第10話 研究室の鬼ごっこ

「柿沼くん?」

 急に八神の声がして俺は少し寝ていたんだと気づいた。

 窓の外はまだ暗い。朝にはなっていないらしい。

 寝ている間も考えごとをしていたらしく、頭がぐるぐるうずく。

 八神の部屋のドアが開いていて、そこから光が射し込んでいる。

「隣に誰かいるけど、何してたの?」

 八神に聞かれて、まだよく回転していない頭で、横を見る。すると、同じ布団の中に倉利が小さな寝息をたてて寝ていた。

 見上げると八神は手にぎらりと光るメスを持っている。

「何もしてねぇ、倉利が勝手に! おい、倉利、起きろ!」

「なんですの、弘樹さんってば」

「弘樹じゃねぇし!」

「ねぇ柿沼くん。毒薬と爆薬どっちがいいかな?」

 怪しげなボトルを両手にもって八神が聞いてきた。

「どっちも願い下げだっ!」

「それじゃあ、毒薬にしますわ」

 寝ぼけた倉利がとろんとした目つきで答える。

「選ぶなよっ!」

「そうだなぁ。……ただ毒薬飲まれるんじゃつまんないね。もっとおもしろくしなきゃ」

 八神は不満そうに眉を寄せる。

 それから、すぐに目を大きく開いた。

「そうだ、おいかけっこしようよ。わたしが鬼。それで二人は逃げて、つかまったらわたしの特製ジュースを飲むの。だけど、捕まる前に、薬品保管庫の015番の薬を手に入れたらその人は特製ジュースを飲まなくていいよ」

「特製ジュース?」

「うん、これ」

 八神はどこに隠し持っていたのか、小さな手のひらサイズの瓶を差し出す。

 瓶の中はいかにも人工着色料が使われているようなきついピンク色で、中に緑色の泡が浮いていた。

「いろいろ混ぜたらかわいい色になったよ」

 だけど、かわいい味になってるとは思えない。

「じゃあ、これから十まで数えるから逃げてね。十……九……はーち」

「えっ!」

 俺は足下の布団につまづきながら走り出した。

 そういえば、靴をはいてない。

「お先ですわ!」

 俺の横を倉利が走り抜けていく。

 布団の脇に転がってる靴をつかみあげると、俺は一心不乱に走った。

 角を曲がり、八神から十メートルは離れた頃に腕時計を確認する。

「うえっ、まだ夜中の三時じゃねぇかよ!」

 八神には時間の常識がないということが新たにわかる。

 前後の廊下に誰もいないのを確認すると、俺はこれまでに一番というほど早く靴をはいた。

 八神も靴をはいているはずだ。

 この時間、誰もいないはずだし、走ってくれば足音ですぐにわかるだろう。

 耳をすませて、足音がしないのを確かめると、俺はため息をついた。

 少し近くから走ってくる音がする。

 やばいとつぶやいてまた走る。

 そういえば、あずさともよくおいかけっこして遊んでいた。

 あずさは鬼になると俺ばっかり追い回してた。

 だから、八神はおいかけっこが好きなのだろうか。

 闇雲に走っていると、消火器しかない袋小路にはまった。

 そういえば、八神はこの研究所の構造を俺よりはずっと知っているはずだ。倉利も同じく。

 圧倒的に俺はこのおいかけっこで不利だということに初めて気がついた。

「そんなとこでどうした?」

 いきなり声をかけられて俺はびくりと固まった。

 声をかけた人物を振り返ると、そこには見知った男がいた。

「A子から逃げてるのか? こんな時間においかけっこだなんて、元気だなおまえら」

 なかば感心したように言うその男は、数学教師の安東だった。

「まぁ俺も若い頃はすげぇ元気だったけど」

「そこ邪魔だ」

 安東は、通路をふさぐように立っている。

 もしここで八神が来てしまったら逃げ場がない。

「おっと、俺はその奥の部屋に用事があるんだ。詰めてくれ」

 俺が何かを言う前に、がらがらと安東は運んでいたらしいストレッチャーを俺の方に向かって押してくる。

「ほら、そこ開けて。A子が追いつくぜ」

 安東はいきなりひものついた鍵を放ってよこした。

 消火器のある壁の奥に、目立たない扉があった。

 そこを開ける鍵らしい。

 俺は渋々、鍵を回して扉を開けた。

 一歩中に入ると、後ろからストレッチャーがつっこんできた。

 ストレッチャーが俺の背中にぶつかる。

「いでっ!」

 痛がる俺を無視して、安東は入ってきた扉を施錠する。

 いつのまにか床に落ちていた鍵を安東が拾った。

「これでしばらくA子は来ないだろ」

「教師の仕事はどうしたんだよ」

「いや、こっちが本職だからもう辞めたよ」

 なんのこともないようにさらりと安東は言った。

 ストレッチャーの上にはさまざまな瓶が並んでいて、安東はそれを部屋の中の棚に戻していく。

「僕はA子ときみの監視役だったんだ。やっと辞められてよかった、よかった。A子はたまに暴走するからハラハラしたなぁまったく。修学旅行の時なんか特に。おまえとA子が宿からいなくなって探しにいったりしてさ」

