずに桐谷が言う。
「柿沼くんがいるから大丈夫だよ」
八神は安東を早く追いたいのか、それだけ言うと俺の手をとってまた走り出す。
桐谷はあきらめずに俺たちを追いかけてくる。
「……桐谷くんがいると邪魔だね。チューして寝てもらおうかな」
八神は懐から注射機を取り出してつぶやいた。
「どこで眠らせるんだよ! 爆弾が近くで爆発したらあいつ死ぬぞ! このまま放送室に行ったら、桐谷もついてくるだろうし……」
爆弾を背負ってる八神から目をはなすわけにもいかないし、八神を安東と二人にさせるわけにもいかない。
今度こそ八神は爆弾を使うかもしれない。
それを阻止するにはこれしかない。
「おい、八神、おまえ桐谷を止めろ」
「え、どうして?」
「桐谷はおまえの言うことなら聞くだろ。俺はおまえのかわりに放送室に行っておまえが来るまで安東を足止めする。爆弾も俺に預けろ。そのうちに桐谷を外に避難させるんだ」
「う~ん…」
八神は納得がいかないのか眉をよせる。
「でも、もう放送室の前だよ」
「なんだってっ!?」
学校をさぼっていた罰か、俺は放送室の場所をすっかり忘れていた。
「柿沼くん、桐谷くんをよろしくね。わたし中に入る」
「ま、まて!」
八神が放送室のドアを開けた。
俺も八神を止めようと後ろにくっついたまま、放送室のドアがあいた。
どうなることかと俺は息をのんで待った。
だが、なにも起きなかった。
「いない……」
八神は放送室の中をぐるりを見回してつぶやく。
「どこにいったんだ、安東のやつ」
「え、数学の安東先生きてるの?」
なぜか俺の言葉に桐谷が反応した。
こんな時にうるさいやつだと思いながら俺は面倒くさいと思いながら桐谷を半分振り返る。
「今日は来ないって他の先生が言ってたんだけどなぁ。僕も安東先生を捜してたんだよ」
「今はやめとけ。だいたいこんな時に何の用だよ?」
「乗馬クラブの備品のことで、安東先生に相談したいことがあって」
「はぁ?」
「安東先生は、乗馬クラブの顧問だから」
「そうかよ」
乗馬クラブといえば、部員が桐谷一人しかいない人気のない残念なクラブだ。
その乗馬クラブの顧問が安東だったとは。
「ねぇ、桐谷くん。乗馬クラブの部室ってどこにあるの?」
それまで無言だった八神が口を利いた。
「三階の北階段から左に曲がって四つ目の部屋だよ」
「そこの部屋って誰でも入れるの?」
「鍵を借りるのは僕くらいだよ。安東先生はスペアキーを持ってるからいつでも入れるけど」
「そうなんだ。その鍵ってどこにあるの?」
「鍵なら持ってるよ。ほら」
桐谷が手のひらに鍵を出してみせる。
その時、誰かの手が鍵を奪い取った。
鍵を奪って走る後ろ姿は八神だ。
「ま、まて!」
叫びながら俺は走り出す。
乗馬クラブの部室に、安東がいるかもしれない。
「八神さんどうしたの!?」
目を丸くして追いかけだした桐谷を俺は振り返った。
そして、片足を桐谷の前に出す。
ぶつかってバランスを崩した桐谷は前につんめのって転んだ。
「うわぁ! なにするんだよぉ!」
「悪いな!」
俺は一言謝ると、八神を追いかける。
桐谷がいては足手まといだ。
「先生を避難させるから、おまえは先に外に避難してろ!」
「何で君が行くんだよ!?」
「俺の方が足が速い」
「ううっ、なんでいつも君ばっかりぃ……!」
桐谷の半泣きになった情けない声が聞こえた。
だが、自分の方が足が遅いのをわかっているのかそれ以上は言い返さなかった。
階段を駆けあがる途中で下からも、駆けあがってくる数名の足音が聞こえてきた。
胸騒ぎがして下を見ると、すぐ下の踊り場から警察官が二人あがってくるところだった。
まずい。
俺は八神のいる三階へ階段をまた駆けだした。
三階に着くと、廊下に人の気配がして俺は八神だろうと思った。
「八神、警察が……!」
言いかけて俺は立ち止まった。
八神じゃない。
廊下に誰か倒れていた。
みぞおちに一本のメスがささっている。
頭から血を流した安東だった。
「まさか八神がやったのか……?」
一瞬、死んでるのかと思って心臓が止まりそうになる。
だが安東は目を閉じて肩を上下させていた。
死んではいないようだが、返事を返さない。
すぐそばの部屋の扉が開いている。
扉の上には、乗馬クラブと札がついていた。
部屋の中に入ると、すぐに窓際にしゃがみこんでいる八神の背中が見えた。