 あの修学旅行の一件で、気がつけば、自分は宿に戻ってきていて、犯人は警察に捕まったとクラスメートから聞いた。

「警察に通報したのも、俺。うちの生徒に何かあったら困るからな」

「そうだったのか」

 ありがとうとは口が裂けても言いたくないが、このA子の監視役に助けられていた事実を俺は心で受け止める。

 安東のことは、教師として真面目なようでありながら女子の気を引くようなことをやっててなんだかいけ好かなかった。

 だが、ちゃんと生徒のことを守っていたらしい。

「クラスメートの女子にA子がいたずらしかけた時もひやひやしたなぁ。監視対象が殺人なんかやっちまったら俺の仕事がなくなるじゃん。死ななかったからよかったけど」

 安東の言葉に、生徒のことなんかどうでもよさそうな雰囲気がにじむ。

 この偽教師にとっては、生徒より自分の仕事の方が重要だったのか。

 こういうところが、やっぱりいけ好かないやつだ。

「偽教師、薬品保管庫ってどこにあるんだ?」

「なんでそんなところ?」

 と、偽教師安東は首をかしげる。

だが聞くと自分にも八神の災いが降りかかりそうだと思ったのかすぐに教えてくれた。

「ここを出て右の角を曲がって、次の角を左に行って、そのまままっすぐ行くと、第3研究室がある。そこを左にいって階段をのぼって左に曲がると右側にある」

「右、左、第3研究、左、左、だな」

 そう言ってから、鍵を回して扉を出ようとして少し後ろを振り返った。

「じゃあな」

 もう安東に会うこともないかもしれない。

 学校で会うこともない。

「頑張れよ」

 扉が閉まる寸前、数学教師の何気ないエールが、なぜか本物の教師のもののようにまだ聞こえた。


 安東に聞いた通りに道を進む。

 研究員に出くわしてもいいような気がしたが、誰もいなくて、何の問題もなく安東が言ってた第3研究室にたどりついた。

 ここを左に曲がって、さらに左に曲がればすぐ薬品保管庫のはずだ。

 八神がどこかで待ち伏せしてるような予感がするが、とにかく早く着きたかった。

 左の角を曲がり、その先の階段を上り左へいく。

 すると、扉が左にあった。

「ここか?」

 入り口には部屋の名前は見つからないので、そのまま入ってみる。

 中に入ると、薬棚と思われる棚が壁にしきつめられた部屋だった。

 部屋の中央には大きな机が置いてある。 

 八神が言っていた薬はどこにあるんだろう。

 一番奥まで進むと、大きな鉄の扉があった。

「なんだこれ」

 薬がありそうというより好奇心で少し中をのぞいてみたくなる。

 扉のレバーを上にぐいっと引き上げると、鉄の扉は簡単に開いた。

 開いた扉のすきまに顔をつっこんでみると、中から冷たい空気が出てきた。

 奥の方に、また棚が置いてある。そこにも薬がおいてありそうだ。

 慎重に入り口の段差をまたいだその時、後ろから何かに背中を強く押された。

「うわっ!」

 ばたんと鉄の扉がしまる音がする。

 見上げると、白いシャツにプリーツスカートをはいた倉利が俺を見下ろしていた。

 床についていた手が異様に冷たくて、立ち上がる。

 ここは雪山のように寒い。

 腕を片手でつかむと、肌の表面が張り付いたように冷たい。

「ここは、冷凍室ですわ。氷点下でしか保存できない品を保管してあるそうですの」

 倉利はうふふと笑う。

 俺は自分の吐いている息が白いことに気づいて、外に出ようと扉を押そうとした。

 すると、後ろから倉利が抱きつくようにして、俺の両手を押さえつける。

「なに考えてんだ、おまえ!」

 寒さで動きの悪い俺はふるえながら叫ぶ。

「わたくし、ずっと考えていましたの。このどうしようもない思いを消すのにはどうしたらいいのかと」

 俺の両腕をつかむ倉利の手に力がこもる。

「わたくし、さびしいんですわ。この冷たくて暗い部屋はわたくしの心のよう。このさびしさを埋めたい! そのためには、この心の部屋に人を入れておかなければ」

 倉利の頬が冷えきった背中にぴっとりとくっつく感触がする。

「くっつくな、はなせ! っていうか、相手にする人間がちがうだろ! 道連れにするなら弘樹にしろよ!」

 倉利の顔が俺の背中から離れた。

 ぱさりと布が落ちる乾いた音がした。

「弘樹さんは優しいのに冷たい方。わたくしのことなんて、きっと実験動物くらいにしか思っていないんですわ……。わたくしなんてただの人間を模した実験体でしかないですわっ!」