それから、部屋に充満する薬品のにおいに気がついた。
部屋の隅に目を走らせると、ふたの開いた棺がおいてありそこから白い煙が少し泡のように出ていた。
「どうしたんだよ、八神」
俺は八神に近づいていって、八神が腕にかかえているもに気がついてはっとした。
「開けたら、こんなになっちゃったの……」
八神のか細い声がした。
その腕の中にあったそれは、茶色く人の形をしていた。
ぴくりとも動かず、もう誰だかわからないほど腐敗している。遺体だった。
だが、俺にはそれが誰なのかすぐわかってしまった。
「あずさなのか……」
茶色く黒ずんではいるが、まだ形の残る瞳を閉じたその顔は八神にそっくりだった。
「わたしが殺すつもりだったのに……!」
八神がしゃくりあげる。
よほど悔しかったのか八神の目から大粒の涙がこぼれていた。
「おまえはあずさを殺したかったのか。でも、あずさはもう死んでるんだ」
「死んでないよ! あずさは生きてるよ! 柿沼くんの心臓の中で生きてる。あずさのことを言うと、柿沼くんの心臓はいつも脈が早くなるもん! わたし秘密で計測してたから知ってるの。あずさは生きてるの。柿沼くんの心臓で。だから殺さなきゃいけないの!」
八神は叫ぶ。
「このあずさを殺して、わたしが八神あずさになるはずだったのに!」
「……おまえは、八神A子でいるのが嫌だったのか?」
「あ、あれ、おかしいなぁ。こんなつもりじゃなかったのに。柿沼くんを苦しめるあずさなんて、大っ嫌い。だけど……やっぱり、わたしはあずさがうらやましいのかな」
A子はあずさと同じ顔なんだろう。
だけど、八神A子はあずさにはなれない。
本物のあずさはもうこの世にはいない。
「それでも、わたしは幸せだよ。柿沼くんがいるから。それだけでいい。だけど、柿沼くんは幸せじゃないじゃない」
まるであずさに言われているような気がして、胸がズキッと痛んだ。
「わたし知ってるんだよ。柿沼くん、理系科目がよくできるから、それだけで有名な大学の推薦受けられるんだって。だから授業をさぼっても大目に見てもらえるんだって。でも、あずさのことがわかったら、過去に人を殺したってわかったら全部だめになっちゃうよね」
八神が俺にほほえみかける。
この世にはいない人のほほえみで。
「柿沼くんに、あずさなんて過去はいらないんだよね。柿沼くんを苦しめるあずさなんて消えちゃえばいい。そうでしょ? だから柿沼くんの記憶といっしょにあずさを消したかった。わたしも消えてしまいたかった」
「消えるって……そんなんでいいのかよ! やっぱりおまえは……」
「ううん、不幸じゃないよ。だって、だってあたしは大好きな柿沼くんにまた会えたんだもん。あたし、幸せだよ、柿沼くん」
その表情は俺が知っていた八神A子のものじゃなかった。
俺の中で今でも輝く八神あずさの笑顔だった。
A子の中にあずさがいる。
あずさはここに生きている。
今になって思い知った。
俺はこの笑顔がたまらなく好きだった。
強引で乱暴なあずさ。
小学校でクラスになじめず、いつもめそめそしてた俺を実験クラブに無理矢理ひきずりこんだ。
顧問の先生をしてもらうために先生の弱みをにぎってゆすったりもした。
実験でクラスメートを驚かせていたずらもたくさんした。
だけど、俺はそんなあずさが好きだった。
俺は今頃気づく。
あずさは俺の初恋だったんだ。
「俺はバカだ……」
小学二年のあの日、俺はあずさを裏切った。
父親を殺したと噂されるあずさを無視した。
クラスメートと同じようにあずさが人を殺したといっしょに噂をしてあずさを遠ざけた。
あずさはどんな気持ちだっただろう。
どんなに俺を憎んだだろう。
一番大切にしなくちゃいけなかったのに。
「しんみりしているところ、ごめんね」
急に後ろから、八神弘樹の声がして俺はびくっとした。
目からはみだした涙が一気に引っ込む。
「A子、ごめんね」
弘樹は部室の中に入ってくると、八神の横に立って八神の肩に手を乗せる。
「お兄ちゃん?」
「あずさの遺体は他のところにあるんだ。それはダミーだよ」
弘樹は目を伏せて疲れたようなため息をはく。
「正直、驚いたよ。君がここまでやるとは思わなかった。思わなかったけど、念のためにあずさの保管場所を移動してたんだ」
「じゃあこの遺体は偽物なのか!」
突然の話の展開にようやく察しがついてきた俺は叫んだ。