 その時、後ろを向いた俺は倉利が真っ裸で立っているのをみた。

 そして、その体に黒い横線が刻まれている。鎖骨に刻まれているそれはバーコードのようだ。それから、腹部にある縦横にわたる痕跡。

「ねぇ、柿沼さん。柿沼さんはわたくしたちをどう思います? わたくしたちは人間に見えますか? ……八神さんをどう思いますか?」

 倉利は真っ白な手を差し出す。

 俺は凍り付いたように手足が動かなくなっていた。

 このままだと本当に死ぬかもしれない。

 そう思ったその時、後ろの扉が開く気配がした。

「あんた、本当に死にたいみたいだね」

 開いた扉から現れたのは八神だった。

 今までこんなに険しい表情をした八神を見たことがあっただろうか。

 その瞬間、俺の脳裏にあずさの顔がひらめいた。

 怒ったときのあずさはこんな顔をしていた。

 眉間にしわをよせて、とても険しい目をした。

 八神が初めてはっきりとあずさに見えた。

 俺は八神に腕を引っ張られて、冷凍室から外に出された。

「や、やめて、八神さん! わたくし、本当に一人になってしまいますわ!」

 冷凍室の内側から倉利の悲鳴が聞こえたが、それも扉のしまる音で途切れた。

 ガチッと扉を固く施錠する無情な音がした。

「お、おい、これはまずいんじゃ……」

「これくらい大丈夫。お兄ちゃんがすぐくるよ。行こう」

 俺を引っ張る八神の後ろ姿が誰かと重なった。

 もう何年も前の一人の少女に。

「あずさ?」

 思わずそう呼んだ。

 振り向いた時には、あずさが返事をするような気がした。

「どうしたの柿沼くん?」

「……いや、なんでもない」

 やっぱり、ここにいるのはあずさじゃない。

 あずさを元に作られた人造人間の八神A子なんだ。

 あずさは死んだ。

 何を考えてるんだ。

 俺たちのすぐ真向かいにあるのが薬品保管庫だった。

 薬品保管庫の扉が閉まる寸前に、駆けてきた弘樹の白衣姿が見えた。

「B子!」

 弘樹は本当に倉利のことを実験体としてしか見ていないのだろうか。弘樹にはどう見えるんだろう。

 そう思ってるうちに扉はしまった。

 八神は迷わず、保管庫の壁に沿うように陳列されている棚を進んだ。

「あったあった、これだよ」

 薬品庫、015の薬品を見つけだすと、八神はその番号の瓶を取り出した。

 俺は瓶にかかれている化学式を無意識のうちに読んでいた。

 C3H5(ONO2)3

「はい、これで鬼ごっこおわりね。鬼が薬手に入れちゃったから柿沼くん負けだね。わたしの特製ジュース飲むんだよ」

「うげっ!」

「しーしずかに。お兄ちゃんがB子をつれていくまでここに隠れていようよ」

 八神は瓶を手に転がすように持つと、四十センチくらいの小さな脚立の上に座った。

「B子はね、死んじゃだめなんだよ。だけど、わたしは違う。B子とは違うんだもん。わたしはB子を完成させるために作られたから」

「もしかして金を出した投資家がほしがってるのは、倉利の完全な姿なのか」

「うん」

 うつむく八神はどこか寂しそうに見えた。

「おまえもさみしいのか?」

 倉利と同じように。

 はっと驚いたように一瞬、八神は俺を見た。

 だが、八神は首を横に振った。

「ううん。わたしには柿沼くんがいるもん」

 本当にそうなんだろうか。

 それでいいのか?

 この疑問は解けない。

 俺にはわからない。

「お兄ちゃん、そろそろ行ったかな。わたし、特製ジュースを取りに部屋に戻るよ」

「あっそうか」

 八神を見送ると、俺は迷わず逃げることにした。

 そんなものを飲んだら無事に生きていられる自信がない。

 隠れ場所を探してうろついていると、細胞の部屋と呼ばれている部屋の前まで来た。

 そこに、あずさの棺が安置されていると弘樹から教えてもらっていた。

 俺はしばらく立ち止まった後、その部屋の扉を開けた。

 細胞の部屋は、水槽がたくさんあって、緑色の光に包まれていた。

 ここで増殖する細胞。命。

 その中に、ひっそりと眠るようにあずさの棺はおいてあった。 

 あずさの父親が死んだとき、「死」が一体なんなのか俺はよくわかっていなかった。

 小学生で子供だったからかもしれない。だけど、本当にそうだったのだろうか?

 そんなのただのいいわけじゃないのか?

 やっぱり俺は罰を受けるべき人間なんだ。

 思い返せば、八神という存在は、俺を痛めつけるための悪魔みたいなやつだ。

 八神は、俺を罰するためにやってきたのかもしれない。

 そんなことを考えてると笑えてきた。

 一人で棺の前でくつくつ笑った。

 それからひざまずこうとして思いっきり、あずさの棺に自分の頭をぶつけた。

 痛かった。どこかからの視線を感じた。

 あずさは俺を見ている! 

 ばかばかしい俺を見ている!

 息は荒く、体がぶるぶるふるえた。

 今度は頭をがつんと自分から棺にぶつけて、俺は長いこと懺悔するようにそのまま棺に頭をのせていた。

 気のせいか変な薬のにおいがするような気がしたが、ここは研究所なので薬品のにおいがしてもおかしくはないと思って気にしなかった。

 そのうちに眠気に襲われてずるりとあごが棺から落ちた。

「ごめんね」

 どこかで誰かの謝る声がした。

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