「そうさ。研究所に置いてあるあずさの棺に君が異常な興味を示してから、僕はいくつかのダミーを作った。それから、研究所の棺をダミーにしたけど、A子はすり替わってたことに気がついた。だから、この乗馬クラブや他の場所にたびたび移動させてたんだよ」
「本物は……本物はどこなの?」
立ち上がった八神は両手でメスを握っていた。
弘樹はあわてて両手をあげて後ろに下がる。
「うわぁ、もう刺されるのはごめんだよ。だけど、本物の場所を聞いて、僕を殺したところでどうするの? 君は八神あずさにはなれない」
弘樹の言葉に八神の手がふるえ出す。
「殺すなよ。そいつは人造人間じゃないんだ!」
俺は八神を止めようと声をかける。
「……知ってるよ。その言葉、命の実験の時も言ってたよね」
「え?」
「わたし、その時の記憶だけあるの。あずさの記憶が」
「なんだって!?」
俺と弘樹の目が丸くなる。
「柿沼くんは覚えてないんだね。病院でお父さんを見てたあの時、柿沼くんは今みたいにわたしを止めてくれた。だけど、わたしは聞かなかった。柿沼くんとわたしだけの命の実験をしたくてそれしか頭になかった。人が死んだらどうなるのか知りたくて、機械のプラグを引き抜いた。他のことなんて何にも考えてなかったよ……。柿沼くんは悪くない。だけど、わたしがかわいそうな女の子で、柿沼くんの味方になれば柿沼くんはわたしのことを気にしてくれると思った。悪いのはわたしとあずさなの」
こんと八神の持っていたメスが床に無機質に落ちた。
「まさかそんなことが……」
さすがの弘樹もそこまでは想定外だったらしく呆然と立ち尽くしている。
「わたしを殺す?」
「それは……」
弘樹はごくりと息をのんだ。
その時廊下の方から声がした。
「やっぱり情が移ってるから殺せないんでしょ」
安東が扉によっかかってこちらを見ていた。
みぞおちにはまだメスが刺さったままだ。
「こいつは危険だ。さっさと始末した方がいい。柿沼、A子を殺せ。殺人にはならない。こいつを殺しても罪にはならない! なんたって人間じゃねぇんだからさぁ!」
「黙れ!」
弘樹が声を荒上げた。
安東がうっと首をしめられたような声をあげて黙る。
だが、その口がにやっと笑った。
「こっちだ! 爆弾を持ったやつがいる!」
安東が叫ぶと、武装した警察官が駆けつけてきた。
「そいつだ! その女が爆弾を持っている!」
数学教師がまっすぐに八神を指さすと、警察官たちは八神を取り囲もうとする。
八神は警察官たちを一瞥すると、入り口に向かって走り出した。
「八神!」
俺も八神に続くと、すぐに警察が追いかけてくる。
「どこに行くんだよ!」
廊下の端へ八神は走っていく。
階段を上ればその先は屋上だ。
屋上に出る扉の前でようやく八神に追いついた。
「実はね、これ、爆弾じゃないんだ。材料には昨日の鬼ごっこで柿沼くんが手に入れてくれたC3H5(ONO2)3……ニトログリセリンを使って作ったの。ニトログリセリンは爆弾の材料でもあるんだけどね」
「え?」
俺が聞き返した時、屋上の扉が開いた。
外の空気が肌に涼しい。
「爆弾じゃないって……じゃあおまえが背中に背負ってるのは何なんだ」
「メモリーブレイカーっていうの。お兄ちゃんの組織が作ってた記憶を消す装置だよ。装置の設計図はしばらく前に盗んでおいたんだ」
「記憶を消す?」
ばたんと後ろから扉が開く音がして、警察官たちがなだれ込んできた。
もう逃げ場はない。
だが、八神はこの世に怖いものはないとばかりに、ほほえんでいた。
「柿沼くんの記憶を消すの。八神A子の最後の大実験だよ」
八神は、背中にあったリュックをするりとおろして、前に抱える。
「ま、まて……」
例によって嫌な予感が巡ってきた。
八神が抱えてるものが爆弾じゃないにしても安全だと言い切れる百パーセントの保証はない。
「あ、もう時間だ」
ぴかっと八神の抱えるものが光り始めた。
このまま爆発するのだろうか?
記憶が消える前に俺がこの世から消えそうだ。
「柿沼くん、これで八神あずさを忘れて。そして、幸せになってね。バイバイ、柿沼くん」
八神の笑顔が、あずさの笑顔に重なった。
警察官の後ろに八神弘樹が見えた。
「あ……!」
俺は頭にある文句を叫びたかったが、長すぎて時間がなかった。
意識が吹っ飛んだ。
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